芸術の目的 その3

by William Morris in 1886
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行しています)
                                                                            2017年6月1日改訂

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  ■美を破壊しつくした「商業上の利害」

 たとえば、あのルーアンはなぜ破壊されたのか。あの優雅で悲しき詩情に満ちていた私のオックスフォードはなぜ破壊されたのか。果たして人々に恩恵をもたらすために消え去ったのか。知的な変化や新しい幸福を生み出すために徐々に道を譲ったのか。それとも、何か巨大なものが誕生するときに起こりがちな悲劇に仰天して、崩れ落ちたのか。

 そうではない。あの美を一掃したのは、ダイナマイトでも右翼のファラン党員でもない。博愛主義者や社会主義者が破壊したのでもないし、アナキストや協力者が破壊したわけでもない。

 そうではなく、売り飛ばされたのだ。しかも、まったくの安値で。生活や楽しみの何たるかを知らない馬鹿者、自分が味わえないだけでなく他人にも味あわせない馬鹿者の欲と無能力のゆえに、台無しにされたのだ。

 だからこそ、あの美の死滅がこんなにも悔しいのだ。これがもし、人々の新しい生活と幸福の代価となったのならば、分別も感情もある者としては損失を悔んだりしない。だが、そうではない。現に人々は、以前と同様に、美を破壊しつくした化け物と必死で闘っているではないか。この化け物の名こそ「商業上の利害」だ。
 
 繰り返すが、事態がこのままずっと続くなら、ほんものの芸術は最後のひとかけらまでこの化け物の手に落ちる。もっとも、ご立派な愛好家の紳士淑女は、下からの何の支えがなくてもきっと求め続けていかれることだろうから、まがいものの芸術は残るかもしれない。遠慮なく言わせてもらえば、世迷い言をわめくだけの実体のない亡霊が、芸術愛好家を自認している人たちをさぞかし満足させることだろう。

 とはいえ、このまま事態が長引けば、芸術はついにはただの笑いものになって朽ちていくことは容易に見通せる。芸術が、紳士淑女と名乗っている人たちの慰みものであり続けるなら、そうなるだろう。
 
 私自身は、そんな深みにはまるほど事態が長期化すると思わない。とはいえ、労働者が解放され、生活条件の実質的平等をもたらす社会基盤の変革が実現して、先に述べたような素晴らしい芸術新生の近道が導かれる――とまで言えば、それは偽善になる。だが、それでも私は、変革の波がわれわれ言うところの芸術をそのままにするとは思わない。そもそも革命の目的には、芸術の目的、つまり呪われた労働の廃止が含まれているのだから。 


  ■社会が変わればどうなるか

 革命後の社会で起こるのは、おそらくこういうことではないか。大多数の人々が本当の余暇を十分に獲得し、生活の楽しさを噛みしめられるようになるまでは、労働軽減のための機械は発達を続けるだろう。じっさい、機械の進化で自然をコントロール出来るまでになり、過去に存在した恐怖――必要以上に働かなければ餓死という罰が待っているという恐れ――は消え失せる。

 その段階に達すれば、間違いなく人々は方向転換し、本当にやりたいことは何かを探し始めるだろう。そしてすぐに、労働を減らせば減らすほど(芸術性の伴わない労働を減らせば減らすほど、という意味だが)地球は魅力的な住処になると気づくだろう。そうして人々はどんどん働く量を減らしていく。

 そのうち、講演の初めに述べた、いわゆる「活動的気分」が改めて人々の心に湧いてくる。この頃には、もう、人類が労働の手を緩めたために息を継いだ自然は昔の美を取り戻し、昔ながらの芸術の物語を人々に語り始めていることだろう。

 現在われわれが当然のように思っている「人工的に作られた飢餓状態」は、実は人間の労働が「ご主人」の利益追求のために為されているがゆえに生じているのだが、そのような「人工的飢餓」はすでに消え失せて久しく、人々は自由にやりたい仕事をしている。手仕事の方が楽しかったり望ましかったりすれば、人々はいつでも機械は捨てるだろう。そして、美が求められるすべての工芸品を作るには、手と頭脳とが直に対話するようになる。

 そうなれば、エネルギーを自発的に費やすのがとても快い、農業のような職業が増え、人々はその喜びを機械ごときに譲り渡すことなど夢にも思わなくなるだろう。
 
 こうして、人々は、われわれの時代の間違いに気づくに違いない。現在、われわれは要求を何倍にも膨れ上がらせたうえで、それを満たす手段や過程に関与するのをまったく避けようとしている。一人残らず、そうなのだ。傲慢さと怠け心から来る無知はこれまでもあったが、こういう種類の労働の分業化は、まったく意図的で新しい形態だ。幸せで満ち足りた生活のためには、自然の過程を知らないよりずっと性質が悪い。ちなみに、自然の過程をわれわれは科学と呼んだりするが、昔の人々はそれと知らないままに生活していた。
 
 きっと、人々は発見、いや、再発見していくだろう――幸せの真の鍵は、日常生活のものごとすべてに細かい関心を寄せることだ。日々の暮らしの細部を無視したり、市井で骨折り仕事を続ける人たちに押しつけたりするのではなく、それを芸術で高めることだ。芸術に高めたり興味深い労働に変えたりすることが不可能な場合、あるいは、機械を使って軽微な労働へと和らげることが不可能な場合は、思うほどの利点がない労働なのだから、わざわざ行なう価値もなく、止めてしまった方がいい。

 「人工的に作られた飢餓状態」を人類が破棄すれば、以上に述べたようなことがもたらされると思う。もちろん、前提としては、私はそう前提せずにいられないのだが、歴史の端緒から人類を突き動かしてきた芸術実践という衝動が、われわれの深部でなおも燃えたぎっているとしたら、ということだ。 


  ■希望を失った人類はこのまま堂々巡りを続けるのか?

 これこそが、この道だけが、芸術を新しく誕生させる。きっとそうなると私は信じている。そんなことは時間がかかると皆さんは言うだろう。そのとおりだ。しかも、皆さんが思うよりずっと長いかもしれない。

 というのは、今まで語ってきたのは事態の社会主義的・楽観的見解だ。事態をもっと悲観的に見ることもできる。
 
 たとえば、人工的に作り出された飢餓状態――つまり資本主義だ――に対して現在始まりつつある抵抗が、消えてしまうかもしれない。その結果、社会の奴隷たる労働者階級はさらに貶(おとし)められていく。圧倒的な力の前に彼らは無力だ。だが、いつも人類の存続のために気を配ってきてくれた自然によって植えつけられた命への愛があるゆえに、彼らはすべてを耐え忍ぶ。

 飢餓も、過重な労働も、汚らしさも、無知も、残虐も、すべて耐え忍ぶ。ああ、今でも十分すぎるぐらい耐えているのだが! 暮らしとそれを得る生計手段を危険にさらすよりも、耐える方を取る。そして、しだいに希望を失い、人間らしい輝きも消え失せてしまう。
 
 もちろん、彼らの主人もよい状況にいるとは言えない。地球は、人の住めない砂漠以外は、どこもかしこも醜さでおおわれる。芸術は完全に死に絶えた。手工芸だけでなく文学も同様だ。すでに急速にそうなりつつあるが、文学は、計算高い愚劣さと情熱なき創意を書き連ねただけのものになってしまう。科学はさらにいっそう一面的で不完全なものとなり、饒舌なだけで役立たずとなる。そして、ついには迷信の山に埋もれてしまい、それと比べれば昔の神学の方が理性的で啓蒙的に見える始末だ。

 なにごともますます低俗になり、何年も何世紀も人類が費やしてきた希望実現のための英雄的闘いなどまったく忘れ去られ、人間はなんとも表現のしようのない存在になりはてる。希望を持たず、欲望もなく、生気もない存在だ。
 
 こうした状態からの救いはないだろうか。あるかもしれない。いくつもの恐ろしい激動を経たのちに、人間は健康的な動物性を獲得しだし、それなりの動物から原始人、原始人から未開人へとしだいに成長するかもしれない。そして何千年も経てば、現在では失ってしまった芸術をふたたび実践し始め、ニュージーランドにあるような編み込み模様を彫り始めたり、さすらう前史的人間のように、きれいに洗った肩甲骨をひっかいて動物の絵を描き始めたりするかもしれない。

 どちらにしても、「人工的飢餓」に対する抵抗は絶対に成功しないと見る悲観的見解に基づけば、われわれは足を引きずり、終わることのない堂々巡りを繰り返すことになる。予測できない天の配剤で思いがけない事件が起き、われわれ全員が最期を迎えるまで、その堂々巡りは続くわけだ。
 
 私は、こうした悲観主義を取らない。だからといって、人類が進歩するか退化するかは、すべてわれわれの意志にかかっていると思っているわけでもない。社会主義的な考え方、つまり楽観主義に惹きつけられる人々がいる以上、なにがしかの勝利の望みはあり、一人ひとりが力を寄せ合って努力すれば一つの勢力となるかもしれない――私は、そう結論せざるを得ない。

 だから、「芸術の目的」は実現されると信じている。もちろん、われわれが「人工的飢餓」の圧政の下で嘆いているかぎりは、これは不可能だ。


  ■最悪の事態は、現下の悪を耐え忍ぶことだ

  芸術を特別に大事に思っているであろう皆さんに、もう一度警告しておきたい。もはや枯死した芸術を、外側だけいじってなんとか生き返らせようと思っても何にもならない。皆さんが求めるべきは、芸術としての芸術ではなく、芸術の目的だ。

 また、芸術について少なくともわれわれほどの思い入れがあれば、ごまかしの芸術には耐えられないだろうから、その探求の過程で、われわれを取り巻く世界が空虚で寒々としていると思う危険もある。
 
 いずれにせよ、考えてみてほしい。起こりうる最悪の事態は、現に見聞きしている悪をおとなしく耐え忍ぶことではないか。どんな困難も混乱もそれよりはましだ。再建のために必要な破壊は、冷静に受け止めるべきだ。

 国家でも教会でも家庭でも、どこにおいても、圧政を耐え忍ぶべきではない。毅然として虚偽を拒否すべきであり、恐怖でひるんだりしてはならない。気をつけるべきことがある。圧政も虚偽も恐怖も、敬虔な信心や義務や愛情の仮面をかぶっているかもしれないのだ。あるいは、よいチャンスを装ったり、人の良さそうな顔をして、親切な言葉や、賢明な判断という体裁をとって現れるかもしれない。荒れたこの世の不誠実にも不正にも当然の帰結があり、われわれの存在も生活もその中に巻き込まれることだろう。

 だが、われわれは同時に、そうした呪わしい事態に対する昔からの抵抗によって培われた伝統も受け継いでいる。それぞれが自分の持ち分を正当に引き受けるためにも、その伝統を頼みにしようではないか。

 たとえこの行為が何も生み出さないとしても、少なくとも、勇気と希望はもたらしてくれる。生きている限りは真摯に人生を生きる、それこそ、何よりも芸術の目的ではないか。
                          (完)


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