地球の美と芸術 その2

by William Morris in 1881
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました) 2018/2/28

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 私たち人間が故意的に破壊することさえ止めれば、人間が居住できる地球上のスペースで、それなりの美しさを持たないところなど少しもない。
 そして、この地球の美の適切な共有こそ、働いてそれを獲得するすべての人間の権利だと言いたい。
 すべての正直で勤勉な家族のための、まともな環境のなかのまともな家――これこそ、芸術の名において私が要求したいことだ。



  ■芸術を取るのか、それとも投げ捨てるのか?

 この2つの選択肢がどういう意味を持つのか、もう一度説明させてほしい。もし芸術を受け入れるのなら、それはあなたの日常生活の一部であり、すべての人の日常の暮らしであるべきだ。どこに行こうとも私たちと共にある。過去の伝統に満ちた古代の都市にも、アメリカや植民地など、新しく開拓された農場で伝統に囲まれていない土地に住む場合にも、もちろん静かな田舎にも賑わいの町にも存在していて、それなしのところなどあり得ない。

 悲しみのときも喜びのときも、仕事をしている時間も休んでいる時間も、あなたと共にある。誰もえこひいきせず、紳士にも庶民にも、学のある者にも無い者にも共有されて、誰もが理解できる言葉となる。

 人々の暮らしにもっとも必要などんな仕事も妨げはしないが、すべての劣悪な労苦や、人を無気力にさせるぜいたくや、きざな軽薄さは終わらせる。無知や不誠実さや残虐にとっては不?戴天の敵となるが、繊細さや公平な扱いや人間どうしの信頼は育てるだろう。人間らしい敬虔さで高い知性を持つ人を敬うことを教えるが、自分を偽って見せかける人でさえなければどんな人でも見下さない。

 仕事をするための手段となり、滋養を与える食べ物となる芸術は、人間の日々の労働における喜びとなるだろう。世界がこれまでに持ったもっとも親切で最善の贈り物だ。

 もう一度言おう。これが芸術というものなのであって、決してそれ以下ではないのだ。これ以外の形で芸術を生かしておこうとしても、それではまがい物を支えていることになる。それなら、もう1つの選択肢を受け入れた方がずっとましだ。つまり、多くの人がすでにおこなっているように(しかも、それは最悪の人たちでもなんでもない)、すっぱり芸術を拒否することだ。

 芸術が死に絶えたときに世界の未来に何を望むのか。あなたがそこを明確にしたいのなら、頼るべきはそういう人たちであって、私ではない。とはいえ、現在の傾向から見て、私もある程度はどういう事態に工芸職人が対処すべきかを判断することができる。

 手仕事は昔から人間の喜びであったという考えを棄てるのなら、善良で真摯な人間たるもの、世の仕事を最小限にするために全力を尽くさなければならないだろう。私たち芸術家(訳注:モリスにとっては工芸職人も芸術家も同義語である)がやっているように、人間の暮らしを単純化するために、できるだけのことをやらなければならない。できるだけ要求を減らさなければならない。そして、疑いもなく、理論上、彼らは私たちよりもたくさん減らせるだろう。なぜなら、美を求めて薄紙を無駄にするようなことは明らかに許されないからだ。

 人の手仕事から、すべての装飾が無くなる。もっとも、自然のあるところには、どこにでも美が存在する。衣類には飾りが無くなるが、衣類を蝕む蛾によって、銀色や真珠色に塗られることだろう。ロンドンは醜い砂漠となるが、それでもヒカゲユキノシタ(英名London Pride)の花は、これまで修道士が作ったどんな細やかな祈祷書よりも優美にロンドンのあちこちを飾るだろう。

 だが、すべての装飾を無くしたあとにも、あまりにも多くの仕事が残るだろう。ということは、世の中には多くの苦痛が残るわけだ。

 それからどうする? 機械を使うのか? まったく、それを始めるのにずいぶん在庫があることだろう。でも、それでも十分と言うにはほど遠い。人間にとって必要なことのほとんどすべてが最終的に機械で作られるようになるには、誰かが信条に殉じて、新しい機械を発明するための辛苦をなめないといけないだろう。そうならない理由はない。私自身は機械の能力には全幅の信頼を置いている。機械には何でもできる。芸術品を作ることだけを除けば。


  ■芸術を捨て機械を使っても「楽しくない労働」が残るとしたら
 
 では、もう一度聞こう。次は何か? 仮に、私たちがなおも必要なすべての機械を作り、殉教者(奴隷と言うべきか)を十分確保して働かせるとしたら、まぎれもなく呪いでしかないと思える労働をすべて除去することができるのか? 

 それに(私たちすべては良心的な人間だという前提で話を始めたのだから、こう聞こう)、できることはすべてやり、そしてなおも、苦痛に呻き不満でいっぱいの惨めな人に召使として支えてもらうとしたら、私たちの良心はどうなるのか? さあ、いったいどうする?

 そうなると、私の想像力は、その救済として全面的反逆を提案する以上には膨らまない。反逆が成功したら、その結果、人類に必要な慰めとして、ふたたび何らかの形の芸術を打ち立てる必要が生まれることだろう。

 だがそうならば、率直に言って、別の提案をしたくなる。現実的な提案だと思う。ただちに反逆を起こしたとしたらどうなのだ? というのは、世界には芸術を受け入れるか拒否するかの2つの選択肢があると語ったとき、私は、拒否を選択したとしても、それが最終的だとは思っていなかったのだ。

 そうではなく、反乱は起こらざるを得ないし、勝利するだろう。ゆめゆめそれを疑ってはいけない。ただ、圧政がしっかり確立されるのを待つなら、反逆はニヒリズムに満ちたものにならざるを得ない。死ぬほどの怒りと絶望の果ての願望以外のすべての力添えは消えてしまうだろうから。

 だが、いま反逆を始めたら、変革と置換があいまって働き、新しい芸術がゆっくりと姿を現す。そして、その闘いは騒々しい騒ぎを起こすことも無く、いつの日か、芸術が確実にしかも意気揚々と行進するのを、私たちも、その息子たちも、息子の息子たちも目にすることだろう。

 では、私たちはいかに反逆を始めるべきか? すべての工芸職人に降りかかった仕事における喜びの欠如という事態、そしてその結果としての病んだ芸術と文明の劣悪化、これを救済する(すべ)は何なのか?


 ■あらゆる分野での教育を。自分を機械にするな。
 
 これにどういう答えを出すにせよ、皆さんを失望させることになるだろう。私自身、いま申し上げた欠如に大変苦しんでおり、不満をかこつ以外の救済策を持ちあわせていない。1世紀かけて育った邪悪を治療する無謬の万能薬は持っていない。私が思いつく救済は、まったく当たり前のことでしかない。民衆の芸術が存在した古き時代には暮らしを蝕むさまざまな悪があったが、それでも世界は文明と自由とに向かって奮闘していた。私たちが奮闘すべき方向性もそれだと思う。皆さんがもう十分文明化したと思うなら別だが、私自身は十分ではないと申し上げたい。

 私たちが目を向けるべきは、あらゆる分野における教育だろう。私たちの学びは十分でないとしても、少なくとも次のことだけは学んでいるはずだ。つまり、私たちの知識はまったく少ないこと、そして知識とは切望、あるいは不満を意味するということだ。(どちらでも好きな方で呼んでくれればいい)
 
 (注略)
  
 この学校で学び、芸術の進歩に向けて何らかの志を持たざるを得ない大きな団体を代表している皆さんは、おそらく、私がこれまで言ってきたより具体的なことを1、2述べるのを許してくれるだろう。今夕ずっと述べてきた純然たる醜さに対する反乱に参加した兵士として、皆さんをみなしていいと思う。だから皆さんは、他の誰よりも、敵に中傷される口実などを与えないように気を付けるべきだ。確実で本物の仕事をおこなうよう特に気を付けて、見せかけやうわべだけの仕事を避けなければならない。

 すべてにおいて、曖昧さを避けるよう注意してほしい。明確な目的がある場合、めざしていることを曖昧にして人々の非難を避けようとごまかすよりも、むしろ、公然と間違いを批判される方がずっといい。芸術においては、明瞭な形を堅持すべきだ。スタイルについてはあまりとらわれず、慎重に納得のいくかたちで、美しいと思うことを自己の内部から表現するように。

 しかし、繰り返して言うが、曖昧さは避け、はっきり明確にすること。デザインを紙に描く前に、常にまず頭のなかで描き上げるように。何か出てくるのではないかなどと思って、いいかげんな描きなぐりから始めてはいけない。自分が考案したデザインであろうと自然を写したものであろうと、描く前にまず自分の目で映像化しておくべきだ。

 いつも、色よりも形を考え、見本を描く前に外観とシルエットを考えるように。これは、前者が重要でないからではなく、後者が間違っていると前者がうまくいくはずがないからだ。

 さて、それらすべてに加えて、自分に対してできるだけ厳しくあること。厳しすぎることはないだろうから。

 さらに、とくに商品のためのデザインをする者は、素材を最大限活用することだ。それも、常に素材自体を尊重するやり方で扱うように。素材が何であるかをはっきりさせるのはもちろんだが、それだけでなく、他のものでは表せない形で独特な性質を生かすこと。これこそ装飾芸術の存在理由である。石細工を鉄製であるかのように見せたり、木材を絹であるかのようにしたり(注)、陶器を石であるかのように作るのは、芸術を腐敗させる終末的手段だ。

 出来るかぎり、あらゆる機械仕事に反対するように(これはすべての人間に言えることだ)。だが、機械仕事のためにデザインしないといけないのなら、少なくともそのデザインが何かをはっきりさせることだ。徹底的に機械的に、そして同時にできるだけ単純に作ること。たとえば、模様をプリントした皿を手描きの皿のように見せてはいけない。市場の要請でプリントものの皿を作らざるを得なくなったなら、手描き職人がまったくやらないようなものにすること。もっとも、私自身はなんのためにそんなものを使うのか理解できないが。

 ひと言で言えば、自分を機械にしてはいけないということだ。さもなければ、皆さんは芸術家としてお終いとなる。私は鉄製や真鍮製の機械もあまり好まないが、血と肉でできた機械はもっと恐ろしくて絶望的だ。そんなことにふさわしいほど無様で下劣な労働者などどこにもいない。

 あくせく進む文明と競争一本やりの商業によって生み出された野蛮、これを癒す救済策の第一歩は教育だと先に述べた。皆さんより以前に、力強く生き働いた人間たちがいたと知れば、いま皆さんが誠実に働く刺激となることだろう。皆さんたちも、後に続く者に何かを残せるかもしれないのだから。

注:モリスは木材繊維から作られるレーヨンのことを指して言ったのか、それともただの想像だろうか。フランスでレーヨンが初めて発明されたのは1855年という説も1884年という説もある。


 ■俗物に反逆するなら覚悟がいる
 
 では、教育の次には何が考えられるか? ここで白状しておかなければならないが、皆さんが芸術を受け入れ俗物への反逆に立ち向かう戦列に加わるならば、荒っぽい時期を経験することになるだろう。「ただで手に入るものはないし、1ドルでは大して得られない」と、どこかでアメリカ人が言っていたが、残念ながらこれは自然の法則でもあるのだ。金を持っている者は目的のために金を、そして、誰もが時間や考えを差し出し、それにともなう困難を経験する。

 さて、今こそ、芸術と、私たちすべての暮らしにとってもっとも重要な問題を検討しなければならない。その気になれば直ちに対処できる問題だが、それには時間と思考と資金が絶対に必要である。イングランドに民衆の芸術を取り戻す見込みがある事柄のなかで、何よりも真っ先に必要なのは、イングランドをきれいにすることだ。

 美しいものを作る者たちは、美しい場所に暮らさなければならない。なかには反論する人もいるだろう。私自身、聞いたことがあるが、芸術の静寂さと純粋さのまさに正反対にある偉大な現代的都市の混乱と薄汚さが逆に芸術家の創意を刺激し、芸術の特別な息吹を生み出す、というのだ(注)

 私にはそうは思えない。よく言っても、それは熱っぽく夢見がちな傾向を刺激するだけで、そういう芸術家は一般の共感を得られず締め出されてしまうとしか思えない。それは別にしても、そういう人たちの頭は、もっとロマンティックだった時代と快適だった土地の記憶で詰まっており、そういう記憶に頼ってのみ生きているのだろう。彼らが自分の芸術について必ずしも満足しているとは思えない。しかも、このような怪しい特典に恵まれた者すら、ほんのわずかしかいない。

 私は、美しいものを作る人たちは美しい場所に暮らすべきだという主張を固守する。だが、だからといって、すべての工芸職人が、世界の庭園であるとか、人々がわざわざ旅をして見に行くような崇高で荘厳な山や荒野を共有すべきだと言っているとは思わないでほしい。個人的に所有することを言っているわけではない。ほとんどの者は、それらの場所についての詩人や画家の物語で満足しなければならないし、私たちの日常生活を取り巻く狭い区域にある美や慰めを愛することを学ばなければならない。

注:後の展開から言って、ここではモリスは現実から逃避する懐古的な傾向を想定しているようだ。


 ■地球の美の共有は、働くすべての人間の権利だ
 
 じっさい、私たち人間が故意的に破壊することさえ止めれば、人間が居住できる地球上のスペースで、それなりの美しさを持たないところなど少しもない。そして、この地球の美の適切な共有こそ、働いてそれを獲得するすべての人間の権利だと言いたいのだ。すべての正直で勤勉な家族のための、まともな環境のなかのまともな家――これこそ、芸術の名において私が要求したいことだ。

 ディナーの後の演説で文明の進歩が豪語されているが、その文明に対して、これはそんなに突拍子もない要求だろうか? 文明は、あまりにもしばしば遠方に住む人々に大砲を突きつけて「恩恵」を押しつけ、「恩恵」の質を改善することもなく、どんなに小さくても、いくら金を払ってでも持つ価値があるかのように振る舞っているではないか。

 いや、どうやら、この要求はとんでもないことらしい。いずれにせよ、製造業地区の代表としての皆さんも、都市を代表している私も、ともにそう思ってきたではないか。それに、その権利を主張できた家族など千に1つもありはしない。だが、これは残念なことだ。その要求が実現し難いとしたら、そもそも、私たちが芸術のための学校や、大英博物館やサウスケンジントン博物館その他を設立するために注いできたあらゆる努力など、単にホラを吹き、砂でロープを編んでいたに過ぎないということになるのだから。

 私は、教育は良いことですべての人に必要だと言ってきた。それに、抑えようと思っても抑えられるものではないだろう。しかし、何の希望も与えないまま人々を教育すれば、いったい何が起こるのか。おそらく、ロシアで何が起こるかを学べば分かるだろう。

                         (その3に続く)

           

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