新しい時代の夜明け

by William Morris in 1885
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました) 2021/7/14

リストのページに戻るトップページに戻る

  ■現代は、絶対主義と民主主義の対立なのか

 おそらく、私の読者のなかには、表題は正しくないと思う人もいるのではないか。むしろこう言うべきではないか、と――新時代は常に明けつつある、変化は常に訪れつつある、そして、それはあまりに漸進的なので、私たちは、いつ古い時代から抜け出して新しい時代に入るのか分からないのだ――。確かに、少なくとも、どんな時代も、時代を見通せないという意味では本当だ。私たちは少し離れて立ち、起伏があって表面の混乱した絵が適切な状態に自ら変身し、詳細のすべてが明確な目的を貫いた何ものかになるのを、見なければならないだろう。
 それでも、私たちは歴史を振り返ると、単に偶然ではない時の経過の中に、時代を区分する。新しい秩序を形づくる新しい思想の成長に着目し、その発展が過渡期に入り、ついには、新しい時代が私たちの前にその完璧な成長を露わにしていき、まだ見えないとはいえ、何か別のものに転換するべき新しい時代の種が用意されているのを見る。
 
 さらに言うと、時代のなかに現に生きている者が、常に変わり続ける変化を、多かれ少なかれ意識している時期があるのだ。一度は人間の想像力をあんなにかきたてていた古い思想が、いまや人々を動かすことをやめ、退屈で陳腐なこととして受け入れられる。人間の生活のなかの物質的な環境――いちどはその細部にわたって闘われ、ある種の法によってのみ働きが明らかになったそれ――が、このような時代には、変化を意識し、それを変える方法が見つかるまでは、抗議と共にただ受け入れられる。かつては沈黙し、だが力に満ちていた古い瀕死の秩序は、自らを暴力的に表現しようとし、ただちに騒がしく同時に弱まる。弱すぎて表現の必要性を意識できず、あるいはあったとしてもその可能性を意識できなかった初期の秩序は、今や意識的になり声を見いだす。長年にわたって静かだった対壕(訳注:籠城軍や敵陣営に接近するために掘る深く狭い塹壕)は、公然たる襲撃のために開かれた。人々は塹壕で集まり武装している。孤独な希望は十全で、もはや虚しく待ちわびる慰めに囚われることなく、死に果てるか、それとも勝利の喜びかを待ち望んでいる。
 
 さあ、これを読んだ者のなかには、こうした意識的な変化の時期にいるのだと賛同する人もいるだろう。私たちだけではない。新時代と旧時代のはざまに生きているのだと感じているのだ。いわば、何かが起こるのを期待しているのだ。こういう時代には、何が古くて死にかけているのか、何が新しく存在しだすのかを理解するのが義務ではないか。これが、私たちすべてにとって、実践的に重要な問題である。この意識的変化の時期には、多かれ少なかれ真剣な戦闘の時期でもあるからだ。そして、一人ひとりが、何が進展しているのかを見つめ理解しなければ、間違った側で、自分でも共感していない側で闘うかもしれないからだ。
 
 私たちが今突入しようとしている戦闘は何か――誰と誰が互いに闘っているのか。おそらく、絶対主義と民主主義だと誰かが答えるだろう。いや、必ずしもそうではないと私は思う。その闘いは、偉大なフランス革命によって実質的に決着がついてしまった。いま残っているのは、その残り火に過ぎない。あるいは少なくとも、たとえば、ロシアのような間に合わなかった国ではそうだ。民主主義、あるいはともかく民主主義と考えられていたものは、今や勝ち誇っている。そして、ロシア以外にも、例えばドイツやアイルランドのような国々では、表現の自由が抑制されているが、意気揚々とした民主主義の支配者たちが、新しい秩序を不安に思い始め、いまや、不安を自覚しだし、その結果として反動に引きずられだしている。
 いや、ちょうど、フランス革命がこれらの二語を敵同士と考えていたように、問題は絶対主義と民主主義ではない。問題は、そのときよりもさらに深い。二つの敵は、今や、支配者主義(訳注:Mastership。所有者主義ともいう。資本主義ともいえるが、この段階ではモリスは、マスターとフェローを対立概念としている)とフェローシップ(訳注:仲間意識あるいは同志愛)なのだ。これは先の二つよりはるかに深刻な対立であり、はるかに完ぺきな革命が必要だ。じっさい、紛争の土台はまったく異なっている。
 民主主義は次のように言ってきた――世襲の特権が人種や一家を作ってきたし、そういう人種に属してきたからといって、人間は他人の支配者であるべきではない。そうではなく、すべての人の富を人為的に保護する権威のシステムのもとで、ある種の特質の発展によって、個別に他人の支配者に成長していくのだ。この人為的制度によって、他人の干渉、あるいは他人の結束した干渉を勝ち抜いて、その地位を獲得したらの話だが。
 
 だが反対に、新しい秩序は、「どうして支配者を持つ必要があるのか?」と言う。共通善のために連合の調和のなかで働く仲間になろうではないか。共通善とは、つまり、コミュニティにおけるすべての人間の最大の幸福と完ぺきな発達のためだ。
 
 この新しい社会の理想と希望は、産業的平和と事前の配慮の上に築かれ、それ独自の倫理を育み、すべての人の新しく高い人生をめざしているが、社会主義という一般的な名前を授けられた。そして、私は、それが産業的争いの上に築かれた古い秩序に取って代わる運命にあり、人類の進歩における次のステップとなると、強く確信している。
 
 さて、私は社会主義、つまり新しい時代の理想の目的について、さらに説明しないといけないのだが、まず、取って代わられる運命にある古い秩序の構造から説明することで始めようと思う。もし、それを明確にできるなら、社会主義の最初の目的を明確にできるだろう。なぜなら、それ以前に崩れた時代と同様に、現在崩れつつある秩序は、まがい物の支配制度によって支えられているからだ。そのまがい物の支配が一掃されれば、必然的に、平和で睦まじい連携は地上での幸せで品位ある生存として、すべての人間が感じるだろう。そして、社会主義は私たちすべてが生きる条件となり、自然に発達し、制度が細部において何を必要としようと、おそらく暴力的紛争を必要としないだろう。闘いは細部の確定について終わりはしないし、変えられない自然条件の違いにしたがって確かに異なるだろうが、問題は、所有者主義かフェローシップなのかだ。

  ■封建制度に取って代わった所有者主義について

 それでは、最新の発展段階、封建制度に取って代わった競争制度、所有者主義の社会の条件について見てみよう。
 
 他のすべての社会制度と同様に、それは、労働によって自然から生活条件を得る必要性から成り立っている。そして、私たちの知っている他のほとんどのシステムのように、社会の異なる階級間の労働の不公平な配分と、その労働の結果の不公平な分配を前提にしている。その点では、取って代わった制度(訳注:封建制度、絶対主義)とは変わっていない。不公平な分配が整えられている方法が変わったのに過ぎない。中世時代と同様に、私たちのあいだにはいまだに金持ちと貧乏人がいる。いや、それについては何の疑いもない。少なくとも存在している富と関係して、前の時代よりも、金持ちはより金持ちになり、貧乏人はより貧乏になっているだけだ。それがどうであれ、そのときも今もなお、働くことが多くて富のほとんどない人が、富を多く持ち労働がほとんどない人たちのそばで暮らしているということだ。金持ちはいまだに怠け者であり、他方、一生懸命働いてもっとも辛い任務を担う人たちは、その労働によって報われることがない。
 
 私にとっては、そして読者にとってもそうであってほしいが、これは甚だしく不公平だ。そして、世間は不正義の感覚をいつも感じてきたと思い起こしてほしい。何世紀もの間、社会はこの不正義を無理やり熱心に人為的に支えてきた。その信念を、哲学においても、倫理規範においても、宗教においても主張し、正義であり人間の公平な扱いであると説いて聞かせてきた。それどころか、なかには、私たちに他人のお荷物になれと説き、人類の前に義務を据えてきた。そして長期的にはそれは、弱い者に対して力強く働く者の、愚かな者への賢い者の、無能な者への役に立つ者の喜びなのだとされてきた。それでいて、この道徳の教訓は、理論的に説教される割には、現実的には、持続的に脇に追いやられてきた。当然だろう。それは階級社会の基本を攻撃するからだ。
 社会主義者として、あなた方にもう一度はっきり言おう。いまや不可能だと認識せねばならぬことをするのは、単なる馬鹿げた夢ではない。実は訳の分かった行動の原理であり、自然の脅威に対する良い防御だ。いずれにせよ、正直な人間は、これらの理論を実行するのか、それともすべてを拒否するのか、選択を迫られている。彼らがこのジレンマに挑むなら、私たちはすぐに新世界を手にするだろう。
 しかし、残念ながらそうするのは困難だろう。理論は古く、私たちはその言葉に慣れている。実践は新しく、私たちがあまり考えたことがないような責任を含んでいる。
 
 さて、現在の制度と封建制度の大きな違いは、生存条件に関する限り、金持ちか貧乏かを除いて、すべての階級の違いが廃止されたことだ。社会はこうして単純化された。恣意的な区別は消えた。だが、現実的な区別は残り、恣意的な区別よりももっと厳格である。ひとたびすべての社会が粗野になれば、紳士と紳士でない者のあいだにはじっさいほとんど違いはなく、区別するためには、彼らに違った服を着せなければならなかった。しかし今では富裕層は、洗練され教養がある存在で、現代世界が到達した自然の制圧を満喫している。他方、貧乏な人間は無知で低俗で、現代科学が自然から征服した富をまったく味わえていない。じっさい、彼は物質的条件においては中世の農奴程度であり、おそらくより悪いだろう。少なくとも、良い環境で暮らしていた野蛮人より悪いと思う。
 
 このことを深刻に否定する人は、どんな思慮深い人でもいないだろう。何がこれをもたらしたのかを見ていこう。できるだけ明確に、ちょうど、貴族階級の先祖代々の特権と、結果としての中世の労働者制度・農奴制度が、その特殊な条件によってもたらされたことを見るように、見ていこうではないか。

 ■すべての富の生産方法を握る階級と、労働力しか持たない階級

 社会はいま、2つの階級に分かれている。すべての富の生産方法を、一つを除いて独占している階級と、その一つ・労働力以外には何も持たない階級だ。労働力は、他の生産手段の助けがなければ実現することができないが、その保持者にとって無意味だ。労働力しか持たない者、つまり、自分のために他人を働かせるどんな手段も持たない者は、生きるためには自分自身を働かせるしかない。それゆえ彼らは、労働を実現する手段(土地、機械など)の持ち主に、生きるために労働する許可を申請しなければならない。所有者階級(このように縮めて言おう)は、この許可を与える準備は万全だ。じっさい、彼らは、自分のためにこの非所有者階級の労働力を使おうと思えば、許可を与えなければならない。それが彼らの特権なのだ。
 そして、この特権は、非所有者階級に、独占の継続を保証する形で労働力を売るように強制するものなのだ。この条件は、外見上とてもシンプルだ。所有者階級あるいは支配者たちは、労働者に現在必要だと思われる生活条件を与え、繁殖させ、子どもが労働年齢に達するまで育てさせる、それだけの量の富を与えればいい。これは、必要とされる労働力の質が低いとき(未熟練労働と呼ばれるが)、それを獲得するための「交渉」の快適な条件だ。労働者は、支配者たちをある種の抵抗で脅威を与えるほどには強くなく、無知で、統一できていない。
 そして、もし、熟練労働が必要とされ、結果として熟練労働者の生産費用がかかり、見つけるのが困難なときは、その案件・労働力の費用が高くなる。というのも、労働力商品は考えるわけで、結局のところ人間でもあると覚えているのだから、先に言った抵抗は支配者たちに脅威をあたえる。この場合、労働者の側としては、市場競争が許せば譲歩するのが賢明だと考えるので、労働者の生活水準は上がる。
 
 しかし、率直に言って、ストライキや「労働」組合にもかかわらず、労働者の大部分は、単なる必要最低限程度しか貰えない。だから、病気になったり年老いたりしたら、救貧院によって難民救済されないかぎり、死んでしまうことだろう。救貧院というのは、低賃金労働者が産業上必要な死の前にそこに逃げ込まないように、できるだけ刑務所のように惨めに作ってあるものなのだ。
 
 さあ、ここで問題は、支配者たちがいかに彼らから労働力商品をそんなにも安く買うことができるのかだ。古代人が彼らの奴隷に鞭を使って扱ったようなことはせずにできるのかだ。
 もちろん、労働者に生きていけるだけのものを払い、機械の消耗その他の必要経費を払った支配者は、それ以上に残っている分を何であれ自分のものにする。つまり、すべてを、労働者が所有する労働力の発揮によって得るのだ。それゆえに、所有者はこの特権から最大限を得るために必死で、市場で同業者と最大限を互いに競いあう。だから、商品の分配は、危険な賭けをベースにしており、結果として、商取引が落ち目のときよりも、あるいは通常の状態よりも、活発なときの方が多くの「手」が必要となる。
 この労働力の剰余価値を得るための欲望に刺激され、時代の偉大な機械が発明され、年々改良された。それは、労働者に対して三重の形で機能する。まず第1に、多くの労働者を取り除く。第2に、必要とされる労働者の質を低下させ、熟練労働をどんどん少なくする。第3に、その改良によって労働者は働けるあいだは必死で働き続ける。これは、とりわけ、綿紡績工業で顕著である。さらに、ほとんどの産業で女性と子供が雇用され、彼らには、必要最低限の賃金を与えるという見せかけすら取られない。
 これらすべての原因――現在の生産制度にとって投機的市場のために必要な労働者の予備軍、省力化の導入(支配者のために節約された労働だ。人間のためではない)、続くかぎり集中化する労働、そして婦女子の補助的労働の雇用――これらすべてのために、現在のように特別に悪い年だけではなく、すべての普通の年にすら、労働者がする仕事よりも労働者の方が多いのだ。
 したがって、労働者は彼らの唯一の商品・労働力を売るにあたって、互いに安く売りあう。彼らは、そう強制されているのだ。さもなければ、働くことを許されず、それゆえ、餓死するか、救貧院という名の刑務所に送られる。
 こうして、今日の支配者たちは、過去において奴隷に対して使ったであろう明らかな暴力を、行使するのである。
 
 だから、これが、現代社会の二大階級のあいだの最初の区別だ。上位の階級(訳注:比較して「上位」ということで、上流階級ではない)は富を持ち、下層階級は富を欠く。しかし、これ以外にも別の区別があり、それについて述べたい。富を欠く階級は、富を生産する階級であり、富を所有する階級は富を生産せず、ただ消費する階級だということだ。そもそもひょっとして、いわゆる下層階級が死に絶えるか、あるいはコミュニティを離れたとしたら、富の生産は立ち往生してしまうだろう。富の所有者がどうして生産するかを学び、彼らの地位から降臨して以前の奴隷の位置を担うまではそうなる。
 反対に、もし、富の所有者が消え失せたとしたら、富の生産は、悪くしても少しのあいだ妨げられるだけで、おそらく、現在と同様に普通に進められるだろう。
 
 だが、こう言う人もいるかもしれない。土地所有者、基金所有者などの富の所有者のなかには何もしない者もいるだろうが、それでも、一生懸命働く者もかなりいるかもしれないと。
 まあ、そうかもしれない。おそらく、現在の制度の最悪の馬鹿さ加減を鮮明に示すものは、この事実より以外にないだろう。そんなにも多くの才能があり勤勉な人間たちが、この制度によって雇われ、一生懸命働いているが……何も生み出していない。ゼロかそれ以下だ。彼らは働いているが、何も生産しない。
 
 有能な職業のなかには、物理学、教育、そして美術その他のように特別な階級の手にあるものもある。これらの職業で働く人たちは、確かに有益に働いている。そして彼らに対抗して言えることと言えば、しばしば他の有益な職業に比べて高く支払われすぎているということくらいだ。その高い支払いは、所有者階級の寄生者であるという認識のもとに支払われているのだ。しかし、その人数については、富の所有者のなかでは大したものではない。それに彼らが所有する富は、何も有益なことをしない者たちに比べれば、取るに足りないものだ。
 
 その何も有益なことをしない者のなかには、(皆が賛同するだろうが)自分たちを楽しませているだけで、何かをしている振りすらしない者もいて、おそらく、その役立たずのなかでは少なくとも一番害のない者だろう。それから、道理をわきまえた社会のなかでは必要ない職業に従う者もいる。つまり、法律家、判事、刑務所管理者、幹部士官、そしてほとんどの政府役人だ。最後に、圧倒的に多くのグループがいて、労働者階級に強制する貢ぎ物の個人的分配のために賭けたり戦ったりするのに忙しい。これが、全体としてビジネスマンと呼ばれているグループだ。そう呼びたければ、商業の指揮者と呼んでもいい。
 
 この貢ぎ物の多くを引き出すこと、自分のために引き出してできるだけ多く残しておくこと、これがこの男たちの、つまり、ほとんどの富裕層の主な人生の目的となる。それを彼ら富裕層は、かなり不正確なことに「金儲け」と呼んでいるわけだ。その職業においてもっとも成功している者たちは、偽善的な装いにもかかわらず、国民からもっとも尊敬されているのだ。

 

 ■労働者は雇用者階級から奪われる

 労働者から奪われた貢ぎ物について、一、二、付け加えておこう。これはちっぽけなものではなく、少なくとも、労働者が生産するすべての3分の2に相当する。理解しておいてほしいのは、これは労働者が直接の雇用者から直に奪われるすべてではなく、さらに雇用者階級から奪われるということなのだ。労働者は、いかなる場合にも、他の雇用者たちとの競争あるいは戦いのなかで、直接の雇用者からできるだけ多くの貢ぎ物あるいは利益を奪われるのだが、それに加えて、いろんな形での税を払わなければならない。そうして巻き上げられたその富の大部分は、よく言っても、単なる無駄といえるのだ。そして、誰が税を払うように見えても、長期的には、労働者が唯一の本物の納税者なのだ。
 そもそも彼は、家賃を払わなければならないが、この家賃は、富裕層がその収入から支払うのに比して、とても過酷だ。それから、彼は商品(もともと自分が作った物だ)を買うのに、それを扱う仲介人に手数料を払わねばならない。それはある意味でまったくの無駄であり、多くの道理をわきまえた人はそれに反対の声を上げているが、現在の社会では、それはかなり無力なことなのだ。
 最後に労働者は、しばしば互恵団体、あるいは労働組合に対する会費として、追加の税を払わなければならないが、それは、じっさいには、支配者の市場における賭けによって生じた失業不安によるものなのだ。
 まとめれば、直接の支配者に生む不払い労働の結果あるいは利益のほかに、雇用者がその一角を占める階級全体に対して、彼の賃金の多くを追加で払わなければならないのだ。
 
 所有者階級の特権とは、それゆえ、この貢ぎ物によって生計を立てているということだ。働いていないか、あるいは働いていても非生産的であるか、つまり、他人の労働に頼って暮らしているということだ。過去の支配者が彼の奴隷の労働によって暮らしていたように、あるいは、封建領主が農奴の労働によって暮らしていたのと変わりはない。
 もし、金持ちの資本が土地にあるとしたら、彼は、小作人に強制して土地を改良させ、法外な地代の形で貢ぎ物を支払わせる。そして、この取引の終了時には、彼は全般的に改良された土地を再び得る。こうして、彼は再びスタートし、彼とその子孫が何もすることぬきに、単に社会のお荷物として、永遠に続けることができる。その間、他人が彼のために働くのだ。彼の土地の上に家々を持っていれば、その家賃もまた収入であり、しばしば家屋を何度も建て直す価値を受け取り、結局、土地も家も再び彼のものである。
 それ自体何の価値もない荒れ地や沼地が、町や郡の開発によって、よく莫大な利益の源となることがある。そして彼のポケットは、数十万人の労働の結果で潤い、それを自分の所有物だというのである。あるいは、地下に石炭などの鉱物が見つかれば、再び彼は膨大な額を手にして、市場に通用する品になるように他人に労働させるのだ。その労働については、彼は何も貢献していない。
 
 あるいは、彼の資本がキャッシュなら、労働市場に行き、男・女・子供の労働力を買い、利益を生み出す商品の生産のために使う。もちろん、それをできるだけ最低限の価格で買い、彼らの生活費を可能な限り最低限にまで切り下げる。これはそうしなければならないのだ。でないと、同輩の資本家との戦争において彼自身が倒されてしまう。このばあいにも、彼はなんら有益な仕事をしていないし、そういう外見を取る必要もない。なぜなら、彼は管理の脳力を、普通の労働者の労働力よりもいくらか高いレートで買うのだろうから。しかしながら、何かをしているように見えるときも、そして、「労働の組織者」との勿体ぶったタイトルを受け取るときも、彼は決して労働を組織していない。そうではなく、彼の直接の敵、他の資本家、彼と同じような仕事をしている者との戦いを組織しているだけなのだ。
 
 さらに、言ってきたように、労働者階級のみが生産するというのは本当だが、彼らの一部のみが有効な物を生産することを許されている。なぜなら、しばしば自分たちが使える以上の富を持っている非生産階級の人間たちは、それを単なる贅沢と馬鹿さのなかに無駄にせざるを得ないのだ。それは、一方では彼ら自身を傷つけ、他方では、非常に多くの労働者が有効な仕事に就けない。そうして、有効に生産できる者たちを、より激しく悲惨に働かせる。つまり、この制度の本質的付き物は無駄なのだ。
 
 それは戦争のシステムなのだから、それ以外にどんな方法があろうというのか? ちなみに私は、すべての労働の雇用者はたがいに戦争状態にあると言ってきたが、二階級の関係の説明を聞けば、彼らが戦争状態にあることは分かるだろう。それぞれが、他人が負ければ勝つのだ。雇用者階級はその特権、労働実現の手段の所有を最大限利用している。それで得られる物は何であれ、労働者階級の犠牲で得ることができるのだ。そして、その代わりに、所有者階級の支出において生活水準を少しだけ上げることができる。できるかぎりほんの少しだけ妥協をせざるをえないわけだ。したがって、そこには、彼らがそれを意識しているかどうかにかかわらず、二つの階級のあいだでは常に闘いがあるのだ。
 
 まとめよう。現代社会には二つの階級がある。価値ある階級と価値のない階級だ。価値のない階級は上位の階級と呼ばれ、価値ある階級は下層階級と呼ばれる。価値のない階級あるいは上位の階級は、労働力以外の富の生産に関わる全ての手段を独占し、上位の階級のために、価値ある階級あるいは下層階級を、下層階級に不利なように働かせられるし、働かせる。そして、価値ある階級をどんな他の条件でも働かせないのだ。この契約は、まずは互いに他の階級に対して、そして次には各階級のなかの個人に対して、常に争いの種になる。
 

 ■この不正で無駄な制度は、変わらないのか
 
 ほとんどの思考できる人は、私がいま言ったことを真実だと認める。だが、多くは、明らかに不正で無駄な制度だが必要である(もっとも、そう信じる理由を与えることはできない)と考え、制度の最悪の問題を和らげること以外に何も見いだせない。いろんな緩和策がときどきに流行しては、代わる代わるに衰退した。だから私は、まず、制度そのものが変化できないかどうか、次に、周りを見回し近づく変化の兆候に気づかないか、と呼びかけたい。
 
 まず考えてみようではないか。野蛮人でさえ、みすぼらしい道具を持っていたが機械はなく協力を知らなかった野蛮人でさえ、働いて暮らしていたではないか。しかも、良い道具を使うようになり、ある種の協力を見いだすや否や、単なる生活必需品より以上を生産することができるようになった。労働者が単なる奴隷であったときですら、すべての産業社会はこの事実の上に成り立っているのだ。考えてみれば、私たちの社会は、なんと奇妙な社会になったのだろう――一方の人たちは、富を使うことができない。そんなにも多くの富を持っているのだが、それを喜んで無駄にするのだ。他方の人たちは、道具も協力も知らなかった哀れな野蛮人より、良かったとしても、ほとんど変わりはない! これが正されなければ、文明社会の人間は、自分を文明社会の馬鹿者と呼ばねばならないだろう。
 
 ここに、生産の準備は十全で、完ぺきな協力体制で、素晴らしい機械を使って働く労働者がいる。アリストテレス時代の奴隷が、自分を生きながらえさせるために働けるなら、今日の労働者ももっとできるはずだ。これは私たち全員が十分知っていることだ。どうして彼は、快適な状態ではないのか? ただひたすら、階級制度のためだ。一方では略奪であり、他方では、労働者の労働が勝ち取った富の無駄使いだ。もし、労働者が労働の結果を完ぺきに受け取っていたなら、無駄のないかたちで労働していたら、いかなる場合においても楽に暮らしているはずだ。しかし、無駄なく働くためには、彼は自分の生計のために働き、生産しないで暮らす他人を作らないようにしなければならない。自分のために働ける人間が怠けて過ごすのを見逃すとしたら、不当に彼を扱ったことになる。労働者は無知で残酷な力によって強制されることなしには、そうしない。そうであるならば、彼は、富は自分の労働によって生産されたと主張する権利があるし、その結果、すべての可能な人間は自力で生産すべきだと言う権利がある。
 しかし、また、疑いもなく彼の労働は組織化されなければならない。さもなければ、すぐ野蛮人の状態に落ち込んでしまう。しかし、労働が適切に組織化されるなら、彼は競い合わなければならない唯一の敵があるのみだ。つまり、自然だ。自然は、いわば労働者を自然と対立するように唆すが、自然を克服したことに感謝しており、敵の振りをした友人なのだ。人間と人間のあいだには争いはなく、代わりに連携があるのみだ。だから労働は本当に組織化される。仲睦まじく組織化されるのだ。仲睦まじさは、個人的な獲得のための争いとは共存できない。世界が現在の惨めさから抜け出すためには、人間は共通の利益のために働く必要がある。それゆえ、労働者(すべての能力のある人間ということだ)の主張は、彼が調和ある全体の一部を成すという現実に影響を受けている。能力に応じて彼を助ける同僚の協力抜きには、彼は無力である。だから、彼がコミュニティのために働いているときには、自分の利益のために働いているのだと感じるのは当然で、正しい感覚にあるときは、そう感じるだろう。
 
 だから、働いているとき、労働は常に利益を生みだし、それゆえ、彼の労働の前にはなんの障害があるはずもない。彼が使う手段は、自由に使えなければならない。所有者階級の特権は終わらねばならないのだ。現在の習慣では、特権に満ちた人間は、警察官か、それに応じたポジションの人間によって、誰であれそこで働く者に生計を供給する場所の門をガードしてもらっているのだ。死にたくない人間の集団は、その門前に来たる。しかし、そこには法と秩序が立っていて、「お前が入る前に俺に5シリング払え」と言う。男であろうと女であろうと5シリング持たない者は門のなかに入れず、そして、死ぬのだ。あるいは、救貧院行きとなるのだ。
 さあ、そんなことはきっぱりと廃止されなければならない。その場は誰でも使える人にとって自由に使えるのだ。このすぐに分かる例えを放棄したとしても、労働を実現するための手段、土地、機械、資本、運搬手段などは、使えないが独占している者たち、それを他人から報酬無しに強制して悪用している者たちと違って、使える者にとって自由なのだ。つまり、生産のために適切に組織された労働者たちが使うのだ。しかし、忘れてはならないのは、これは誰も不当に扱わないということだ。なぜなら、すべての人間は、コミュニティに対して何らかのサービスを行なうからだ。つまり、非生産階級はいないのだ。組織化された労働者がコミュニティ全体なのである、誰ひとり残っていないのだ。
 
 
 ■人為的な制度を廃止し、自由な制度を
  社会は、こうして作り直される。そして、労働は、自然の強制以外のすべての強制から自由になる。自然は私たちに必ず何かを与えてくれる。これがどのように遂行されるのかを詳細にわたって伝えようとするのは、虚しいことだ。なぜなら、その本質こそは自由であり、すべての恣意的で人為的な権威の廃止なのだ。
 だが、一つだけ理解してもらいたいことがある。きっとあなた方は、そういう制度の下にある私的財産はどうなったのかを知りたいだろう。それは、まずもって富の蓄積を禁止したとは見えないし、金持ちと貧乏人との新しい階級の形成を積み上げることを禁止したとは見えないではないか、と。
 
 今日理解されている私的財産は、所有者が使うかどうかは別にして、他のすべての人間に抗して個人による富の所持を意味する。彼は、当然にも資本(あるいは過去の世代の労働の貯蔵)を蓄積するが、自分で使わないどころか他人にも使うのを許さない。彼はしばしば、労働と土地のそもそもの必要性を独占し、自分で使わないどころか他人にも使わせない。いずれの場合でも、彼がコミュニティを傷つけているのは明らかなのだが、法律は確実に彼の側に立つ。
 いずれにせよ、生計のために働くことを要求する自然の法則から免れるために、金持ちは富を蓄積する。彼自身の使用のためではない。そして、彼の子孫にも同様にさせ、上位で役立たずの階級に属するようにするのだ。彼が蓄積するのは富ではなく、快適に暮らすこと、身体的精神的に快適に生きることではない。彼はその点で、すぐに、もっとも必要なときに本当の必要性が分からなくなるだろう。彼が蓄積するのは、他人を支配する力であり、私たちの祖先が富と呼んだ物だ。貧しい者があるべきようには生きられず、彼に有利なように生活することを強制する力(私たちが見てきたもの)である。これが金持ちの所有の結果なのだということを、理解してほしい。
 
 さて、この他人を貧しく暮らさせるという力を、社会主義は完ぺきに廃止し、その意味で、私的所有を終わらせる。だから、人為的に蓄積を妨げる法律を作る必要がない。ひとたび、人々が自分たちを雇うことができ、そうしてみんなが自分の労働の成果を楽しめることを見いだせばいいのだ。なぜなら、社会主義は、自分自身の必要で富を使うために、富を所持する個人の権利を基礎にする。労働はふさわしく組織化され、すべての人間、男も女も――未成年やその他の理由で働けない人は除いて――すべての人間が富を生産し、そうして自分の個別の必要性を満足させる全面的機会を得る。
 もし、その必要性が、何であれ平均的人間の要求の方向性を越えれば、それを満足させるために個人的犠牲を払わなければならない。たとえば、長時間働くとか、欲しくてたまらない何かを得るために他の何らかの贅沢をあきらめるとかだ。そうすることによって、少なくとも誰も傷つけない。彼の特別の欲望をあきらめるには、そうするか、他人に強制するかとのあいだでは、他にどんな選択もないことがよくわかるだろう。ところで、この後者は、社会のもっとも力強い部分の認可なしに為されれば、盗みと呼ばれる。もっとも、大規模にそして人為的法律で認可されて行なわれれば、この許可は、現在の私たちの制度となる。
 もう一度言おう。その制度では、人為的規制のないかぎり、人々に生産する許可を与えない。だが、社会主義の下では、誰でも生産できる者は自由に生産でき、できた物の価格はちょうど生産に必要な価格となる。そして、私たちがいま利益と呼んでいるものは、もはや存在しない。このように、たとえば、ある人が椅子を望んだら、使えるだけ多くの椅子を持てるまで蓄え、そこでストップする。なぜなら、椅子の生産費用以下で買うことはできないし、生産費用以上で売ることもできないからだ。言いかえれば、椅子以外には何にもないのだ。現在の制度の下では、弾を込めたライフルのように強固な強制と破壊の手段があるのだろうが。
 
 それゆえ、他人を傷つけることなく手にした物、他人を傷つけることもなく使う物の所有を、誰も他人と争うこともない。そして、所有の乱用についての誘惑もなくなるので、おそらくそれを妨げるどんな法律も必要ないだろう。
 
           
 
 ■特別な才能は発揮することで満足だ
 
 労働報酬の区別化について、一、二、述べておこう。読者はきっと、生産にあたって、労働を指示する者や、特別の素晴らしい才能を発揮する者についての社会主義者の見解を知りたいだろう。まず、最初に、特別の才能を持った労働者は、コミュニティにとっておそらく必要な対象だと私は考える。だから、他の対象同様に、コミュニティは彼の生産コストに対して支払わなければならない。たとえば、コミュニティは彼を見いだして、彼の特別の才能を発展させ、彼が持つ平均的人間以上(もしあれば)の欲望を、満足させなければならない。ただし、この必要性の満足が、コミュニティを傷つけない限りである。
 
 さらに言えば、彼が使える以上の物を与えることはできない。だから、彼はそれ以上を望むこともないし、受け取ることもない。彼の労働が他人の労働よりも特別かもしれないが、もし労働が適切に組織化されていれば、それ以上に必要ではない。農夫も漁民も、科学者や芸術家より必要だとは言わないが、同様に社会にとって必要だ。どちらも、その特別で素晴らしい才能以上に、もっと特別に素晴らしい仕事をする困難は感じていない。能力のある労働者は彼の仕事を、おそらく低い仕事をするのを同じくらい簡単にするだろう。もしそうでないなら、彼の力の消耗に供給するために、余分の余暇、余分の手段を与えなければならないわけだが、力の消耗以上には与えるわけにはいかない。素晴らしい労働者に与えることができる唯一の報酬は、彼の素晴らしい能力を引き出し実践する機会だ。繰り返すが、彼が持っている以上の価値を与えることはできない。それ以外のすべての報酬は、幻覚であるか有害である。
 ついでに言っておくが、天才と呼ばれる人間を扱う現在の制度は、まったく馬鹿げている。彼が若いうちは、残酷にも才能を抑え、飢えに苦しませる。年を取り中年になると、馬鹿なことに甘やかしおだてて、そしてまた彼の才能を抑えるのだ。彼を最大限引き出すのではなく最低限に抑えるのだ。
 
 これらの言葉は、希少な労働者に関するものだ。しかし、その意味では、単に度合いの問題にすぎないだろう。全体のポイントはこうだ。労働の指揮官はそれにふさわしいから存在しているのであり、単なる偶然ではない。ふさわしいから他の仕事をするより簡単にそれをおこない、他の人間以上に暮らしの補償を必要としないし、それを請求する必要もない。そうしても何の役にも立たないからだ。繰り返すが、特別な仕事に対する特別な報酬は、簡単に成し遂げること、そしてそれを負担とも思わないことだ。いや、じっさい、人生の主な喜びは、特別な能力が発展させるエネルギーの発揮なのだから、好きなことだから上手くできるのだ。
 もう一度言うが、彼のもとで働く労働者に関して言えば、なんら特別の威厳や権威を必要としない。彼がその機能を満たし本当に労働者たちを導くかぎり、彼らは十分わかっている。もし彼の言うことを聞かないとしたら、それは彼らの労働が厄介で難しいからだろう。つまり、これらすべてが、労働の組織化というもので、言いかえれば、どんな仕事にこれこれの人々が最適かを見つけ、それを彼らに任せるということだ。
 今、私たちはそのような骨折りをしない。結果として、人々の最善の能力が無駄になり、仕事は彼らにとって重荷になり、当然にもできるだけ避けようとする。それは彼らにとって喜びであるべきだったのだ。そして、はっきりと言おう。すべての仕事を多かれ少なかれ喜びとする方法を見いださない限り、現代社会の大きな圧政から逃れることはできない。
 
 さて、富の個人的保持に関する競争的商業的アイディアと、異なる労働者グループ間の関係とのあいだの違いに述べてきた。ここで、簡単に、私たちが取り組む政治的立場(より良い表現がないのでそう呼ぶが)、あるいは、少なくとも、長期にわたって楽しみにしているものについて述べよう。
 競争という関係に代わるのが社会主義の創設である。それは、すべての活動のなかに貫かれ、国どうしのあいだと同時に個人のあいだでも貫かれなければならない。利益がもはや作り出されなければ、地元での利益を最大限引き出すために人間を大量に集める必要はない。あるいは、いま国家と呼ばれる、現実のあるいは幻想上の人や団体の結びつきの必要もない。現在、国家と呼んでいるものは、その傘下にあるメンバーの特別の福祉を、他の同様の組織の犠牲の上に主張する機能を持つ団体だ。競争が無くなれば、この機能は取り除ける。攻撃がないから防御の必要もない。私には、この機能が国家から取り除ければ、他には何の機能もないと見える。それゆえ、政治的存在として存在することを止めるに違いない。
 この面での動きは着実に成長している。社会主義からはかなり離れてるが、地域社会管理のアイディアは、中央政府管理の概念を破って生まれつつある。目覚ましい例を取ろう。1793年のフランス革命においては、もっとも先進的な党は中央集権化されていた。だが、一番新しいフランス革命、1871年のコミューンでは、連邦主義者の党だった。あるいはアイルランドを見てみよう。こんにち、アイルランド独立の闘いに参加する者が勝ち取った成功は、確かに、このアイディアの広がりによるものだ。その土地が自身の事がらに関与すべきだというのは、もはやリベラル志向のイギリス人の怪物的な提案ではない。正しいだけではなく、そうするのがすべての党にとって利にかなっているという意識は、何世紀にもわたって培われてきた圧政と無駄の多い支配者階級による偏見を消しつつある。アイルランドの自治要求は国家間の争いではなく、真の独立の意図から出ていることを示すだろう。この考えは、一方では、アイルランド自身の国民の要求であり、他方では、他の国の市民の要求にたいする友好である。
 この考えの広がりは、社会主義者の政治的動きを容易にする。人類はついに、圧政を避ける唯一の方法を見つけ、官僚制度の無駄は独立したコミュニティの連携によって避けると悟ったのだ。連携は、明確な目的を持っている。労働の組織化を進めるために、本当の品物の需要を解明して無駄を省く。品物の分配を組織化するために、人々の移住がある。つまり、生活と振る舞いの違いを必然的に生み出した自然環境の条件があるとはいえ、利害が共通している人々のあいだでの友好的な相互の交通だ。
 
 ■完ぺきな社会主義は一気に実現されない
     不名誉が証明されたとき、人類は長く続かない?!

 こうして、社会主義のアウトラインをあるていど明らかにしてきた。最初の目的は、労働を実現する手段の独占を取り除くこと、そうして労働はすべての人にとって自由となり、その結果としての富は、少数の人間によって独占されず、多くの人間にとって惨めさと劣化を生じることもない。
 そして第2には、どれも無駄になることのない労働の組織化をめざすこと、加えて、各人の能力の自由な発達を手段として使う。
 第3には、国家間の対立を除くことをめざす。事実、あるときは金儲けをめぐって、あるときは弾丸で戦われた、終わりなき戦争、この使い古した迷信に代わって、互いに調和した連携のなかで暮らす自由なコミュニケーションの制度を取り、自身のことがらは構成員の自由な同意によって扱う。とはいえ、コミュニティが実行すべき原則を守り抜くという機能をつとめる、ある種のセンターを認める。ついに、これらの原則がすべての人間によっていつでも直観的に認められるようになれば、中央集権化の最後の痕跡が消え果てたということになる。
 
 こうした完ぺきな社会主義は――ときどき共産主義と呼ばれるが――、直ちに一気に実現されないということは、十分承知している。利益と呼ばれる盗みの形態を不可能にし、労働者側に労働実現の手段、すなわち原材料に完ぺきで自由なアクセスを与えるとき、社会はその基礎から変わる。労働の解放のためのこの要求は、すべての社会主義者が団結する基礎となるだろう。
 さらに不確定な分野では、他の政治グループに応じることはできない。ただ、論争の種が本当に無くなって、条件がクリアされたことを喜ぶのみだ。いま見通せる最後の論争が落ち着いた。そして、必要かどうかをめぐる問題が解決した(必要だと思う人もいた)。それは、社会は2種類の正直でない人のグループから成り立つという問題だった――支配者を誤魔化そうとして奴隷に堕する奴隷と、付け加えることもなく共通の原資を不正に貪り、単なる残虐な暴力以外には何の支持もないと自覚している支配者の2種類だ。彼らは、自由を求める自然な欲望に反して、人生の細部にわたって永遠に主張し続けなければならないだろう。
 
 私たちの世代が、これが不必要だと証明できればいいのだが。しかし、疑うかどうかは別にして、何世代もが、こういう不名誉は人間が存続する限り続くと証明するのにかかるだろう。そして、それが最終的に証明されたとき、少なくとも一つの望みが残ることになる――人類は長く続かないということが。
 

リストのページに戻るトップページに戻る

※この翻訳文の著作権は城下真知子に帰します
翻訳文を引用したい方は、ご連絡ください