■ウィリアム・モリスの生涯――概略を知りたい人には
 1834年ロンドンで富裕家の息子として生まれる。1896年死亡。存命中のヴィクトリア時代ではむしろ詩人として有名で、桂冠詩人の候補にも挙がったが、「女王陛下のおかかえ詩人」などは信条に反すると拒否した。
 オックスフォード大学入学後、美と歴史への興味が花開き、詩を書き始める。このころエドワード・バーン-ジョーンズ(のちの画家・ラファエル前派)やフィリップ・ウェブ(建築家)と知り合う。
 絵のモデルだったジェーンと結婚、二人の娘に恵まれる。新居レッドハウスの建設・内装をきっかけに、デザイン会社・モリス商会を立ち上げ、タペストリー、壁紙、家具、ステンドグラスなどを扱った。手づくりの工芸を愛してアーツ・アンド・クラフツ運動の先達となる。
 モリス商会は成功したが、美を味わえるのは少数の金持ちのみという現実を嫌い、危険視されていた社会主義運動に近づく。1883年、49歳を前にして「社会主義者」と宣言し世間の集中砲火を浴びた。それでもモリスは運動の要となり、健康を害するまでの約10年余、全国を奔走した。だが創成期の革命運動の道は険しく、モリスは分裂と対立に苦しんだ。
 運動を支えて精力的に機関紙に執筆するだけでなく、そのあいまを縫って、未来社会を描いた『ユートピアだより』や農民一揆に題材を得た『ジョン・ボールの夢』、そのほか『世界のはての泉』などのファンタジーを次々と発表、独自の装丁で出版もした。また「古代建築物保存協会」も指導し、南ケンジントン(現ヴィクトリア&アルバート)博物館の検査官も勤めた。62歳での死を、医者は「激務のゆえ」と評した。

  ■もっと詳しくモリスの活動を知りたい人には
 ウィリアム・モリスは1834年3月、ロンドン近郊ウォルサムストーで、シティの財産家の長男として生まれた。幼いころから物語りが好きで、ウォルター・スコットの小説を読破した。

 1853年、オックスフォード大学エクセターカレッジに入学。中世の雰囲気を残す町に魅せられ、バーン-ジョーンズと建物や彫刻を探索。あふれるように詩を書き始め、同人誌も発行した。入学は宗教の道をめざすためだったが、その偽善性に幻滅し、芸術をめざすことを決意。大学で教鞭を取っていたジョン・ラスキンの芸術論にも大きな影響を受ける。またラファエル前派の画家ロゼッティとも知り合い、一時は画家をめざしたがうまくいかず、建築家になることも試みた。

 画家として成功した友バーン-ジョーンズと異なり、モリスは画才には恵まれなかった。だがこの欠点が逆に、アーツ・アンド・クラフツの分野へとモリスの視野を広げることとなる。モリスはヴィクトリア朝時代の建物やインテリアが気に入らず、新妻との新居として、友フィリップ・ウェブがケント州にレッド・ハウス(現在ナショナルトラスト管理)を建築、内装はモリスとその仲間が手がけた。レッド・ハウスには現代にも通じるモダンさと中世とがミックスされている。

 それをきっかけとして設立したモリス商会では、モリスはデザインから染料の選択、織りなど、すべてまず自分で手がけた。(コッツウォルズのケルムスコット・マナーには素人モリスが織り職人として成長する過程を如実に示す1枚のタペストリーが展示されている) 彼は優れた工芸職人であり、それを誇りにしていた。モリスにとって工芸労働は自然との対話であった。これをとおしてモリスは、「ものは美しいか醜いかのどちらかだ。自然と調和していれば美しい」(『小芸術』1877年)と確信する。美を創造する活動はモリスの喜びであり、拠りどころだった。だが、資本主義形成期のロンドンには農地を追われた農民が労働者として流入し、見るもおぞましい生活を強いられていた。この大都会ロンドンの醜さと大多数の惨めな生活は、モリスの大きな悩みだった。

 1876年、英国はいわゆる「東方問題」に揺れた。トルコがルーマニアでクリスチャンを大量に虐殺。英国はトルコを支持してロシアに宣戦布告しようとしていた。政治を嫌っていたにもかかわらずモリスはこれを無視できず、初めて戦争反対運動に参加、ただちに創設された「東方問題協会」の財政部長となった。有名な詩人で起業家のモリスの参加は人々を驚かせた。このときモリスは集会で労働者たちと出会い、そのエネルギーに感動。「労働者が運動を主導せよ」という声明を発している。この運動はしかし、グラッドストーンなどの政治家の議会戦術に利用され、モリスは失意のうちに手を引く。

 モリスの関心は、別の問題に向けられた。当時の英国では、新しい経済の発展のために古い建物が次々と破壊されていた。また建築家や教会が儲け優先で伝統的建物を「復原」修理し、貴重な特徴が消えつつあった。このまま放置すれば先人たちが丹精こめて残した美が消えていく――危機意識にかられたモリスは、1877年に古代建築物保存協会(SPAB)を設立し運動を開始する。

 二度と政治には関わらないと決めていたモリスであったが、芸術が金持ちだけのために「薄っぺらに生きていくくらいなら、すべての芸術は一掃されたほうがいい」(『小芸術』)という思いは消えず、1882年暮れにはハインドマン率いる「民主連盟」の会合に参加し始める。1883年1月には「社会民主連盟」と改称して英国初の社会主義団体となった連盟にモリスも参画し、オックスフォード大学での講演でそれを宣言する。「著名な詩人で高級デザイン店の持ち主」の人生半ばでの「転換」に人々は驚愕した。ペルメル・ガゼット紙の意地悪い論評に対してモリスは「わたしのこれまでの20年間は、民衆の芸術の立場からの競争的商業に対する闘いだった。中世の芸術への純粋な賛美からスタートした一人の芸術家・職人・雇用主が、あらゆる階級の人々との現実的関わりをとおして積極的な社会主義へと駆られたのだ」と反論を投稿している。

 
「社会主義者同盟」ハマースミス支部の同盟員証
財政部長モリスのサインがある
書記長エミリー・ウォーカーは、ケルムスコット出版の
活字体を作るのに協力したプリントアーティスト


Courtesy the William Morris Society

 モリス自身が承知していたように、政治への関与は平坦な道ではなかった。10年余のモリスの活動は、分裂と対立の連続だった。まず、ハインドマンによる組織の私物化・独裁者的態度に耐え切れず、1884年12月、モリスはバックス、エイブリング、エレノア・マルクスなどとともに「社会主義者同盟」を結成。モリスはその機関紙編集長、財政部長となる。モリスは自分が素人であること、また経済学に弱いことを自覚しており、マルクスの『資本論』(フランス語版)を読むなど真剣に学んだ。社会主義を広めるために全国を駆けめぐり、労働者や知識人に講演をおこなった。鉱山労働者のストの応援などにも駆けつけている。モリスの芸術と健康を気づかう、良き理解者ジョージアナ・バーン-ジョーンズ(エドワードの妻)に対してモリスは、「仕方ないのだよ。思いに取りつかれてもうやめることはできないし、ほかのことは考えられない。どうしてこれ以外のことができる?わたしには社会は人食い社会だとしか思えない。いやそれ以下だ。腐敗し偽善と嘘に満ちている。だから、わたしには希望の道は一つしか見えない。それが革命への道なのだ」と手紙をしたためている(1885年10月)

 1880年代後半の英国は失業問題に揺れており、トラファルガー広場では自然発生的に失業労働者の抗議集会がおこなわれていた。雇用を求めるデモが組織され警察の大弾圧を受けた(1886年2月の「黒い月曜日」、1887年11月の「血の日曜日」―モリスもデモを率いる―など)。 生まれたばかりの社会主義運動は、このように沸騰しつつある労働者の運動を十分指導することができず、方針上の対立がただちに組織分裂に直結した。結成後3年たらずの1887年、バックスやエレノア・マルクスらは議会参加をめぐって「社会主義者同盟」から脱退、再び「社会民主連盟」へと舞い戻った。残った「社会主義者同盟」内部ではアナーキストが多数を占め始め、モリスは役職を奪われる。一部アナーキストの扇動に危機感を持ったモリスは財政を引き上げ、脱退して、1890年に地元で「ハマースミス社会主義者協会」を結成した。モリスは若い同志に、「われわれには、まるで不和という呪いがかかっているようだ。こんな状態では辛すぎて仕事できない。(平和を求める)社会主義者が、同志に対して酷いことをするとは!」と嘆いている(1888年12月) 

   とはいえ、アナーキストとの論争をとおして、モリスが未来社会のイメージをより具体化したともいえる。モリスはアナーキストの自由な気質、「国家社会主義」に対する嫌悪を理解した。人々があらゆる方面に自由に能力を伸ばすことがモリスの理想だった。だがそれには無政府状態ではなく、社会が必要だ。社会の構成員のさまざまな興味を発展させるためにも、最低のルールが必要だ――モリスはこう考え、分裂のさなかに執筆した『ユートピアだより』に結実させた。そこでは、果てしなき討論のあとに眠った社会主義者が、美しい未来のロンドンで目を覚まし、苦労を知らない美しい人々とテムズ川を旅し、社会のシステムを垣間見る。この物語りは、正統派社会主義者が毛嫌いしていたスタイル―未来社会の空想―であえて執筆された。自分の未来像は「人には奇妙かもしれない」が、一人ひとりが自分なりの夢を持ちそれを渇望することが変革の鍵だとモリスは主張した(『未来の社会』1887年)。

 モリスの結婚生活は幸せとはいえなかった。妻ジェーンは当初からロゼッティを愛していた。だがモリスは妻の自由を尊重しつつ結婚生活を続けた。愛する娘たちの母を、ヴィクトリア時代の人々のゴシップから守るためだったのかもしれない。未来社会の結婚についてモリスは、「愛があるときのみ成立し、愛が失せれば解消するが、できればその後も友情が残ってほしい」(書簡集1886年10月)と答えている。モリスがこよなく愛した二人の娘のうち次女のメイは、モリスの同志でもあった。今日モリスの社会主義論文の多くを目にすることができるのは、メイ・モリスに依るところが大きい。

 モリスは晩年も社会主義団体をまとめようと、1893年には共同宣言の採択などにも尽力したが、力及ばなかった。健康は損なわれ、1895年には療養生活を強いられた。1896年9月、療養先から「すぐに来て優しい顔を見せてくれ」とジョージアナに、「調子はとても悪いが、良くなるように頑張っている」と若い同志にたよりを出したが、翌月10月3日に死亡。多くの労働者がその死を悼んだ。なきがらは、モリスが愛したケルムスコット・マナーのそばの小さな古い教会の庭に葬られた。

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