地球の美と芸術 その1

by William Morris in 1881
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました) 2018/2/28

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ウェッジウッド協会の聴衆に対して、1881年10月13日におこなった講演。
バーズレムの公会堂にて
  イングランド中西部の陶業の町。18世紀にウェッジウッドがここで創業 

 私たち人間が故意的に破壊することさえ止めれば、人間が居住できる地球上のスペースで、それなりの美しさを持たないところなど少しもない。
 そして、この地球の美の適切な共有こそ、働いてそれを獲得するすべての人間の権利だと言いたい。
 すべての正直で勤勉な家族のための、まともな環境のなかのまともな家――これこそ、芸術の名において私が要求したいことだ。



  ■訳者から

 21世紀の今、「環境を守ろう」という叫びは当たり前のように叫ばれている。だが、これは新しい叫びではない。すでに19世紀のロンドンで、モリスは地球の美の破壊と闘い続けていた。世界の「先進国」イギリスで自然が破壊されていき、巨大化した都会は高級住宅地とスラムに二極分解していく。そして、人口の大半を占める労働者は想像を絶する悲惨な住居で日常生活を送っている――この現実に、芸術家モリスは立ち向かっていた。

 1877年に「小芸術(装飾芸術)」で独自の芸術=労働概念を明らかにして以降、常に芸術の立場から近代社会と闘ってきたモリスは、1883年に公に「社会主義者宣言」し、社会を変革する運動を開始した。その考えをどのように育んでいったかが垣間見える1881年の講演が「地球の美と芸術」である。いかに社会を変革するの「手段」について自分の考えはあえて述べず、目標を共有できれば、自然にそれぞれの手段を思いつくはずだと、個人の主体性に委ねている。

 モリスは、自然が破壊され美しい人間の住処である地球が汚されていくのは、金儲けが最優先されて人間が物を作るただの手段・機械におとしめられていることと不可分だと考えた。それは、「人間の労働は本質的に喜びであるはずで、労働における人間の喜びが体現されたものこそが芸術だ」という独特な視点に基づくものだった。モリスにとって、環境破壊、芸術の日常生活からの離反、そして労働の疎外は、一体の問題だった。


  ■危機に瀕する「実用性と美の統一」

 私たちはいま、おそらく世界でももっとも古いと呼ばれる手仕事にいそしむ集まりの只中にいる。私がとても関心を持っている仕事だが、それも当然で、家屋建築という気高い技能を除けば、おそらく一番大事な工芸だろう。非常に大切な家庭用の品の製作に熱心に携わっている人々に囲まれ、私はいま、芸術学校で語っている。ある時期に全国で設立されたアートスクールの1つだ。

 そのころ、正しくも産業芸術と呼ばれる仕事全体に関わる2つの要素、つまり、実用的要素と芸術的要素のあいだがどうもうまく言っていないと感じられたために、アートスクールがいっせいに作られたのだった。今晩私が語ることが、こうした教育機関の重要性を過小評価するとは考えないでほしい。まったく反対で、私たちにはそれが必要だと思っている。ただし、この2つの要素である実用と美を統一しようとする試みを、私たちがあきらめるつもりなら別の話である。

 私ほど陶器づくりという芸術の重要性に痛感している人間はいないと思う。それに、その芸術的研究や美術史的観点からの研究をおろそかにはしてこなかったが、私はここで皆さんの特定の芸術的課題を追求していこうとは思っていない。そうした技術的側面を知らず、また美術史的側面から陶器芸術を理解するのが十分でないからというよりも、むしろ、今日の状況下では装飾芸術の1つを他と分離するのはほとんど不可能だと思うからだ。

 それに、私が、産業芸術のデザイナーの指針となる一般的ルールを要約したとしても、皆さんの興味をそそることができるとは思えないし、まして導くことができるとは思えない。これらの学校の設立の基礎において、教官はこれらのルールを明確に満足いく形で述べられており、それらのルールは、少なくとも理論的には全般的に受け入れられていると思う。

 私がじっさいやるべきなのは、私の頭から決して去ることのない考えを話すことだ。それは、芸術全般の状態と展望についての1つの意見であり、もし無視すれば次第に私たちをまったく奇妙な事態へと追いやりかねないことがらだ。陶芸家が壺になんの装飾も施せなくなる事態、いや、厳密に論理的な精神の持ち主がいたとしても、現実的な使用目的で何らかの形を作るのでない限り、どんな形の壺を作ればいいのかが分からなくなる事態だ。

 おそらくこれらについて私が言うべきことは、皆さん方にとって新しい話ではないだろうし、多かれ少なかれ、皆さんの気に障るだろう。だが、どうか信じてほしいが、私は、皆さん方が講演を依頼してくれたことをとても誇りに思っている。芸術の課題について私がはからずも考えたことを聞きたいと思って招いてくださったのは疑いもない。

 それゆえ、ここに立って自分が思ってもいないことを長々と述べるようでは、その名誉に応えていないことになるし、皆さんを取るに足らないかのように扱っていることになる。だから、どうか率直に話すことをお許しいただきたい。決して軽々に語りはしないとお約束する。
 
 (中略)

 この地で、あんな硬くて滑らかで引き締まった持ちの良い陶器を作っている皆さんは、陶器製作にあたって、通常の使途にふさわしいだけでなく、その他の質も加えなければならないことはよくご存じだろう。実用的であると同時に美しく作ると明らかにしなければならない。そうでなければ、間違いなく市場を失うことだろう。世の中は皆さん方の芸術を、そして歴史の始まりからのすべての産業芸術をそのように扱ってきた。習慣の力によるものかそうでないかは別にしても、それがこんにちまで培われてきた考えだ。

 にもかかわらず、日常生活における芸術の位置はかつてのそれからはまったく異なってしまっている。だから、私には(そして、これは私1人の考えではない)、世界は、芸術を家庭に持ち帰るか、それとも投げ捨ててしまおうかとためらっているように思えるのだ。

 疑いもなく大変深刻で驚くような主張をおこなったが、この点を説明しないといけないだろう。できるだけ短い言葉で説明しよう。現代の芸術を見舞った一大変化について、皆さんのほとんどが、いやそもそもその多数が感覚として痛感しているかどうか、私には定かではない。ここにいる多くの皆さんが生まれてから、かなり最近になって絶頂に達したばかりの変化である。

 おそらく皆さんにとっては、中世初期の混乱と野蛮のなかから芸術がとにかく抜け出してきてからというもの、芸術の連鎖にはなんの断絶もないと思えるだろう。成長と改良という変化が徐々にはあった(後者は、おそらく必ずしも最初にすぐ分かるものではない)が、暴力や断絶はまったく起こらなかったし、成長と改良は現在も続いていると思っているだろう。
 
 これはとても理性的な見解に思えるし、間違いなく、人間の進歩の他の側面において起こったことの類推だ。いや、皆さんの芸術における喜びや未来への希望が築かれたのは、この基礎の上だった。だが、その希望の土台が裏切られたと感じる私たちもいる。私たちの希望がいかなる基礎の上に築かれたのか、今晩の講演で一部お話しできることだろう。だが、まず、私たちの以前の希望が崩れ落ちてしまった奈落を、まず皆さんにのぞいてもらおうと思う。
 
(以下、一部省略。 書かれているのは:
 中世初期からルネッサンスへの史的考察。中世では、建物も生活用品も、名もない庶民が作ったこと、生活の道具が同時に芸術品であったことなど。『民衆の芸術』などを参照されたい)



 ■ルネッサンス期に芸術が日常生活から切り離された

 なぜこういう事態になったのかを少し述べた。この歴史の根底にあるのは何か、そして皆さんに基本的に注目してほしい、覚えていてほしいと思うのは次の点だ。ルネッサンスを担った人たちが意識的にせよ無意識にせよ全力を尽くしたのは、人間の日常的生活と芸術を切り離すことだった。必ずしも彼らの生きている時代に実現したとは言えないが、それは迅速に確実に推進された。

 だが、ここで皆さんに、私や、私よりも立派な人たちが繰り返し言ってきたことを思い出してほしい。かつては、何であれ、ものを作る者は誰でも、実用的な品を同時に芸術品として作ってきた。だが、現在では、ほんのわずかなものが、かろうじて芸術品だと考えられているだけだ。どうか、これが何を意味するのかを真剣に慎重に全力で考えてみてほしい。

 だが、その前に、何を言っているのだと疑う人がいないように、皆さんに尋ねよう。明確な絵画と彫刻を除けば、博物館に置かれた展示品の大半は何だろう。昔に使われたふつうの日常用品ではないのか? もちろん、それをただの古道具として眺める人もいることだろう。だが、皆さんや私は、まったく当然にも、さまざまなことを教えてくれる貴重な宝物としてそれを眺めるよう教育されたはずだ。

 繰り返すが、それでいて、それらはほとんどがふつうの生活用品であり、それを作ったのは、今の言葉で言えば「ふつうの男たち」、特に教養もなく、太陽が地球を回っており、エルサレムはまさしく世界の中心にあると信じていた者たちだったのだ。

 もう1つ、私たちにまだ残されている博物館、つまりわが国の教会を取ってみよう。「教会」という名前に惑わされず、なかにあるすべてに芸術が体現されている点に注目してほしい。本物の芸術があった時代には、人々は自分の家とまったく同じスタイルで村の教会を作った。「宗教芸術」というのは、ここ30年のあいだに考案されたことに過ぎない。

 ちょうど私自身、テムズ川源流の近くにある人里離れた地域から帰ってきたばかりだ。そのあたりでは半径5マイル以内に小さな村の教会が5つ6つあるが、そのどれもがそれぞれ個性を持った美しい芸術なのだ。皆さんは私たちを「テムズ川沿いの田舎者」と呼ぶだろうが、これが、それ以上でも何でもない者たちの仕事なのだ。

 だが、現在、同じような人々が教会を設計し建築するとしても(ここ50年間ほどのあいだに、彼らは建物づくりの伝統をすべて失ってしまった。もっとも、彼らは他の大半の人よりも長くその伝統に執着してきたが)、もはや、近隣に散らばっているような、ありきたりの平凡な非国教教会(訳注:英国国教会から脱退したプロテスタント教会)より以上のものは建てられないだろう。彼らに合うのはそういう建物で、建築家が設計したゴシックの新しい教会ではない。

 皆さん方が遺跡を研究すればするほど、私の言っていることが正しいこと、そして私たちに残された初期の芸術はこうした人々が自力で作ったことが分かるだろう。さらに、それらの建物は知的に、かつ楽しみながら建てられたことにもきっと気がつくだろう。


 ■楽しみながらものを作る日々、働く日々がかつてあった

 「楽しみながら」という点はとても重要なので、またかと思われるかもしれないが、かつての文章を敷衍して全体を展開させてほしい。何かを作る人たちはすべて、実用的であると同時に芸術でもある品を作っていた時代がかつてあった。そして、それを作ることは彼らの楽しみでもあった

 私は何があってもこの主張を棄てることはできない。何を疑問に思ったとしても、これを疑うことはない。それに、皆さん、私の人生で何か価値のある仕事があるとしたら、価値ある大志があるとしたら、それは、「かつてはそうだったし、今もそうだ」と言える日をもたらすために何か役に立てるかもしれないという希望なのだ。

 でも、誤解しないでほしい。私は単に過去を称賛しているわけではない。いま述べてきた時代は、生活はたいていとても厳しく、不運なことも多く、暴力や迷信や無知や隷属に悩まされてもいた。

 それでも、私にはこう思えてならない――貧しい民衆は何らかの慰めを切望しただろうし、慰めがまったくなかったわけではないだろう。その慰めこそ、仕事のなかの喜びだったのだ、と。

 皆さん、ああ、その時代から比べれば世界はずいぶんと進歩したはずだ。それでも、自然が私たちに差し出してくれる慰めをすべて脇に追いやれるほどの完璧な幸せを、人間全体が獲得したとはとても思えない。それとも、永遠に私たちは、1つの悪を取り除いたと思ったら次の悪に直面しなければならないのだろうか? すべての悪を一挙に払いのけてしまう力は発揮できないのだろうか?

 もちろん、いま私たちがおこなうすべての仕事にどんな喜びもないと言っているのではない。しかし、その喜びは、むしろ、一連の仕事をやっと成し遂げたという喜びではないだろうか――確かにそれ自体は勇敢で立派な感覚ではあるが。あるいは、のしかかる負担に耐えることだったりしないだろうか。心の底から湧き出る人間らしい喜びの証しを労働者が刻み込んだというレベルの仕事に出会うのは、ほんのたまで、まったくまれだ。


 ■機械的仕事・分業が取って代わった
 
 また、仕事をする体制もそれを許してくれない。ほとんどすべての場合、デザイナーとデザインを実行する者とのあいだには共感が存在しない。デザイナー自身も、しばしば、落ち込んだ心のまま機械的な仕事を強いられる。それも不思議ではない。私の経験から言って、自分で作ることもないのに次から次へとデザインすることは――しかも単なる図形づくりだ――大きな精神的ストレスなのだ。

 あらゆるタイプの労働者がすべて永遠に機械へと退化させられない限り、手を使うことで心を落ち着かせ、心はその手を落ち着かせるものなのだ。だが、なんということだ。このような仕事を世界は失ってしまった。そしてそこに、分業の結果でしかない仕事をはめ込んでしまった。

 そういう仕事では、他に何ができるとしても、芸術品を作ることはできない。現在の体制が続く限り、芸術品は最初から最後まで1人がおこなう作品に限られてしまう。つまり、絵画、独立した彫刻(訳注:建物の装飾の一部に組み込まれているのではない、彫刻作品そのもの)などのような作品だ。だが、そうは言っても、そういう作品でも民衆の芸術の喪失によって生まれたギャップを埋めることはできない。受けるにふさわしい共感を得ることもできない。とくに想像力に満ちた作品がそうなる。

 率直に申し上げるが、事態がこのままなら、高度の教育を受けない限り、高いレベルの絵画を理解するのは誰にもできないだろう。いや、ほとんどの人々は、自分たちに十分馴染みのある場面を描いた絵画以外は、じっさい、どんな絵画にもほとんど感動しないだろう。

 不運な芸術家よりも、私にとってずっと重要で気にかかるのはこのような一般の人々の状況だ。まあ、もちろん、芸術家のことも考慮する必要はある。素朴な民衆からのいろんな共感を受けられないという問題は芸術家に大きくのしかかるだろう。なぜなら、その作品は熱っぽく空想的になるか、あるいは難解でひねくれたものになるのは間違いないからだ。

 そうなのだ。民衆が病んでいれば、その指導者もまた癒しが必要となることを覚えておいてほしい。すべての人に共有されない限り、芸術は成長し花開くことはできない。いや、存在することすらできない。私自身、そんなことにはなってほしくはない。

 だからこそ、私は皆さんの前に立って、こう言うのだ。世界は、いまや、芸術を取るのか、それとも捨てるのかを選ぶべきだ。私たち一人ひとりもまた、どちらの陣営に就くのを決めなければならない。誠実に芸術を受け入れるのか、それとも誠実に拒否するのかだ。

                        (その2に続く)
           

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