芸術の目的 その2

by William Morris in 1886
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行している箇所があります)
                                                                                  2017年6月1日改訂
(注:この翻訳文章は『素朴で平等な社会のために』で、バージョンアップされています)

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  ■何が芸術を衰退させているのか

 なぜ芸術が衰えているのか。われわれは意識的に芸術をあきらめたわけではないし、自由意志であきらめたわけでもない。無理やりあきらめさせられたのだ。ある種の芸術的な物を生産できる機械を使う場合を例にして、これを詳しく見てみよう。

 分別のある人間が機械を利用するのはなぜか。あきらかに省力のためだろう。人間が手だけでなく道具をも使って出来ることで、機械に替えられることがある。たとえば、トウモロコシを粉にする場合、手でひき臼を回す必要はない。少しばかりの水の流れと、水車と、幾つかの簡単な仕掛けがあれば、完ぺきに粉を挽ける。そのあいだ、パイプを吹かして考えごとをしてもいいし、ナイフの持ち手に彫刻を施してもいい。

 この限りでは、機械の使用は間違いなくプラスだ。(もちろん、これは人々の平等を前提にして論じている)。芸術は損なわれていないし、余暇、あるいは、楽しい労働のための時間が得られたわけだ。
 
 おそらく、分別のあるしっかりした人間なら、機械との縁はこれで済ませるだろう。だが、このような分別と自由な精神を想定するのは期待し過ぎというものだ。だから、もう少し機械発明家のやることを見てみよう。

 簡単な布を織る必要が出てくるとしよう。だが、布を織るのは退屈だし、機織り機械でも手織りと同じくらいに織れる。時間を節約し、もっと楽しい仕事に当てるために、機械を使う事にして、そのかわり、手織りなら施していたちょっとした模様はあきらめることにしよう――こうなると、芸術という点から言えば純粋なプラスではない。ここで芸術と労働とを取引し、その場しのぎの代用品を手に入れたわけだ。こうするのが間違いだと言っているわけではないが、得もしたが損もしたということになる。

 さて、芸術も重んじ分別もある人間なら、これが機械を使う限界だ。ただし、その人間が自由だと前提しての話だが。つまり、他人の利益のために労働を強制されていず、平等が保障されている社会に生きていることが前提だ。さて、芸術を愛し、自由な人間だとしたら、機械をこれ以上使用するのは分別があるとは思えない。
 
 誤解を避けるために言っておくが、私がここで言う機械は近代的機械で、まるで生きているように動き人間は補助でしかない機械を指しており、昔の機械のことではない。昔の機械は改良された道具に過ぎず、人間を補助しており、人間が考えて手を動かしているときのみ動くものだ。とはいえ、こういう昔の初歩的なレベルの機械ですら、高度で繊細な芸術を産み出す場合には使えないことは、指摘しておかねばならない。

 芸術のために使う機械そのものについては言えば、必要品を生産していてたまたま機械でも美しいものが出来ることはあるだろうが、それ以上のレベルになれば、芸術を愛し分別ある人間は、強制でもされないかぎり機械は使わない。

 たとえば、何か飾りを入れたいと思ったとする。でも機械ではきちんと出来ないことは分かっていて、時間をかける気もないなら、そもそも飾りを入れる必要はあるだろうか。特定の人間(あるいは人間集団)が強制しないかぎり、望まないものを作るために自分の休憩時間を犠牲にするはずはない。だから、飾りなしのままいくか、それとも、ほんものを作るために休養時間を少し減らすかだ。

 そうするなら、それは、それだけ本当に飾りを施したいという気持ちの表れだし、手間をかける値打ちがある。この場合、彼の労働は面倒なものではなく、活動的気分を満足させる面白く楽しいものだということだ。
 
 分別ある人で、しかも強制とは無縁なら、こう振る舞うだろう。でも、自由でなければ行動はまったく異なってくる。人がふつう嫌がる仕事なので機械にやらせるとか、人間にも出来るが機械にも出来るからやらせる――というレベルをはるかに超えて、機械が使われる。そして、新しい製品が求められるようになるたびに、そのための機械が発明されるのを本能的に予期するようになる。

 これでは、人間は機械の奴隷だ。新しい機械は絶対に発明されなければならず、発明されたら、間違いなく、人が機械を使うのではなく人間が機械に使われる。機械は嫌いだと言っても容赦はない。


  ■労働者が産業システムの奴隷になっている

 しかし、なぜ、人は機械の奴隷になってしまうのだろうか。それは、そもそも、その人が、機械の発明を必要とするシステムの奴隷だからだ。
 
 このように、現実問題へと議論を進めていくと、身分の平等という前提を捨てて論じざるを得なくなる。ある意味で、われわれはすべて機械の奴隷だが、しかし、そのなかでも特定の人間は、比喩でもなんでもなく文字通り機械の直接の奴隷となっている。しかも、ほとんどの芸術はその人たち、つまり労働者の肩にかかっているのだ。

 労働者を劣悪な階級として下位に固定する現在のシステムの下では、労働者は自分自身が機械となるか、あるいは機械の召使となる。いずれの場合にも、自分が生産する仕事に何の興味を持つこともない。雇用主にとっては、労働者が労働者である限り、彼らは作業場や工場の機械装置の一部でしかない。

 労働者自身にとっては、労働者とは財産を持たないプロレタリアであり、働くためだけの人生を生きるために、働くしかない人間だ。職人としての側面、自分自身の意志で物を作り出す製作者としての側面は、もはや尽き果ててしまった。
 
 感傷的だと非難されるかもしれないが、これが現実だからこう言うしかない。芸術的であるべき物を生産すべき労働が、重荷となり奴隷の労働となっているから、こう言うのだ。せめて、そんな労働では芸術は生み出せないことを喜ぶしかない。そんな労働で生まれるものは、殺風景で実用一点張りの品か、馬鹿馬鹿しいくらいの偽物だ。
 
 だが、果たしてこれは単なる感傷と言えるのか。むしろ、産業奴隷制と芸術の劣悪化は連関していると見抜いた者は、芸術の未来に希望を寄せることを学んだのではないか。 なぜなら、きっと、いつか、人間が(くびき)を振りほどく日が来るからだ。博打のような市場の恣意的強制に屈して、希望のない終わりなき労働に命を浪費することを拒否する日が来るからだ。

 その日が来れば労働者は自由となり、美を求め想像をめぐらせる本能は解き放たれ、自分たちが望む芸術品を作り出すだろう。過去の芸術は、この商業時代にかろうじて残る哀れな芸術の残骸を超えているが、そうした過去の芸術をも遥かに上回る未来の芸術が生まれる――そんなことはありえないと断言できる人は誰ひとりいないだろう。


  ■中世の略奪と現代の違いは

 私がこう語った場合によく出される反対意見について、一、二、述べておこう。

 よく言われるのはこういう意見だ――中世の芸術の喪失を嘆いているが(確かに私は嘆いている)それを生産した者は自由ではなかった。彼らは農奴であり、交易の規制という無神経な壁に囲まれたギルドの職人ではないか。彼らにはなんの政治的権利もなく、親方や貴族階級に惨めに搾取されていたではないか――と。

 確かに、中世の抑圧と暴力は時代の芸術に影響しているし、その欠陥は確実に表れていると認めるのにやぶさかではない。芸術が一定の方向に抑え込まれていたことは疑いない事実だ。だからこそ、過去の抑圧を振るい落としてきたように、現在の圧政を打ち捨てたあかつきには、昔の暴力の時代を超えた真に自由な時代の芸術が湧き起こるだろうと私は言っているのだ。

 しかし、また、あの時代でも、社会的で有機的で希望に満ちた進歩的芸術が存在した可能性はあると私は言いたい。他方、現代に残されているのは、個々人の空しい闘いの結果生まれた哀れな残りかすで、懐古的・悲観的な芸術だ。だが、中世の抑圧の手段はあまりにもあからさまで、職人の仕事にとっては外的なものだったゆえに、あの抑圧と圧政の時代にも希望に満ちた芸術は可能だったのだ。

 確かに、明らかに職人から略奪する法律や慣行があったし、まるで白昼堂々の強盗のような暴力が中世には存在した。だが、今日の産業時代における搾取は、強盗のように「下層階級」から略奪するのではなく、光栄ある労働者の仕事の内部に基本的に組み込まれている。

 中世の職人は仕事している限りは自由だった。だから、出来るだけ自分が楽しんで仕事をした。彼らが作った美しいものはすべて、喜びのなかから生まれたもので、苦痛から生まれたのではない。大聖堂からお粥の椀に至るまで、作り出された宝物は、すべて、人間の希望と思想を体現していた。

 中世の工芸職人に一番失礼な言い方となるが、現代の労働者(彼らは人間ではなく「手」として数えられている)に一番丁寧な言い方で表現して見よう。14世紀の哀れな男たちは、労働の価値が無いに等しいほど低かったので、時間を無駄使いして自分を楽しませることができた。他方、きつく絞りあげられている現代の職工の1秒は、あくなき利益追求という重責で膨れ上がっているので、芸術などに時間を浪費しているひまは許されない。現在の体制は、労働者に芸術的作品を産み出すことなど許さない。そんなことを許す余裕はないのだ。
 
 しかも、いまや、奇妙な現象が生じている。洗練された紳士淑女の階級が生まれ(もっとも、一般に思われているほどこの階級に知識があるわけではないが)、そのなかには、美とそれにまつわるもの、つまり芸術を熱愛している人が大勢いて、犠牲もいとわず手に入れようとする。おまけに、それを導いているのは、卓越した技と知性を持つ芸術家なので、彼らは全体として芸術を求める大きな集団を構成している。

 だが、それでも、作品は供給されない。でも、この熱心に芸術を追い求める集団は貧乏でも無力でもない。無知な漁夫や農夫でもなく、半狂乱の僧でも、おつむの弱いサンキュロット(注)でもなんでもない。彼らが「これが望みだ」と言えば、世界は揺れ動いてきたし、こんどもそうなるだろう。彼らこそ支配階級であり、人類の主人だ。自らは労働せずに暮らしていけ、欲望実現の計画を立てる時間ならいくらでも持っている。
 
 だが、いくら欲しがっても、芸術を手に入れることは出来ない。世界中を必死になって飛び回り、イタリアの惨めな農夫や、腹を空かせた都市プロレタリアのみすぼらしい暮らしを見て感傷にふけろうとしても、現代の田舎や都市スラムの惨めな住民からは、もはや絵のような美しさは消えてしまった。

 まったく、どこに行こうと、絵にしたいような現実はほとんど残っていない。そして、わずかな残滓ですら、工場主の要求と、彼らのみすぼらしい労働者部隊を前にして急速に色あせ、過ぎ去った過去の復元に熱狂する考古学者の目前で霧散している。

 もうすぐ何もなくなり、残るのはただ、横たわる過去の夢と、美術館やギャラリーの哀れな残骸だ。豪邸の居間の内装は慎重に守られて残るだろうが、そんなものは、まったく嘘っぽく馬鹿げていて、そこで繰り広げられた腐敗生活を物語る証人でしかない。彼らの生活は(しな)びてケチ臭く臆病な生活で、人間の自然な欲望を、抑制ではなく隠ぺいし無視してきた。上品に隠すことさえできれば、欲深い道楽や耽溺は許されると思っているのだ。
 
 だから、芸術は去ってしまった。もはや、中世の建物のように「復原」することは出来ない。金持ちの教養階級は手に入れられると思うかもしれないし、そう思う人は多いのだろうが、もはや手に入れることは出来ない。

 なぜか? 金持ちに芸術を与えることが出来る人々が、その金持ちからそうすることを禁止されているからだ。一言で言えば、芸術とわれわれのあいだに奴隷制度が横たわっているからだ。

(注):フランス革命期の都市の小ブルジョアジー。転じて、一般に過激な共和主義者。


  ■上っ面だけ追求しても、まがいものの芸術が生まれるだけだ

 さて、これまで、芸術の目的とは労働にかけられた呪いを破壊することであり、それを実現するには、活動の衝動を楽しく満足させる労働をおこなうことだと述べてきた。労働するにふさわしい物を生産して、活動のエネルギーに希望を与えることだと語ってきた。

 上っ面だけのものになってしまった芸術を追い求めて奮闘しても、芸術を創り出すことはできない。そんなことをしても、まがい物しか手に入らない。したがって、影なら影としての運命を芸術に辿らせればどうなるのかを見届け、可能ならその本質を掴む――それが、われわれに残された道かもしれない。

 私自身は、芸術のどの面かにはあまりとらわれずに、先に述べた芸術の目的をともかく実現しようとするなら、最後には望むものを手に出来ると思う。それが芸術と呼ばれるかどうかはともかく、少なくとも暮らしを手にすることは出来るだろう。結局のところ、われわれが求めているのはそれではないか。

 そこから、目に見える新しい芸術の壮麗な美へとつながっていくかもしれない。つまり、過去の建築にある奇妙な不完全さや欠陥から解き放たれ、様々な色合いの荘厳さに満ちた建築、さらに中世の芸術が獲得した美と、現代芸術が求めようとしたリアリズムとを統一した絵画、また、ギリシャの美とルネッサンスの表現を統一した彫刻の誕生だ。しかも、その彫刻は、いまだ発見されていない第三の質に満ちており、輝くばかりに生き生きした男女の像となるが、本物の彫刻がすべてそうであるように、単なる建築の装飾品に成り下がったりしない。
 
 こうしたことがすべて、実現されるかもしれない。それとも、行く先は砂漠で、芸術はわれわれの時代で死に絶えるかもしれない。あるいは、過去の栄光を完璧に忘れ去った世界にあって、弱々しく細々とではあるが、芸術が生き延びようとしているかもしれない。
 
 芸術の現在が現在なのだから、各々が芸術の未来について何らかの望みを捨てないでいるかぎり、どんな運命が待ち受けているかどうかなどは大した問題ではないだろう。

 なぜなら、芸術以外のことでもそうだが、もはや革命以外に希望は見いだせないからだ。古い芸術はもう繁殖力を失い、優雅で詩的な後悔以外は何も産み出しはしない。実を結ばぬ花は死ぬしかない。そして今や問題は、いかに死ぬかなのだ。希望を持って死ぬのか、それとも希望を持たずに死ぬのかということだ。
                     (その3に続く)

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