新訳:わたしはいかにして社会主義者になったか
『正義』(社会民主連盟機関誌)への寄稿

by William Morris in 1894
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行している箇所があります)

モリスが晩年に、社会主義運動を実践するにいたった経緯をふりかえり簡潔にまとめたもの。
これ以降、モリスの健康は悪化し、実質的な運動への参加はほとんど不可能となった。
モリスは当時ハマースミス社会主義者協会を率いていたが、分裂の続く社会主義団体をなんとか団結させようと
1893年、主な3組織に働きかけ共同宣言を採択しようとして、案文を執筆するなど尽力した。
この宣言は結局実現しなかったが、社会民主連盟の編集長が他組織のモリスに原稿を依頼した現実は、
イギリスの社会主義運動に占めるモリスの位置をよく物語っている。

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  ■社会主義とは
 編集長から、私がなぜ社会主義を選んだのか、経過を書いてもらえないかと依頼された。私のようなタイプがなぜ社会主義者となったのか、それを見るのもまたなんらかの意義があるかもしれない。簡潔にはっきりと事実を描写するのは、そう簡単なことではないが、やってみよう。

 けれども、そのまえに、私が言う社会主義とはどういう意味かをまず述べたい。どうやら、今ではこの言葉は十年前のように厳密な意味で使われていないと思えるからだ。

 社会主義とは、金持ちも貧乏人もなく、主人も主人に仕える者もいない、そういう社会状態のことだ。怠ける者も過労で倒れる者もいず、精神を病んだ頭脳労働者もいなければ心を病んだ職人もいない。

 つまり、すべての人が平等な条件のもとに生活し、無駄を出すことなく自分たちの暮らしをまかなっており、一人を傷つけることはすべての人を傷つけることになるとはっきり自覚している社会だ。共同の富(コモンウェルス)を共有する共同体でという意味で、ついに実現された真のコモンウェルス(共和国)だ。

 これが私の思い描く社会主義であり、これを胸に抱いたまま死にたいと願っている。この理想社会こそ、私の出発点だった。

 私には過渡期はなかったが、政治的なラディカリズムとでもいう短い時期はあった。自分の理想は明らかだったが、実現の展望がまったく見えなかった時期だ。だが、その時期も終えて数ヶ月後、私は民主連盟(現在の社会民主連盟)に加盟した。

 加入を決断したのは、理想を実現する希望がほの見えたからだ。だが、それはどの程度現実味を持った希望だったのか? 当時、われわれ社会主義者は社会主義のために生き・努力していたとはいえ、いったい何を達成できるのか、いつこの社会に変化をもたらすことが出来るのか?――そこをどう考えていたのだと聞かれても、分からないと言うしかない。

 ただ、これだけは言える――決断によって生まれた希望や喜びは、そういう現実と天秤にかけて量ることなどできない、かけがえのないものだった。

  ■経済書より討論から多くを学んだ
 その一歩を踏み出したとき、実は、経済学についてはまったく無知だった。アダム・スミスの本を開いてみたこともなければ、リカルドやマルクスについても聞いたことがなかった。

 でも、なぜかミル〔注1〕については読んだことがあった。『ウェストミンスター評論』か『フォートナイトリー評論』で発表されたあの遺稿『社会主義についての章』のことだ〔注2〕。ミルはその論文でフーリエ式の社会主義を攻撃し批判している。彼なりに誠実で明確な持論の展開だ。私はむしろその遺稿を読んだ結果、社会主義への変革は必要であり、われわれの時代に実現できると確信した。ミルの論文で、私は最終的に社会主義を選んだわけだ。

 社会主義団体に加盟したわけだから(民主連盟は私の加盟後すぐ、社会主義の旗幟を鮮明にした)、私は社会主義の経済学的側面を学ぶ努力をした。マルクスにすら取り組んだ〔注3〕

 もっとも、『資本論』のなかの歴史的叙述は楽しく読んだが、正直言ってあの大作の純粋経済学的な部分には頭が混乱し非常に読むのに苦労した。いずれにせよ、私はできるだけ文献を読んだ。このとき学んだ知識が今も残っていてほしいと思う。

 もっとも、読書よりもっと有効だったのは、バックスやハインドマンやシューなどの友人〔注4〕と積み重ねた討論や、社会主義を広めるための活気ある研修などだった。そういう研修には私も参加した。

 こうして私は実践的社会主義を獲得したが、その仕上げは、何人かのアナーキストの友人たちから受けたと言える。ミルの意図に反して社会主義は必要だと学んだ〔注5〕のと同じように、アナーキストの友人たちの意図に反してアナーキズムは不可能だということを学んだのだ。

〔注1〕 ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)哲学者、経済学者

〔注2〕 ミル晩年の原稿『社会主義についての章』。1879年にフォートナイトリー評論に掲載

〔注3〕 『資本論』英訳はまだ出ていなかった。モリスは1884年にフランス語版を特別に装丁をしてもらって読んでいる。

〔注4〕
  アーネスト・ベルフォート・バックス(1854〜1926)英国人社会主義者。ハイドマンの独裁的態度と方針に反発したモリスとともに、社会民主連盟から脱退、社会主義者同盟を結成。その機関誌に『社会主義、その成長と成果』をモリスと共同執筆している。のちに再び連盟に戻る。
  ヘンリー・ハインドマン(1842〜1921)民主連盟創始者
  アンドレアス・シュー(1844〜1927)オーストリアから亡命してきた社会主義者。当時は欧州大陸が革命運動の先進地で、多くの亡命者がイギリスの運動を支えた。

〔注5〕 ミルは前述の論文で、「労働者階級の観点から所有の問題を検討すべきときが来た」として社会主義を検討し、性急な革命ではなく段階的な社会主義への改良を結論づけている。その意味で「ミルの意図に反して」という表現は少し公平でないように思えるが、モリスはおそらく、ミルの言う段階的改良ではなく、根本的な革命をめざすべきだと強調したかったのだろう。

  ■部分的改良では解決にならない
 ここまで、私の実践的社会主義への関わりを述べてきたが、どうやら話が飛びすぎた。話を私のバックグラウンドに少し戻そう。

 私は富裕層の一人だった。そのため、労働者のように、何をするにも金がないために挫かれて無力さを噛みしめるという苦痛は味あわなかった。だから、なんとしても理想を追求したいという熱い思いに突き動かされなかったら、社会主義の実践的追求には足を踏み入れなかったにちがいない。

 というのも、私は政治としての政治に魅力を感じたことは一度もなかったからだ。ただし、ここで「政治としての政治」という場合は、厄介で不愉快ではあるが目的にとっては必要な手段である政治のことを指しているわけではない。

 また私は、富裕層の知識人によくあるような部分的改良にも惹かれなかった。現存在する社会の不正や貧困層への抑圧、それを自覚したとき、私は事態を部分的に改良することができるなどとはまったく思わなかった。言いかえれば、「貧乏人に福祉を施せば少しは『上品な』暮らしが出来て彼らも幸せに過ごせる」などと考えたりするような愚か者ではなかった。

 では、私に実践的社会主義を求めさせた理想、その理想はなにゆえ生まれてきたのか。これが次の問題だ。それを説明するには、冒頭に言った「私はある種の気質の人間だ」ということに触れなければならない。

  ■いわゆる知識人の現実
 十九世紀文明に対する知識人の態度には、三種類ある。

 近代的社会主義が狼煙を上げるまでは、知識人の大半は十九世紀の文明に満足していた。あるいは、満足であるかのように装っていた。この文明をなんとかしなければならないと考える人などほとんどいず、過去の野蛮な時代の馬鹿げた残存物を少し取り除いて文明を完ぺきにしさえすれば十分だというわけだ。これが、ホイッグ党〔注6〕の精神構造であり、いま羽振りのいい中流階級によくある考え方だ。

 じっさいのところ中流階級は、社会主義者がちょっかいを出さずに今のまま裕福な生活を享受させてくれるなら、時代の進歩などには関心もない。

 だがこのほかに、実は文明の凱歌にたいしては漠然と嫌悪の感情を持っており満足などしていないのだが、ホイッグ党の巨大な力によって沈黙を強いられている人々がいる。

 さらに第三には、そのホイッグ党に公然と反抗した人々が何人かいる。いや、二人と言っていいだろう。カーライル〔注7〕とラスキン〔注8〕だ。

 私がまだ実践的社会主義者ではなかった時期、私に理想を教えてくれた師匠がラスキンだった。もし二十年前にラスキンがいなかったら、世の中はなんと恐ろしく味気なかったことだろう。ラスキンを通じて、私は自分の満たされない思いに形を与えることができた。その寂寞感は、はっきりした根拠のあるものだったのだ。

 美の創造への熱望が私の人生を動かしてきたが、それを別にすると、過去も現在も私の人生を導いてきた情熱は現代文明への憎悪だ。表現する言葉を得たいま、いったいこれをどう表現すればいいだろう。現代文明など破壊したい、そしてそれを社会主義で置き換えたい――いったいどう言えば、これが伝わるだろう?

〔注6〕 十七、八世紀からのイギリスの議会政党。のちの自由党、自由民主党。 

〔注7〕 トーマス・カーライル(1795〜1881) 歴史家・評論家。フランス革命の研究などで知られる。

〔注8〕 ジョン・ラスキン(1819〜1900) 美術評論家。画家のターナーやラファエル前派を支えた。『ヴェニスの石』などを執筆。オックスフォード大学で教鞭をとり、その芸術論、文明論でモリスに影響を与えた。

  ■耐えられない文明の愚かさ、汚さ
 どう言えば、現代の文明が機械の力を掌握し浪費していることを分かってもらえるだろうか。

 コモンウェルスたるべき社会はこんなにも貧しく、共同の富に敵対する者はこんなにも金持ちだ。その膨大な体制は、惨めな生活を作り出すために存在しているのだ! 

 すべての人が楽しくなる素朴な喜びを軽蔑し、それが文明の進歩だとする愚かさ! 労働の確かな慰めである芸術を破壊し、俗悪さを持ち上げる見る目のなさ! これらすべて、そのときも今と同様に感じていた。だが、なぜそうなっているのかが分からなかった。

 歴史的過去に存在していた希望は消え失せ、幾時代にもわたる人類の奮闘は、浅ましく醜い混乱だけをあてもなく生み出してしまった。かろうじて生き残った最後の伝統すら、いずれ文明が拭い去り、悪が濃縮され、ついにはどす黒く汚らしい文明が世界に腰を据える――私にはそう思えた。まったく荒涼とした未来だった。

 私のように、形而上学や宗教や科学的分析についてはあまり関心がないが、地球やその上に住む生きものを深く愛し、人類の歴史に強い情熱を感じている――そういう気質の人間にとっては耐えられない将来だった。

  ■変革の芽生えを発見してすべては一変した
 考えてもみてほしい! エンジンを燃やし続ける石炭の燃え殻、そのゴミの山にそびえたつ銀行に、なぜすべてが吸い上げられなければならないのか。しかもそのオフィスの隣りには、成り上がり資本家ポドスナップ〔注9〕の居間が控えているとくる。

 そして、ホイッグ党政府は、「金持ちにはシャンパンを、貧乏人にはバターならぬ俗悪マーガリン〔注10〕を」という都合のよい配分を編み出し、これですべての人間が満足するという。美しいものを見る喜びは世の中から消え失せ、詩人ホメロス〔注11〕もハクスレー〔注12〕に取って代わられるというのに?

 「未来を見据えよ」と自分に言い聞かせるたびに、心の奥底に見えてくるのはこういう未来だったのだ。

 それなのに、周りの誰もほとんど、このように「成就」する文明にたいして闘おうともしていなかった。そういう、まったく悲観的な人生の際(きわ)に私はいたわけだ。

 だから、この汚らしい文明があふれるなかにも芽を出しつつある偉大な変革の種――われわれ社会主義者はこれを社会革命と呼ぶ――これに気づかなかったら、私はそのまま悲嘆にくれていたことだろう。

 だが、この発見によってすべてが一変した。あとはもう、社会主義者として実際の運動に身を投じるだけだった。そして先に述べたように、それ以後、私は全力を尽くして運動に取り組んできた。

 述べてきたことをまとめよう。歴史を学び芸術実践に情熱を燃やした私は、文明というものを嫌悪せざるをえなかった。このままにしておけば、文明は、歴史を脈絡もない愚行に変質させ、芸術を現実の暮らしとは無縁な骨董品収集にしてしまうだろう。

 だが、私は、忌まわしい現代社会の内側から湧き上がってきた革命を自覚したおかげで、たんなる「進歩」反対派に固まってしまわずにすんだ。

 その意味で私は、芸術家を志向している他の多くの者たちより幸運だった。そして、芸術家を気取る中流階級がよくやるように、無駄な多くの企画で時間とエネルギーを浪費せずにすんだ。芸術はすでに張るべき根を失っているのに、彼らはあたかもこれからもそのまま成長するかのように錯覚しているのだ。

 こうして、私は実践的な社会主義者になった。

〔注9〕 SPAB講演にも出てきた、チャールズ・ディケンズの小説『我らが共通の友』の登場人物。典型的な上位中流階級の独善的人物。ここでは、成り上がりの資本家という意味合いもある。

〔注10〕 当時、高いバターを買えない人のために、劣悪な模造品としてマーガリンが販売されていた。それすら買えない労働者も多かった。

〔注11〕 古代ギリシャの吟遊詩人。叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』の作者とされる

〔注12〕 トマス・ヘンリー・ハクスレー(1825〜1895)のことと思われる。生物学者。

  ■労働者に理想を示すのは芸術の役割だ
 読者のなかには、「そういう歴史と芸術の問題が社会民主連盟とどういう関係があるのだ」という人もいるかもしれない。だから、最後に少しつけくわえたい。

 社会民主主義によってわれわれが勝ち取りたいのは、きちんとした暮らしだ。生きるにふさわしい暮らしが欲しい。それも今すぐだ。

 なかには、日々どう食べるかよりも芸術や教養の問題を優先すべきだと提案する人がいるが――そういう人が実際いるのだ――、もちろん、そういう人は芸術が何なのかを理解していない。豊かで不安のない暮らしという土壌に根ざして初めて芸術が育つことが分かっていないわけだ。

 だが同時に忘れてはならないことがある。文明が労働者をあんなにも痩せこけた哀れな存在に貶めてしまったために、労働者には今耐え忍んでいる生活しか見えず、それより少しでもましな生活への欲望をどう醸成するかが分からないということだ。

 だからこそ、芸術は、彼らに生きるにふさわしい豊かな真の生活の理想を指し示し、芸術の本分をまっとうすべきなのだ。美を感じ創造できる生活、そのなかにこそ喜びがある。それを堪能することが日々のパンと同じように必要だと感じられる人間の暮らし。

 誰も、どういう集団も、これを奪われてはならない。それが必要ないなどと言うのは、ためにする反対でしかない。そんな主張には徹底的に抵抗すべきだ。    
                                  以 上

この論文は1953年に岩波文庫から出版された『民衆の芸術』(中橋一夫訳)のなかにも収録されています。
モリスの資料なども限定されていた50年以上前に、これを翻訳された努力に敬意を表します。
ただ、当時の翻訳は漢字なども現代の若者には読みにくいこと、
また意味するところが伝わりにくい箇所もあり、まったく別に新しく訳しています。

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