ちょっと横道
マウントソレル村物語――英国レスターシャーで垣間見た村の暮らし
その2 築250年の「時代荘」 わたしが1年間住んだ家は、5、6軒ほどつながる長屋の1軒でした。長屋と言っても、規格品として何列も建てられた近代のテラスハウスとは違って、それぞれの家の高さもデザインも異なります。おそらく昔の庶民にとっては、家を建てるときに隣の既存の壁を利用するのが建てやすかったからつながった、というだけのことなのでしょう。わたしの家とその右隣は3階建てでしたが、さらに右隣の、レンガを生かした洒落た家は2階建て。左隣のジャンの家も2階建てでした。高さはほとんど変わりません。家主とジャンの言うところによると、わたしの家は、なんと1750年代に建てられたものだそうです。それを誇るように、コテッジは「Times Cottage」と名づけられていました。「時代荘」とでも訳しましょうか。 暖炉のあった居間 隣人のジャンの家などは、もうすっかりモダンな造りに変わってしまっていましたが、わたしの家は、昔の間取りをかなり残した、分厚い白い壁のコテッジでした。でもセントラルヒーティングですから、暖房はモダンです。1階には居間と台所、2階には小部屋が2つにお風呂、3階はワンフロアです。 ドアを開けるとすぐ、暖炉のある8畳くらいの居間がありました。残念ながら暖炉は使わせてもらえず、スタイルだけはクラシックな電気ストーブがすっぽりはめ込まれていました。いきなり居間というのは違和感がありましたが、18世紀の建物だと聞いて納得がいきました。BBCのドラマなどを見ても昔の庶民の家はそうだったようです。ここが、食事したりくつろいだりするメインの部屋だったのでしょう。夕食後には、家族が暖炉にあたりながら、本を読んだり居眠りをしたりして思い思いに時間を過ごし、近所の人も気軽に顔を出したりしたのでしょう。 居間の奥に、窓のない2畳くらいの小部屋がありました。暗い不思議な空間で、何に使ったのだろうと疑問でした。友だちと「反省部屋かな?」などと冗談を言ったりしていたのですが、ある日、大きな梁から丈夫な釘が何本か突き出しているのをみて気がつきました。ここは昔の台所だったのです!貯蔵室と言った方がいいかもしれません。鳥や獣をあの釘からぶら下げていたのでしょう。今は、居間から台所に通じるドアがあり、台所には庭に出る勝手口があります。でも昔は、この「反省部屋」が庭に向って開いていたのではないでしょうか。庭で鳥などをさばいて処理し、ここにぶら下げて保存し、暖炉で料理したのでしょう。 ところで、わたしの家とすぐ右隣の家は同じ大家さんで、外壁はペパーミントグリーンに塗ってあり、外からは1軒の家のように見えます。おそらく元々はそうだったのかもしれません。その右端はドアのついた通路になっており、わたしはその通路の鍵も渡されました。わたしの家の庭からも通路を通ることができるのです。まあ、京町家の通り庭のような感じでしょうか。その通路は古めかしい石造りで、なんだかジメジメしていました。 「この通路は、中世のものらしいのよ」 ジャンが得意げに説明してくれました。日本と違って、建物は古い方が自慢なのです。わたしも、つい僧カドフェルの時代などを想像し、その頃はどんな娘たちがここを通ったのだろうと楽しくなりました。その通路を通ってゴミ箱を出すたびに、隣の家はどんな造りだろう、どんな風に1軒を区切ったのだろうと、横目で見たものです。我が家より少し狭いように見えますが、あいにく、いつも閉まっていて、想像は広がりませんでした。 居間に戻って、暖炉の横にある湾曲した短い階段を上ると2階です。左右に2部屋で、広場に面した南向きを、わたしは書斎に使っていました。裏側の部屋は狭いのですが、家の庭が見えて、それはそれで楽しい部屋です。この階には、恐ろしく広い風呂場もありました。寛大な大家さんのおかげで、お風呂には豪勢な湯船とは別に、シャワーキュービクルまでありました。しかも、給湯器を最新のものにしてくれたのでパワーシャワーで、そこらへんのホテルよりずっと豪華。イギリス暮らしでいつも悩んできたのはお風呂でした。ぬるま湯しか出なかったり、途中で水になってしまったり。冬にお風呂に入るのは一大決心がいったものです。でも、この田舎家は、その点は夢のようでした。 さらに短い階段を上ると、3階。10畳くらいの広さのワンフロアでした。窓が大きく作られていて、家で一番明るい場所です。冬の鬱から抜け出した隣人のジャンが春に教えてくれたところによると、それもそのはず。その昔は、この明るさを利用して、ここに編み機を置き家内工業を営んでいたというのです。しかも、その頃は3階には隣家との間の壁がなく、もっと広かったそうです。家内工業としてはそれなりの規模だったでしょう。weaver's cottage(織物・編物職人の家)のことは聞いたことがありましたが、わたしの住んでいる家がそうだったとは。前身の分かる家に住んだのは初めてなので、興奮してしまいました。この広場の周りのほかの家も、多くが家内工業で編物をしていたそうです。 |
編物職人の村 このあたりラフバラ一帯からノッティンガムにかけては、絹や綿の編物・ニットがさかんでした。ノッティンガムのレース編みは特に有名です。 日本でweaverというと織物がまず浮かびますが、編物・ニットする人も含みます。じっさいマウントソレル村では織りで布を作っていたのではなく、絹で靴下を編んでいました。17世紀ごろでしょうか。手編みなのか、それともすでに素朴な機械を使っていたのかもしれません。当時は、靴下を履くのは貴族だけです。高価なものであり、職人の技だったことでしょう。 そのうち、綿が絹に取って代わり、生産量も多くなりました。マウントソレル村やラフバラの村の家々では、機械を置いて綿メリヤスを編むようになったそうです。わたしの家の3階が使われたのはこの頃でしょう。18世紀のあいだの数十年のことです。(19世紀初めには、もっと本格的な機械が発明され、家内工業ではなく、労働者を一堂に集めた工場が作られていきます) 機械は高価でしたから、庶民にはおいそれと買えません。多くの場合、金持ちの地主などが機械を貸し付けて仕事をさせ、出来高に応じて手間賃を払うやり方が取られたようです。 マウントソレル村の記録を調べると、広場のふもと、主要道路に近いところに雑貨屋があったそうです。その雑貨屋が仕事を卸す元締めでした。これが、あくどいのです。手間賃を安く抑えるだけではありません。村の人たちは材料を受け取り、製品を作って雑貨屋に持っていきます。手間賃をもらうには、必ず雑貨屋の奥に入らないと受け取れないようになっていて、お金を持って店を通り抜けなくてはなりません。もらった賃金を使って雑貨屋の品物を買うようにという無言の圧力でした。ぎりぎりの生活をしている人たちには余分の出費です。もちろん無視することもできます。でも、そうすると、次の仕事を減らされたりするのです。窮した家族たちがそろって抵抗することもあったようです。 我が家に住んでいた人たちは、どういう思いで、この部屋で編物をしたのでしょう。のどかな陽射しに包まれていても、この部屋にはため息が満ちているのかもしれません。 そうした家内工業も時代遅れになる日が来ます。18世紀後半から、いろいろな編機・織機が開発されていきます。近くはラフバラに住むヒースコートという人物が、1808年に編機を改良し、レース編み用の本格的機械を発明します。特許を取ったヒースコートは工場を建設し、大量生産を始めます。仕事を奪われた職人たちは、ネッド・ラッドという人物にならい、ヒースコートの機械を打ち壊して抵抗しました。そうです、いわゆる「ラッダイト運動」です。その運動に名を冠されたラッドは、マウントソレル村からバスで20分のアンスティ村の出身だったのです! 教科書で読んだだけの人物が、急に横に立ち現れたような気がしました。この事件については、別に詳しく書くことにします。 |
コテッジガーデン |
お庭でアフターヌーン・ティ 庭があるとうれしいのは、庭でお茶が飲めることです。読まなければならない本はたくさんあったので、よく、紅茶を入れて、外で本を読みました。周りの家にあるような、お洒落なガーデンチェアやテーブルはありませんでしたが、芝生の上に適当な布を敷き、陽射しの強い日は雨傘がパラソル代わりです。余裕のある時は、素朴なそば粉ケーキを焼き、バターと蜂蜜をかけ、濃いめのミルクティとともにゆったり味わいました。ラベンダーやバラの香りに包まれて、鳥の声を聞きながら庭に座っていると、まさにカントリーライフ!でした。 庭のバラは次々と咲きました。美しい花びらがもったいないから、落ちる直前に取ってポプリのようににします。グリーンで開かれたバザーで、感じのよいガラス鉢をたった1ポンド(当時160円程度)で手に入れましたので、花びらをその鉢に入れて、暖炉のあたりに飾りました。日が暮れて家の中にいても、それを見ると、庭の花が感じられて、コテッジ生活満喫でした。 庭にはいろんな鳥がやってきました。日本だと、近所で見たのはカラス、スズメにムクドリくらいでしたが、イギリスではたくさんのカラフルな鳥を見かけました。なかでも一番かわいいのがロビン(コマドリ)です。胸が赤く目がクリクリしたロビンは好奇心旺盛で、人間が庭仕事をしているとよく出てきます。掘り返した土から出る虫を狙っているのだという説もあります。わたしが庭仕事をしているときも現れて、「何をしてるの?」とでも言うように、小首をかしげて眺めていたものです。 庭にはバード・フィーダーもぶら下げていましたので、2階の窓からは鳥がひまわりの実などの餌を食べに来るのを眺めることもできました。ところが、その餌の減りようがずいぶん早いのです。しかも、鳥用のフィーダーに噛み痕までできていて、壊れそうになっている! 「それはリスだわ!」 鳥の餌を買いに行ったお店で出会ったおばさんが、自信を持って教えてくれました。 リスが餌を食べてもいいけれど、餌箱は壊さないでよ、こっちは節約生活の学生なんだから――そう思いましたが、とりあえず、もう少し高価でリスには手が出ないだろうと思えるフィーダーを買って、ぶら下げておきました。それでも、ときには餌があたり一面に散らばっていたりします。 そして、ある日、わたしは「犯行現場」をバッチリ目撃したのです。彼は、どこから現れたのか塀をよじ登り、クレマチス用のワイヤーに近づき、後ろ足でそれに逆さまにぶら下がり、両手(前足と言うべきか?)を器用に使ってシリンダー型のフィーダーから餌をほじくりだして食べていたのです。ウーン、敵ながらあっぱれ。しかも体をひねったときに、はっきり、彼は彼ではなく、お乳の張ったお母さんリスだったことが判明しました。子育てで必死だから、林の木の実を集めるのではなく、安易に鳥の上前をはねようというわけね――わたしは、許してやることにしました。鳥さんには、リスが来ないときに食べに来てもらいましょう。 アクロバットをしているリス コテッジ・ガーデンでわたしがした庭仕事といえば、芝刈りと雑草抜き以外には、咲き終わった花を摘んでいったことぐらいです。たいした手入れをしなくても、花は次々と咲いてくれました。多年草や球根が多く植えられていたのでしょう。もともとコテッジ・ガーデンは、野原に咲く雑草のような花を中心にして作られ、手入れがあまりいらない庭なのかもしれません。おかげで、素人のわたしも、春から秋にかけて花いっぱいの暮らしを楽しむことができました。わたしが冬の近づく11月に村を離れたあとも、あの庭の花は春になればちゃんと咲いてくれたことでしょう。 でも、ひとつだけ。ラベンダーのことです。大家さんが「花が終わったら、どんどん切り込んでちょうだい。切れば次の年に新しい茎が生えてくるから、刈り込み過ぎと思うくらいでもいいわよ」と言っていたので、枯れたようにみすぼらしくなった茎は思いっ切り刈り込みました。「すっきりした!」と素人は思ったものですが、大丈夫だったでしょうか。次の年もちゃんと咲いたでしょうか。いい香りを運んでくれたし、蜂がとても好いていた花だけに、それだけが気がかりです。 (この項終わり。さらに物語は続きます。次回は「もう一つの村、アンスティ」) |