ちょっと横道

マウントソレル村物語――英国レスターシャーで垣間見た村の暮らし

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その5

奴隷貿易廃止が構想されたロウスリイ村
 

 マウントソレル村からひとつレスター寄りにロウスリイRothleyという村があります。ここも素敵な村で、粋なカフェやパブレストランが立っています。雑貨屋も、クリスマスや誕生日のプレゼントを選ぶのにピッタリのお洒落な店構えです。クウォーンほどではありませんが、住宅地としてはマウントソレルよりは少しレベルが高め。そのロウスリイの広場でバスを降りて西へ歩くと、しだいに住宅がまばらになり牧場や野原が見えてきます。楽しい田舎道です。その先に建っているのがロウスリイ・コート・ホテルで、中世から続く領主の館(マナーハウス)を改造したホテルですが、その歴史をお話しする前に、道沿いの楽しみをまず紹介しましょう。

 バス停から10分くらい歩くと橋を渡りますが、下を通っているのは川ではなく鉄道です。かってレスターとラフバラを結んでいたGreat Central Railwayの一部です。ご多分に漏れず、このローカル線も廃止されてしまったのですが、うれしいことに一部区間は蒸気機関車を使った観光鉄道として保存されています。ちょうど橋の下には「クウォーン&ウッドハウス」という駅があり、昔ながらの雰囲気が保たれています。わたしは、たまたま蒸気機関車が到着する日に通りかかったようです。たくさんの人がプラットホームでにぎやかに待っているのに惹かれて降りてみました。ホームは雰囲気があってドラマにでも出てきそうです。この日は、駅長室を使ってカフェも開かれていて、善男善女が赤々と燃える暖炉のそばでお茶とケーキを楽しんでいました。部屋には昔の鉄道の写真も飾られています。こうした行事の運営はボランティアで行われ、収益はこの鉄道保存に使われるそうです。日によっては、19世紀の服装をして列車に乗る日、チャールストン風の20年代衣装で乗る日などのイベントもあります。駅舎がそのままなので、きっと難なくタイムスリップできることでしょう。この古さを生かしてロケに使われることも多く、2004年にはテレビの人気シリーズ「ミス・マープル」の「パディントン発4時45分」にも登場したそうです。
 蒸気機関車の運転士 (Great Central Railwayのホームページより)

 蒸気機関車を見送ったあと橋の上に戻ると、橋のたもとにはオーガニックのお店があることに気づきました。新鮮な野菜、ケーキやパン、いろんな種類のチーズなどが並べられており、ご近所に住むちょっと裕福そうな人たちが売り子とのんびりと会話しながら買い物をしていました。店先には安売りの旬の野菜を売っています。その野菜とピザ風のパンを買って、わたしは先を急ぎました。牧場を横目で見ながら、つい小腹がすいてパンを取り出してかじりました。すると、牧場で草を食んでいた馬の一匹が、急に牧場のフェンスのそばまで駆け寄ってくるじゃありませんか。ずいぶん人なつっこい馬だなあと、ハローと声をかけると、どうやら視線はわたしのパンに。「こういう人間の食べる塩気のきついものは、あなたには向かないのよ」と引き取ってもらいましたが、彼はいつまでもつぶらな瞳でわたしを見送っていました。誰かに人間の食べ物の味でも覚えさせられたのでしょうか。

 少しカーブした並木道をさらに行くと、ロウスリイ・コート・ホテルの石造りの建物が見えてきました。ホテルは16世紀の建物を改造したものだそうです。広い庭にはクジャクが放し飼いにされています。豪華そうなホテルですが、60ポンド(約8000円)くらいから泊れます。泊らなくても、庭でお茶を飲むだけでものんびりしていいものです。この建物には、中世からのいろんな歴史が刻まれています。
 ロウスリイ・コート・ホテル(同ホテルのホームページより)

 11、12世紀のころ、イギリス中部のこの一帯は、十字軍の流れを汲むテンプル騎士団・テンプラーズの本拠地でした。ホテルには11世紀の礼拝堂が残されているといいます。せっかくだから見学させてもらおうと聞いてみました。ホテルスタッフは面倒くさそうに「あっち」としか指さしてくれません。おそるおそるその方向に行ってみてもそれらしいものはなく、行き止まりのように見えます。でも目を凝らして見てみると、壁と思ったのは大きなドアでした。思い切って開けてみると、意外に広い空間が隠されていました。確かに礼拝堂で、ひざまずいて祈るための作り付けの椅子が並び、奥にはマリア像がありました。ただ、礼拝堂のイメージからすると殺風景で飾りも少なく、閉じ込められたような圧迫感がありました。それもそのはず。窓らしい窓がなく、中世以来と思われる壁がむきだしなのです。ここでエルサレム遠征を誓ったのでしょうか。この地から遥かな中東への遠征をもくろむ中世の騎士たちの一念を思うと、おどろおどろしい空気が漂っているような気がしました。「野蛮な」異教徒を武力で改宗させ聖地を奪おうというのですから、その暗い情熱―怨念?―が残っているのかもしれません。世界は、果たしてそのころからどれくらい進歩したのでしょうね。

 のちに、エジンバラ郊外にあるロスリン礼拝堂(Rosslyn Chapel)を訪れたことがありますが、そのとき、同じ中世の礼拝堂でもこんなに違うものかと思いました。ロウスリイのテンペラーズ礼拝堂が殺風景なのに比べ、ロスリン礼拝堂はステンドグラスをとおして光が踊っており、堂内には石工たちの喜びがほとばしるような彫刻であふれているのです。この礼拝堂はベストセラーとなった『ダヴィンチコード』の最期のシーンに登場して一躍有名になり、見学者の数が激増しました。もっとも、小説での謎解きの鍵になる地下の部屋の様子はまったくのフィクションで、その場面を求めてくる人たちにはお気の毒としか言いようがありません。作者も罪作りなことをするものです。でも、そんな興味がなくてもロスリンは訪れる値打ちがあります。キリスト教以前のイギリス土着の自然信仰に基づいた「グリーンマン」の彫刻などがあちこちに施されています。グリーンマンとは文字通り「緑の人間」で、絡み合う葉っぱの真ん中が人の顔になり口を開けています。植物の生命力を表現しているそうです。そういう彫刻も悠久の時間に化粧され、エネルギーに満ちていると同時に穏やかで、癒しの光線まで出しているようなのです。
 ロスリン礼拝堂 (ホームページより

 その礼拝堂と比べると、暗く面白味のないテンペラーズの礼拝堂です。とはいえ、それがホテルのなかでひっそりと忘れ去られているのは残念な気がします。まあ、壊されていないだけ幸運なのでしょうか。好みであるかどうかにかかわらず、何百年の時間を経てきたものがわたしたちの時代で無くなってほしくありません。モリスは、現代の観光客に大人気のビッグベンと国会議事堂は大嫌いでしたが、それでも歴史的建物として残しておくべきだと考えていました。『ユートピアだより』のなかで、未来の人たちがその「醜い国会議事堂」を過去の(審美眼の?)証人として保存している様子を描いています。(もっとも、モリスらしく「堆肥の置き場所として」と茶化していますが)


奴隷貿易廃止宣言のマナーハウス

 ロウスリイには、もっと覚えておきたい歴史もあります。18世紀末から19世紀にかけて、ここで奴隷貿易廃止の草案が練られたのです。廃止宣言を起草したウィリアム・ウィルバーフォース(1759〜1833)といえば、イギリスの子供たちも必ず歴史で学ぶ人物。貿易廃止まで20年近く法案成立に献身しました。いろいろ文案を思索しながら、彼もこの庭を歩いたのでしょうか。残念ながら、彼が滞在した部屋が残されている形跡はありませんでした。

 そのころ、マナーハウスはバビントン家のもので、当主はトーマス・バビントン。国会議員でもあったバビントンは、ケンブリッジ大学のセントジョンズカレッジでウィルバーフォースと同級でした。バビントンにはプランテーションで管理者として働いていた妹婿がいました。その義弟から話を聞いて、バビントン自身も奴隷問題の理不尽さに気づいたそうです。ウィルバーフォースは1791年ごろから奴隷貿易を禁止する法案をなんども議会に提出してきました。当時の国会議員たちは上流階級を代表しており、奴隷の存在を当然と考えていますので、その頑迷さと闘うためにウィルバーフォースは健康を害したといいます。バビントンは彼を自然豊かなレスターシャーに招き、ウィルバーフォースは当地で体力を回復しながら法案を起草したと思われます。
     
 ウィリアム・ウィルバーフォース   ウィルバーフォースたちのチラシ。
                     「Am I not a man and a brother わたしも人間で兄弟じゃないのか」と書かれている

 奴隷貿易の凄惨な歴史は、わたしがイギリスにいるあいだにも何度もマスコミの話題になっていました。ちょうど、廃止から200周年にあたっていたからでしょう。大西洋に面したリバプールは大きな港で当時の貿易の中心でした。奴隷貿易の拠点でもありました。リバプールには、その負の歴史を明らかにした博物館があります。アフリカの黒人たちは何百人と狩られて捕えられ、船底に押し込まれて、自分たちを売るための航海の動力として使われながら売られていったのです。船はアフリカからイギリスを経由して西インド諸島やアメリカ大陸へと渡りました。過酷な旅の途中で多くの黒人が亡くなりました。やっと生き残れば、奴隷として販売される運命が待ち構えているのです。しかも、直接手を下して狩りをしたのは白人だけではなく、村民を集めて差し出した酋長たちもいたと言われています。お金や、白人社会の文明の利器などの褒美に目がくらんだのです。人間を物のように売買する制度は宗教的にも人間的にも許せないと感じた人たちが、まずは貿易の廃止を訴え始めました。ウィルバーフォースはその先頭で闘ったわけです。イギリス国会はついに1807年、奴隷貿易を禁止しました。

 でも、これは奴隷を国家間で売買する貿易の禁止を意味するだけで、奴隷制度自体が廃止されたわけではありません。ウィルバーフォースは、その後も、奴隷制度そのものの廃止のために献身しました。イギリス国会が奴隷制度の廃止法案を通過させた1833年、それを見届けたウィルバーフォースは3日後に息をひきとりました。アメリカの奴隷制度が最終的に廃止されたのは、さらにそれから30年あまりあとの1865年でした。

 そういうわけで、奴隷貿易が禁止されたあとも奴隷制度が残っていましたから、その間は「需要」に応じて密輸が続きました。その様子がリバプールの博物館で伝えられていました。奴隷商人たちは監視船を見つけると「証拠」の黒人に重りをつけて海に沈めたというのです。人間を人間としてではなく、ただの「積み荷」として扱ったのです。禁輸の積み荷として。こういうことが出来る人たちには、古い時代劇のセリフではありませんが「てめえら、人間じゃねえや!」と太刀を食らわせたい気がします。人間を人間として扱えない人は、動物にたいしても地球にたいしても非人間的に振る舞うのではないでしょうか。

 あれから約200年。奴隷制度のように露骨な人間の搾取は制度としては無くなりましたが、人を人間として遇せず物あつかいする風潮は世界のあちこちにまだ残っているのではないでしょうか。母国での迫害を逃れて難民申請をする人たちにたいする「先進国」の扱いも、とても残酷です。日本の移民行政も例外ではありません。アフリカやアジアの人たちへの偏見を前提にしているとしか思えないような対応で、命の危険を感じてパスポートも持たずに国を飛び出した人たちを牢獄のようなところに閉じ込め、迫害されていたことを自力で証明するように求めるのですから。世界から奴隷状態や暴力や戦争が無くなり、人々がどこでも住みたいところで住める世界はできないものでしょうか。ロウスリイのホテルで緑の庭を眺めながらお茶を飲む――そういうリラックスした時間を誰もが持てているわけではない。そう思うと、おいしい紅茶も、少し舌を刺すような気がしました。

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