抄訳:モリスの手紙
Letters by William Morris
出典:The Collected Letters of William Morris Edited by Norman Kelvin
翻訳:城下真知子(
読みやすいように適宜改行しています

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 1890年 


 
 [
訳者から]

 1890年に入ると、「社会主義者同盟」内でのアナーキスト勢力の力は、ますます強くなり、モリスらは次第に少数派になっていく。5月25日に開催された「同盟」第5回年次総会で、ついにモリスとスパークリングは敗北して役職を解かれ、編集長にはアナーキスト派のニコルとキッツが就任する。モリスはこの年も全国への講演を続けているが、しだいにその影響力は限られたものとなっていった。モリスのハマースミス支部は1890年11月に「社会主義者同盟」を去る宣言を全支部に送り、「ハマースミス社会主義者協会」として独立する。

  この分裂のさなか、10カ月かけて『ユートピアだより』は書かれた。この物語は、前回見たように直接はベラミーのユートピアに触発されて書かれたが、同時に、同盟内の現実に対するモリスなりの回答でもある。導入部で、不毛な内部議論に疲れた主人公が「ああ、この目で未来の一日を見ることさえできたら」と思いながら床に就く様子は、まさにモリス自身の心情を著している。『ユートピアだより』にはモリスの考えや人格が凝縮されて表現されているといえる。

 『ユートピアだより』では、果てしなき討論のあとに眠った社会主義者が、未来のロンドンで目を覚まし、苦労を知らない美しい人々とテムズ川を旅し、未来社会を垣間見るという形で、モリスが目指す社会が描かれている。しかも、いわゆる正統派が毛嫌いしていたスタイル――空想、ユートピア物語として、あえて執筆された点がユニークである。

 社会主義を広めるために全国に奔走したモリス、彼の全国的活動の事実上の最後の年ともいえる1890年の手紙を紹介する。
 


■1890年1月10日 同志ジョン・カルーサーズへの手紙 (再掲、1889年の手紙参照)

                         ロンドン・ハマースミスにて

親愛なるカルーサーズ

 今週の前半はロンドンを離れていたので、君への返事が遅くなった。もう、君が帰ってくるまで会えないのだね。君がいなくなると淋しくなるよ。でもそこで元気に過ごせて健康を取り戻すように祈るしかない。

 こちらで私たちがどういうふうにやっているか、君に手紙を書くよ。成功も、うまくいかないことも、包み隠さず書くからね。

 ときどき、正直、希望をなくすときがあるのだよ。でも、この活動を続けていく道と、それからこっそり逃げ出す道以外の中間の道があるとは思えない。後者のやり方では、幸せは得られないからね。だから、もし仮に『コモンウィール』と我が同盟の道が消えても、党のために何かやることを見つけるつもりだ。たぶん、見つけるのは難しくないと思う。というのも、人々の考えとは反対に、私は自分の個人的意見とでもいうものにこだわっているわけじゃないからね。すべての社会主義者のあいだの共通のきずなを見つけられたら、とてもうれしいのだから。


最後にもう一度、ありがとう。幸運を祈る。

                            心から君の
                            ウィリアム・モリス


■1890年2月17日 ジョン・グラッセへの手紙 

                             ハマースミスにて

(前略)ラッセル君の記事についてだが、今はとても忙しくて日程に関することは何も約束できないのだ。彼自身が私に連絡して、記事の長さなどについて詳しいことを教えてくれるのがいいね。
 新しい『クリスチャン・ソーシャリスト』誌(注1)、喜んで手に入れて必ず君の記事を読むよ。『ユートピアだより』を褒めてくれてありがとう。それに、特に『the Roots of the Mountains』のことがありがたい。とても楽しんで書いたからね。

 あの嫌な奴らを振り払えたとのこと、良かったじゃないか。君たちがうまくやれていると聞いてうれしいよ。できることをやってくれたまえ。元気のいい君たちが機関誌『コモンウィール』を後押ししてほしい。いま、基金が底をついてきているからね。『ユートピアだより』(注2)は本にするつもりだ。価格はたぶん1シリングか6ペンスになるだろう。

 もう一度、ありがとう。元気で!

                             君の友
                             ウィリアム・モリス

(注1):エディンバラ支部のジョン・グラッセは、定期的にこの雑誌に投稿していた。

(注2):『ユートピアだより』は1890年1月11日から10月4日までシリーズで『コモンウィール』誌に掲載された。シリーズをまとめたパンフレットが年内にアメリカで発行されたが、モリスが手を入れてきちんと本にしたものは、1891年になってからイギリスで発刊された。


 
 [訳者から]

 現代の感覚から言うと『クリスチャン・ソーシャリスト』誌という名前を奇異に思い、キリスト教と社会主義は結びつかないと感じるかもしれない。だが、社会運動の勃興期には、いろんな思想背景を持った人が社会的公正さを求めて社会主義を唱えていった。中世では当然と思われていた貧富の巨大な格差だが、身分制度が崩れるにつれて、多くの人がそれを非人間的で理不尽だと思い出したからだ。

 「神の前ではすべて平等」として、平等に重点を置いて考えるキリスト教徒のなかにも、公平な社会を求めて社会主義の運動に身を投じる人が多くいた。上からの一切の干渉を嫌うアナーキスト的社会主義者も大勢いた。

 しかし、20世紀になりソビエト連邦が物質力として存在するようになると、スターリンの指導の下でのソ連圏の「社会主義」だけが正当性を持ち、「マルクス、エンゲルス、レーニン」思想以外は無意味であるかのように扱われ、現代の私たちは、否定する場合も肯定する場合も、ともすればそれを前提にしがちである。しかし、歴史はあるがままに見ることが重要だ。運動の黎明期にはあらゆる色合いの社会主義者が存在し、そのそれぞれがその人なりに社会の不合理を正そうと真剣であった。

■1890年7月8日 ジョージアナ・バーンジョーンズへの手紙の一部 

「社会主義者同盟」に関する事柄で、ずっと少し悩んでいる。たぶん、もっと悩むようになるだろう。でも、なぜか分からないが、それがあまり大したことではないように思えるのだ……。


■1890年7月12日 デビッド・J・ニコルへの手紙 

                             ハマースミスにて

親愛なるニコル(注1)

 今週の『コモンウィール』誌をずっと読んだが、こう言わざるを得ない。君はやりすぎだ。少なくとも、私がついていける程度はとっくに超えてしまった。サミュエルの目に余る暴言(注2)は絶対に抑えないとだめだ。君がそのままにするなら、私は機関誌のすべての支援を引き揚げざるを得なくなる(注3)。編集長を辞めたからといって、決してこういう機関誌にすることを許したわけではないからね。

 私は、君を分別もあり友愛も裏切らない男だと思っている。君に対して友人として語っていることを、その言葉通りに受けとめてくれるに違いない。どんな不満でも、感じたことをあらかじめ君に警告しておくのがフェアだと思っているからこそ、書くのだからね。

 これはまったくの私的な手紙だということを分かっておいてくれたまえ。私に最後の手段を取らせないよう、最善を尽くしてくれ。じっさい、長いあいだの友人たちと関係を絶たなければならないとしたら、これほど悲しいことはないのだ。しかも、その友人たちは、心の底ではきっとまったくの善人に違いない――私は、そう信じているのだよ。

 来週の金曜日まではレッチレード(注4)のケルムスコットにいるので、次の『ユートピアだより』は、遅くとも金曜の朝に君に届くように手配する。
 
                             君の友
                             ウィリアム・モリス

(注1):5月25日にモリスの跡を継いで編集長となったアナーキスト派の人物。

(注2):イギリス北部リーズのガス労働者のストで、労働者側が警官や市役人を襲う事件が発生した。その報告記事でH.B.サミュエルは暴力行為を煽って次のように書いた――「人々に知識さえあれば、腐敗した奴ら(警官など)などは一掃されたであろうに。騎馬隊の馬や隊員が起き上がったとき、多くのものが血を流し傷ついていた。だが、ああ、残念なことに死者はいなかったではないか!」

(注3):モリスは編集長を退いたが、なおも『コモンウィール』誌のオーナーで発行責任者であった。

(注4)テムズ川の上流にあるコッツウォルズの町。モリスのケルムスコット・マナーはここから5キロほど入ったところにある。



■1890年8月8日 ケイト・フォークナーへの手紙 

                             ケルムスコット
                             レッチレードにて

親愛なるケイト(注1)

 君に会うのは無理だったから、手紙を書くことにしたよ。先週の金曜日にここにきてから、とくに面白いことは起こっていない。ずっと天気は良いんだがね。

(中略:ジェインやジェニー、数人の滞在客とともに馬車でコッツウォルズ探索に出かけた家族のエピソードを詳しく報告している)

 これからエリス(注2)と一緒にバスコットまで魚釣りに出かけるところだ。本当のことを言うと、こういうフレッシュで気持ちのいい朝には庭を散歩したいのだが、エリスがほとんど仕事みたいに真剣に追求している魚釣りだ。それを休もうなんてことは口が裂けても言えやしない。だから、出かけるぞ、魚を釣りにね。

 牧草はもうみんな干し草用に刈り取られて、あたり一面はとてもきれいな緑色だ。目の前に広がる草原はうっとりするほど美しい。

 こちらで少し仕事をして、『ユートピアだより』を仕上げてしまいたい(注3)。でも、ここでのんびりしている場合じゃないような気がする。けれども、ジェニーやジェインのためには(注4)ここにいなければ。月曜日にはロンドンに出かける。1週間はロンドンにいることになると思う。

    では、ケイト、また。
                             君の
                             ウィリアム・モリス

(注1)ケイト・フォークナーは、チャールズ・フォークナーの妹で古くからの友人。1889年4月22日の手紙参照。彼女自身、刺繍や石膏絵の装飾などをおこなう職人でもあり、1861年以来モリス商会で働いている。

(注2)F.S.エリス(1830-1901)、書店主で出版者。中世の書物などを発掘して大英図書館などに紹介。モリスはこの頃、美しい書物をさかんに集めていたようである。

(注3)シリーズの最終回はこの年の10月4日に掲載された。

(注4)ジェニーの病は悪化していた。この当時、癲癇の病は適切な予防法も治療法もなく、世間一般では恥ずべきものと考えられていた。いつ起こるか分からない発作は、本人にとっても介護する者にとっても恐怖の対象だった。一緒に生活し介護する母ジェインはストレスを募らせ、自身も体調を崩していた。


■1890年11月26日 社会主義者同盟・各支部書記長への手紙 

                  社会主義者同盟・前ハマースミス支部
                            ケルムスコット・ハウス
                            ハマースミス
                             (注:日付は推定)

親愛なる同志

 社会主義者同盟ハマースミス支部は同盟を離れざるをえないと判断し、離脱に踏み切った。その決断に関して、同志たちに簡潔な説明をするのが妥当と考え、この書状を送付する。

 同盟のなかで再び2つの党が生まれてしまっている現実、我々はもはやこれ以上これに目をふさいでいるわけにいかない。一方の側はますますアナーキズムへの傾きを強め、他方我々の側はその傾向に反対している。先の総会での投票によって、同盟機関誌『コモンウィール』はアナーキスト的見解を取る者の手に委ねられ、評議員会の多数もそれを支持している。評議員会の承認のもとに『コモンウィール』誌に掲載された記事のいくつかは、我々の意見を代表しているとは言い難い。

 こうした状況下において、我々が取るべき道は2つである。1つは、同盟に留まり、我々の見解を深刻に妨げるような意見に反対し続けていくこと。もう1つは、同盟を去り、別個に独立して我々の主張を広めていくことである。

 我々は第2の道を選んだ。なぜなら、我々が賛成できない意見を持つとはいえ、我々は同志たちの真摯さは信じているからだ。彼らが仮に我々に妥協し、我々が紙面掲載に反対するような記事は載せないという妥協をする気があったとしても、そういう状態になれば、彼らは我々を自分たちの表現や行動の自由を妨げる重しと感じることだろう。おまけに、資本主義に対決するために使うべき我々の時間の大半は、同志間での争いに費やされてしまうことになる。

 それゆえ我々は、より友好的な形で脱退して自分たちの自由を守り、他人の自由には干渉しないやり方を、選んだのだ。こうして、我々は同盟から正式に脱退する道を取った。

 我々は「ハマースミス社会主義者協会」を結成した。我々がやむを得ず選んだこの新しい立場が、社会主義前進の追求を遅れさせることなく、むしろ促進させるよう望んでいるし、それを信じるものである。さらに、あらゆる機会を生かして、必要な場合にはいつでも、社会主義者同盟内外のすべての団体の社会主義者と友好的に行動していく。

 

■1890年12月5日 ジョン・グレーシャーへの手紙 

                            ケルムスコット・ハウス
                            ハマースミスにて

(注意してくれたまえ、これは私信だ。一言一句がそうだからね)

親愛なるグレーシャー

 エミリー・ウォーカーと同盟、さらにハマースミス社会主義者協会への君の手紙(注1)を読んだ。きっと君は、私が謝ってくれてもいいではないか、少なくとも説明ぐらいはすべきではないかと思っていることだろう。だから、この手紙を書く。長い手紙にならなければいいのだが。

 そもそも、事前に君に知らせなかったのは、策略を図っているとか話をしているというように見られることは何としても避けたかったからだ。「明らかに自分を無視しているではないか」という点に関しては、そういうことなのだよ。事態そのものに関しては、じっさい、書状で書いた以上に付け加えることはほとんどない。(あれは各支部と評議会だけに送った)

 すべては、こういうことだ――君ももちろん前回の総会で気づいただろうが、同盟には2つの党が存在してしまっている。つまり、結成以来の共同体社会(コミューン・イズム)をめざすグループとアナーキストのグループだ。考えてもみたまえ、この2つのグループが同盟内に存在すれば、どちらもそのグループが認めない目標のために無理に動かすことになるではないか。だから、常に争いが起きるのだ。いつでも一方が他方を攻撃することになる。共通の敵を攻撃するべきときにね。

 君も以前からよく知っているように、私はこういうことを何度もくぐってきた。もうこれ以上、そんなことを我慢する気はまったくない。どういう組織体であろうと、所属する組織に2グループが出来れば、即座に私のグループはそこを去る。でも、分かってもらいたいが、ハマースミス支部はずいぶん長いあいだ不満を耐えてくれたのだよ。私の感傷を尊重してくれたからこそ今まで待ってくれたのだ。そうでなければ、6カ月も前に脱退しているところだった。

 もう少し詳しく展開しよう。ハマースミス支部は同盟の残りすべてと同じくらい人数は多い。だが、評議会に対しては今や何の力も持っていない少数派なのだ。もしわれわれが留まって、そのつど反対票を投じて闘うなら、毎回少なくとも8対3で否決されることになる。

 それでも残ることにいったい何の意味がある? 『コモンウィール』誌を道理をわきまえた機関誌として守るために、何か私にできることといえば、「そんなことを書けば資金を絶つぞ」と言うことくらいだ。金を出しているからといって検閲するような、そんな卑劣なやり方は、私にはとても耐えられない。

 それに、そんなことをして何の意味がある。どちらにしても今年末には資金援助は止めるつもりだったのだからね。最後まできちんと支払って、それはやり遂げた。仮にその援助を続けていたとしても、毎週あんなに赤字を出している機関誌を救うことは出来なかっただろう。援助を倍にしないといけなくなっただけだろう、今年の前半にしたように。じっさい、総会までそうしていたのだからね。

 じゃあ、いったい、どうすればよかったと言うのだ。毎週出かけていって、やる必要もない地獄のような内部口論を繰り返すのかい、憎んでいるのでもない仲間と? それとも、評議会の役職から引き揚げるのかい? それは結局、事実上の脱退を覆い隠すごまかしだし、彼らも我々もやりにくくなるだけだ。では、総会開催を要請するかい? いったい何のために? 現在すでに不一致と分かっていること以外に、もっと不一致点を探すというのかい? そもそも、そういう総会はまったくの猿芝居じゃないか。

 いいかい、グレーシャー、一言で言おう。私を追い出したかったら、何も、蹴とばすためにわざわざブーツまで履き替えに行ったりする必要はないのだ。私は、最後に階段の下に蹴落とされるまで待っていたりしないからね。

 事態を勘違いしないでおくれ。決行のタイミングは少し唐突に見えたかもしれないが、我々は長いあいだ辛抱してきたのだよ。そしてついに決行したのだ(注2)。私自身は、ブルームズベリー支部が追放されるのを許した時点で、こうなるのは分かっていた。もちろん、あれはあの強欲なドナルドの方から始めたことだから、追放されるのも当然だったのだがね。でも、彼らがいなくなってからアナーキストが上手に出たことは間違いのない事実だ。

 君が驚いたのが、私にはむしろ不思議なくらいだ。ニコルのばかげた記事に関して出した私の記事(注3)を読めば、事態がどうなっているかは分かったはずだ。あの記事は「別れの言葉」だったのだよ。あれは、アナーキスト派の主張や行動にはすべてまったく反対だと宣言するつもりで書いたし、じっさい決別宣言だったのだ。そのあと同盟に留まれば、常に彼らの立場を問題にしなければならない。でも、そんなことをして何になる? 彼らの意見を変えようとは思わないからね。

 グラスゴーでの君の行動を左右するつもりはまったくないということは、承知しておいてくれたまえ。ここの誰もそんなことは考えていない。君の立場は私たちとは違う。君はロンドンから遠く離れていて、同盟の日常の運営に携わることは出来ない。でも、我々は、同盟に所属すると言っているかぎりは、運営に関わらねばならないのだ。

 我々には同盟の各支部を改宗させようという気持ちはまったくない。同盟に属していようがいまいが、希望する者は誰でも私たちと行動をともにすればいい。でも、私たちからそう要請するつもりはない。それに、君たちがどういう行動を取ろうと、今まで通りいい仲間であることには変わりがないのだ。

 本当のところ、脱退を宣言してからというもの、とてもすっきりした気分だ。私は争いが何よりも嫌なのだ。しかも、このいざこざはもう1年以上も心にひっかかっていたのだ。やっと終わってホッとしたよ。まったく、アナーキスト組織に所属するなんて、バラ戦争の白バラ団に所属するのと変わらないくらいナンセンスな話だ。

 我々の宣言はもうすぐ出す予定だ。君が賛同してくれる内容だと思う。議会主義とアナーキズムの両方を批判している宣言だからね。

 話題を変えよう。新しく翻訳した本は明日、君に送るつもりだ。『ユートピアだより』はアメリカではすでに印刷されている。イギリスでは1シリングで出版するつもりだ。アメリカ版は1ドルだと思う。

 これで筆を置くよ。我々は誰の目にも明らかな現実を確認しただけなのだから、そう、落ち込まないでおくれ。前進しているとか勝利しているとか言って自分に嘘をつくのは、この運動の呪いのようなものだね。

 さて、アイルランドのパーネル氏に対する善人気取りの世間の非難を、君はどう思う?

 ディッケンズが書いたモウチャー夫人(注4)のセリフじゃないが、「他人のスキャンダルは美味しい」ってことかね。

                            君の友人
                            ウィリアム・モリス

(注1):グレーシャーはハマースミス支部が脱退するということを事前には知らされていなかった。11月26日の各支部への正式書状でそれを知ったグレーシャーは、おそらく驚き、かつモリスに裏切られたように感じて、ハマースミス社会主義者協会・書記長のウォーカーに半ば抗議の手紙を出したと思われる。

(注2):このタイミングについては、興味深い証言がある。アナーキスト派の編集長ニコルは、のちにこう語っている。「私はウィリアム・モリスに、サミュエルが書く『コモンウィール』記事については気を付けると約束した。だが、サミュエルの演説までは止めることは出来ない。11月11日にサミュエルはグラハム判事を射殺するという演説をおこなった。この演説によってモリスは我々との関係をすべて断ち切るという判断をせざるをえなかったのだと、私は見た」

(注3):新編集長ニコルが「教育宣伝の時代は終わった。今や革命戦争を」と呼びかける記事を『コモンウィール』誌に次々と掲載したことを受けて、モリスは『Where Are We Now?(我々は今どこにいるか)』という反論の記事を書いた。この記事は11月15日に掲載された。

(注4):ディッケンズの自伝的小説『デイヴィッド・コパフィールド』(1849〜1850)に出てくる、うわさ話し好きの美容師の名前。ディッケンズは当代随一の人気作家で、その登場人物はよく会話に引き合いに出される。とくにモリス一家は、社会や人間をを鋭く見抜いたディッケンズの小説を愛読していた。

■1890年12月16日 ジョン・グレーシャーへの手紙 

                            ケルムスコット・ハウス
                            ハマースミス

親愛なるグレーシャー

 手紙、ありがとう。言いたいことはたくさんある。だが今はほんの少しにしよう。

 まず第1に、君の主張にはほとんどすべて賛成だ。パーネル氏の件も含めてね。第2に、私は引退するわけではない。第3に、メディアのたわ言に悩む必要はない。第4に、ハマースミスは、間違いなく、共闘の取り組みなら何であれ喜んで参加する。最後に機関誌についてだが、私は機関誌は好きではない。長い体験から、党派の機関誌は運営が難しいと分かった。

 やろうかなと思っていることは2つある。まず、単なる連絡手段として、月に1度簡単な新聞の発行を考えている。もう1つは、すべてのグループを網羅する一般的な社会主義の新聞を始めるかもしれない。

 前者について:月刊の『コモンウィール』誌が存在するかぎり、私は新聞の発行に関わるつもりはまったくない。むしろ、可能なら『コモンウィール』誌を支援してもいい。

 後者について:これは展望がありそうだ。でも、もちろん君も知っているように困難はある。たとえば、誰を編集長にするか。いろんなグループ間のさや当てなどがあるなかで、どうすればうまくいくのか? アナーキストを含めるかどうか?などなど。パンフレットはいいと思う。君も私たちのために記事を書いてくれるかい? 

 残りの点について私が予想できるのは、疲れ切った人間に我慢できる範囲で、演説や講演をするということくらいだね。

 春にはそちら方面に行けるのではないかと思っている。そうすれば、もっと詳しく話しできるし、手紙で抜けたことも話せるだろう。(エディンバラの)グラッセやアバディーンの者たちにも会いたい。もちろん、同盟の支部に干渉するようなことは避ける前提でね。

 幸運を祈る

                             君の友人
                             ウィリアム・モリス




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