新訳 民衆の芸術 その2

by William Morris in 1879
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました) 2017/5/29
(注:この翻訳文章は『素朴で平等な社会のために』で、バージョンアップされています)

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バーミンガム芸術協会およびバーミンガム芸術学校の聴衆の
前で、芸術協会総裁として1879年2月19日におこなった講演

  ■「少数による少数のための芸術」の運命は知れている

 だが、いずれにしても、文明を先導する国々が健全な状態にならない限り、芸術を修復することはできないのだから、目を転じて、私たち自身の状況を考えてみよう。先にも述べたように、ここ2、3年の表面的改善は明らかだろう。でも、問題は根っこにあるのだから、私は蕾がたくさんついたと小躍りする気にはとてもなれない。
 
 今お話ししたように、芸術教育の組織的指導者を初め、支配階級のなかにも多くいるに違いないインドや東洋芸術の愛好家は、その後退に対してまったく無力だった。文明が総体として不利に動いており、とても彼らの手には負えないのだ。
 
 ここにいる者の多くは建築を非常に大事に思っており、美しいものに囲まれた暮らしが心身を健康に保つと信じている。だが、じっさいには、たいていの場合、大都会生活者は、醜く不便で、軽蔑の対象でしかないような家屋に住まざるをえない。文明は私たちの願いに逆行しており、私たちはそれに対抗できていないのだ。
 
 もう一度言おう。真実の美の水準を維持するために献身してきた人々、あるいは、他人には分からない困難を克服してきた画家たちは、どんな時代をもしのぐ高邁な精神を示してきた。だが、こうした偉人たちの作品を理解できるのはほんの小さなグループで、大多数の大衆にはまったく知られていない。偉大な画家たちはそれほど不利な文明という逆風のなかに置かれているため、民衆を感動させることができない。
 
 これらすべてを直視するなら、私たちが育てようとしている木の根は大丈夫だなどと考えることはできないではないか。芸術以外のことがらが停滞する世の中で、たとえ先に述べた表面的改善がある種の芸術創造につながるとしても(あまり考えられない状況だが)、それはかろうじて安定しているだけで、やはりおそらく停滞していくだろう。

 これでは、まったくの少数のために培われた少数による芸術となってしまう。しかも、その少数の芸術家は、普通の民衆など軽蔑すべきだと思うだろう。彼らに義務という概念があるなら、それが義務だと見るかもしれない。そして、世界が歴史の端緒から獲得してきたあらゆることから超越し、己の芸術の殿堂に誰も近づかせないよう守り抜くことだろう。

 こんな芸術の一派を予想して語るなんて、言葉の無駄というものだ。だが、そういう人たちは、現実のグループを作っているかどうかはともかく、ある意味、現在も存在している。彼らだけに通じる合言葉は「芸術のための芸術」だが、このスローガンは、一見したところよりずっと有害だ。これでは、芸術は哀れな最期を運命づけられている。秘伝を許された少数者でも(さわ)れないほど繊細で虚弱なものとなり、座して眺められるだけで何の手も打たれず、その嘆きも誰にも知られない。
 
 皆さんがこのような芸術を進めようとここに来たのであれば、私は立ち上がって皆さんを迎えて「友」と呼ぶわけにはいかない。もっとも、これまで述べてきたような貧弱な者なら、敵と呼ぶほどのこともない。
 
 だが、そういう人たちは現に存在している。こうしてわざわざ皆さんにお話しするのは、正直で知性もあり人類の進歩にもご執心だが、人間的感覚の一部を欠落して反芸術の立場を取る人々が、「芸術のための芸術」を求める人間を芸術家だとみなしているからだ。それが芸術であり、芸術の人民への役割だと思い込み、私たち工芸職人がめざしているのがそんな狭隘で意気地のない暮らしだと思っているのだ。

 じっさいのところ、もっと分かっていていいはずだと思える多くの人たちまでが、これを当たり前だと考えている状況を、これまでずっと目にしてきた。だから、私は、そういう私たちへの中傷をはねのけたくてたまらないのだ。

 他の誰でもないこの私たちが、階級間の亀裂を大きくしようとか、いや、もっとひどいことに、新しい上昇階級と劣悪階級、新しい主人と新しい奴隷を作ろうなどと思っているはずがないではないか。他の誰でもないこの私たちが、「人間と呼ばれる樹木」を一方ではしみったれた形で、他方では無駄に金を使って、差別をつけて育てようと思っているはずがないではないか。

 私たちが広めたい芸術は、すべての人が共有でき、すべての人を高める良きものなのだということを、みんなに分かってもらいたい。本当に今すぐすべての人が共有しなかったら、共有すべきものがなくなってしまいそうなのだ。人類全体をその芸術で高めないなら、人類は、これまでに獲得された地歩さえ失ってしまうだろう。

 こうして私たちが待ち焦がれている芸術は、決して空しい夢ではない。現代よりも厳しい時代、現代より勇敢でも優しくもなく、真摯でもなかった時代にも、芸術は存在した。現代よりも勇敢で優しく真摯さに満ちた時代が訪れれば、きっと、そういう芸術も存在しうる。


  ■現在に残る美術品は、過去の普通の生活用品だ

 もう一度、簡潔に歴史を振り返り、そこから現代までをじっくり見てみよう。まず初めに、芸術の学徒に与えられる一般的で必須のアドバイスとしては、「古代に学べ」だ。間違いなく、多くの皆さんも私と同じようにそうしたことだろう。サウス・ケンジントン(現ヴィクトリア&アルバート博物館)などの立派な博物館のギャラリーを巡り歩いて、人間の頭脳が生み出した美に目を見張り、感謝でいっぱいになったことだろう。

 さて、こうした素晴らしい作品は何なのか、どのようにして創られたのかをどうか考えてみてほしい。「素晴らしい」という言葉を私は使ったが、それはまったく意味もなく言ったのでもなければ褒めすぎでもない。考えてもみてほしい、それは、古代のただの生活用品ではないか。使用されてきた品だから、非常に数が少なくなっていて、大事に保管されているのはそのためでもある。使用当時はありふれていて珍しくもないから、壊れるとか台無しにするなど気にせず使われてきた。それを私たちは「素晴らしい」と言うのだ。
 
 では、それらはどのように作られたのか。偉大な芸術家がデザインを描いたのか。高い教養を持ち高価な報酬を支払われる芸術家、仕事をしていないときは優雅な食事を食べ立派な家に住むお蚕ぐるみの芸術家がデザインしたのだろうか。とんでもない。いくら素晴らしくてもこうした作品は、いわゆる「普通の人」が日々の労働の一環として作ったのだ。これこそ、私たちが崇める作品を作った栄光の人たちなのだ。

 では、彼らの仕事はどうか。それは煩わしい労働だったのだろうか。芸術家である皆さんはそんなはずがないとよく分かっていると思う。そんなことはあり得ない。皆さんもきっとそうだろうが、サウス・ケンジントン博物館に行き、不思議な美の迷宮を巡りながら、あの奇妙な獣や鳥や花の創意工夫に、何度「そうだ、そうだ」とニヤリとしたことか。少なくともあれを作っているとき、彼らは不幸せではなかったはずだ。それに、私たちもそうだが、彼らはほとんど毎日、そしてほぼ一日中仕事に励んでいたことだろう。
 
 また、私たちが現在入念に研究する宝物である建築物、これは何なのだろう。どのように作られたのだろう。なかには、確かに素晴らしい大聖堂や王や貴族の宮殿もあるが、それほど多くはない。大聖堂などは堂々としていて荘厳かもしれないが、小さな灰色の教会とサイズが違うだけのことだ。小さい教会も、ありふれたイギリスの風景を美しくする。灰色の小さな家々も、少なくとも田舎の一部には残っていてイギリスの村を際立たせている。それを見ると、ロマンスと美を愛するすべての人はしみじみと感慨にふけらずにはいられない。

 普通の人々が住んでいた家、そして人々が敬愛した名もない教会、この一塊りこそ、私たちの宝物なのだ。
 
 もう一度聞こう。それらの建物をデザインし装飾したのは誰なのか。普通の人のありきたりの注文などを受けずに特別の機会のために確保されてきた立派な建築家だろうか。とんでもない。おそらく、だいたいは教会を守る修道士だったり、農夫の兄弟だったりするだろう。そうでなければ、もう一人の兄か、村の大工か、鍛冶屋や石工などだろう。そういう「普通の人」たちが普通の仕事をして出来た建築を見て、今日の多くの勤勉で「教養ある」建築家は驚いたり、がっくりしたりしているわけだ。

 そして、そういう普通の人々は仕事を嫌がっただろうか。そんなことはありえない。皆さんも見たと思うが、そういう仕事は、現在ですら訪れる人のほとんどない僻地の小さな集落の住人で、周辺5マイルより外へはめったに出たことのない人によってなされたのだ。私はそういう場所で、とても繊細で丁寧で、それでいて創意にあふれ、これ以上の素晴らしい仕事はできないような建物を見てきた。

 そして反対を恐れず主張すれば、いかなる人間の創造力も喜びなしにこれほどのものを生み出すことはできない。彼らの構想する頭脳やものを形づくる手が、第三者のように動くはずがない。

 しかも、こういう仕事は珍しくはない。村の教会の椅子や自作農の家のタンスは、立派なプランタジェネット王朝(イギリス12世紀〜15世紀)やバロワ・ブルゴーニュ家(フランス14世紀〜15世紀)の玉座と同じくらい優雅なのだ。
 
 だから、あの時代にも、暮らしを少しでもましにするためにいろんな努力がなされていたのだ。歴史ではほとんどが殺戮と混乱の日々のように書かれているが、必ずしも毎日そうだったわけではない。むしろ、日々、金床に打ち付ける槌の音が響き、梁にする樫に(のみ)が踊り、そこから常に美しく独創的なものが生産された。そしてそこには、何らかの幸せも生まれていたのだ。


  ■芸術は人間労働における喜びの表現だ

 このことは、私が今日ここで語りたいことのまさに核心につながる。どうか、真剣に考えていただきたい。私の言葉についてではない。世界の底でうごめき、いつか素晴らしいものに育っていく思想について考えてほしいのだ。
 
 私は、真の芸術とは人間の労働における喜びの表現だと考えている。労働する人間は、幸せならそれを表現せずにはいられない。とりわけ、優れたものを作り出していればそうだ。これは自然が与えてくれたもっとも思いやりのある贈り物だ。すべての人間、いやすべてのものは自然に働きかけねば生きられないのだから。

 犬は狩りをすることに喜び、馬は走ることを喜び、鳥は飛ぶことを喜ぶだけではない。地球と地球を構成するすべてのものが、天が与えた仕事を喜んでいるという考えは、とても自然に思える。だからこそ、詩人は、春の野原が微笑み、炎が歓喜し、海が笑いさざめくと歌ってきたのだろう。
 
 ここ最近まで、人間はこの万物に与えられた贈り物を拒絶したことはなかった。あまりにも困惑していたり病に侵されていたり、悩みで打ちひしがれていないかぎり、少なくとも自分の仕事を楽しもうと努力してきた。もちろん、その楽しみや休息に身を任せることもできないほどの苦痛や疲労も何度も味わった。でも、労働のなかに喜びがあるなら、それが常に自分のそばにいてくれるなら、苦痛や疲労など何だというのだ。
 
 もう一度言おう。こんなにも多くを獲得して前進してきた私たち人間が、もっとも昔からもっとも自然に手に入れたものをあきらめていいのだろうか。もうすでに相当あきらめてしまったとしたら(残念ながらそうだという気がするが)、人間はなんと奇妙な灯に導かれて霧のなかを歩いてきたのだろう。

 いや、むしろ、こう言おう。悪を克服し前進しようと闘ってきたはずなのに、もっとも肝心の悪を忘れてしまうなんて、人類はなんと激しく追い立てられてきたことか。そうとしか言いようがないではないか。人間が嫌な仕事をしないといけないなんて、楽しみたいという当然で自然な望みを満足させないような仕事をするなんて、それでは、その人の人生のほとんどは自尊心を欠き幸せでもない。それがどういう意味を持つか、どうか考えてみてほしい。そんなことをしていたら、最後にはどんな破滅が待っていることか。
 
 皆さんを説得して、労働をすべての人にとって楽しいものにする、少なくとも不幸な労働を最小限にすることが現代文明社会の大きな義務だと納得してもらえたら、たとえ2、3人でもいいから納得していただけるなら、私は今夜の仕事をやり遂げたことになる。
 
 いずれにせよ、芸術と無縁な現代の労働が楽しいものであるかのような欺瞞に対して、少しでも疑いを感じたら、それをごまかしたりしないでほしい。ほとんどの人にとって楽しくはないのだから。おそらく、皆さんに、そんな労働が生む芸術作品は喜びのないつまらないものだと得心してもらうには、時間がかかることだろう。

 だが、それがまったく不幸せな労働であるという証左が、ここにもう一つある。皆さんも見ればすぐわかるだろう。悲しい証左だ。こうして語るのさえ恥ずかしくてたまらない。だが、まず病を認めなければ、それを治すことなどできない。その情けない物証とは、文明社会がおこなった仕事は、その大半がまっとうにはおこなわれていないということだ。

 まあ、見てみたまえ。文明というものは、ある種の品物は上手に作ることができる。意図的か無意識かはともかく、現在の不健康な社会状態に必要だと思われる品物は器用に生産する。端的に言って、それは主に、商業などとでたらめに呼ばれている売買競争を実行するための道具である。さらに、暴力で生命を破壊する道具である。つまり、2種類の戦争のための材料と言ってよい。

 その2種類のうち、後者、つまり殺戮の戦争の方が疑いもなく最悪だ。道具それ自体がというよりも、おそらくそういうときには世界の良心に少し穴が開くからだろう。だが、そうは言っても前者もまた問題なのだ。尊厳を持った日常生活、互いに信頼し受け入れ合い助け合う暮らし――これが考える人間の唯一真実の暮らし方だ――、それを続けるための道具を文明社会は劣悪化させているのだ。しかも、日に日にひどくなっている。
 
 私の言うことは間違いだと思うかもしれないが、私は一般に考えられていること、広く語られていることを語っているだけだ。そうだという例をあげよう。鉄道の売店で売られている巧みなイラスト入りの本がある。『英国の労働者――労働者を信頼しない著者による』だ。この本には腹が立つし、恥だとも思う。タイトルも内容も不当だし、珍奇で大げさな書き方には一片の真実もないからだ。

 だが、もちろん、現在、たとえば庭師や大工や石工や染め師や織子や鍛冶屋などに当たり前の仕事をしてもらおうと思っても、悲しいことに満足に仕上げてもらうのは珍しく、そうなれば幸運と言わざるを得ないのは確かだ。むしろ、彼らは、当然の仕事をなんとしても避けようとし、注文した側の権利など無視しかねない。

 だからといって、どうして「英国の労働者」がこの全責任を、あるいは非難の大半を背負わなければならないのか。喜びも希望もない仕事を強いられれば、全労働者のなかになんとか怠けようとする者が出ても当然ではないか。いずれにせよ、そういう状況下では、これまでもずっと他人に押しつけられてきたような仕事だ。

 もちろん、他方には、厄介で手に負えない仕事でも断固としてやりとおす、そういう立派な考えを持った人たちもいる。そういう人たちは世の(かがみ)だ。だが、苦い気持ちを飲み込んで勇気を奮うことを期待する社会はおかしいのではないか。できれば避けたい仕事、あるいは、半ば無意識に自己を卑下しながらおこなう仕事、そんな仕事の深みに追い込む社会は、どこかおかしいのではないか。

 やみくもに突っ走る現在のような文明は、きっと、この膨大な量の喜びなき労働に恐ろしい付けを払うことになる。すべての筋肉とすべての脳細胞を使うにもかかわらず、なんの目的もなく喜びも感じられない労働、飢餓や破滅の恐怖に突き動かされるからしているだけで、それさえ逃れられるなら誰もが適当にやっつけ仕事で仕上げてしまおうとする労働、そんな労働の付けが、きっと回ってくる。


 ■金儲け競争と戦争を求める世界が、労働の喜びを奪った

 私がこうして息をしているのと同じくらい、確かなことが一つある。人々が漏らす「日々の暮らしの手仕事がいいかげんだ」という不満は、(私も間違いなくその現実はあると思うが)、金儲け競争と殺し合いという2つの戦争を急ぐ世界が必然的に招いたことなのだ。自然の摂理があんなにも求めている日々の労働における喜びを、すべての人間がお互いに忘れてしまった当然の結果なのだ。
 
 だから、もう一度言おう。文明を進歩させようと思うなら、人類は劣悪化する労働をとりあえず限定し、最終的にはそれを断ち切る方法を考える立場に転換すべきなのだ。
 
 ここまでの話を聞けば、私が辛い労働や厳しい労働を問題にしているわけではないことは分かってくださっているだろう。私は、辛い仕事に立ち向かう人を憐れんでいるのではない。たまたまその仕事に取り組んだ場合などはなおさらだ。その辛い仕事が、必ずしも一定の階級や一定の条件に固定化されていないなら、なんの問題もない。私は、世の中が厳しい労働抜きで回っていくなどと思ってはいない(そんなことを思うようなら、私は頭がおかしいか夢を見ていることになる)。だが、そんなひどい仕事をせずとも済むと思える状況をいくつも見てきたから言っているのだ。

 土地を耕すとか、魚網を投げるとか、羊を飼うなどの仕事は、かなり厳しい職業だろうし、多くの困難を伴う。だが、ある程度の余暇や、自由や、適切な賃金を前提にすれば、私たちみんなのために充分必要で良い職業だろう。れんが職人や石工などは芸術家であり、芸術が本来の姿で存在してさえいれば、必要な仕事であり、それどころか美しく、それゆえ幸せな仕事なのだ。

 私は、このような仕事を失くしてしまおうと言っているのではない。そうではなく、誰も望まない品物を山ほど作る無駄な労苦を問題にしているのだ。先に述べたように、間違って「商業」などと呼ばれる売買競争のために棚に並べる製品を作る苦しい労働、そんな骨折りは止めるべきだと言っているのだ。私の理性がそう言わせるだけではない。私は心の底からそう感じている。

 それに加えて、たとえ必要で価値あるものを生み出す労働でも、たんに商業戦争で店先に並べるためだけに為されるなら、規制し改善する必要がある。しかも、この改善は、芸術によってしか実現されない。私たちがまともな考えに立ち返って、こんにちはほとんどの人が味わえていない労働の楽しさを、すべての人が絶対味わうべきだと理解しなければ実現できない。繰り返すが、この必然性を理解すべきなのだ。でなければ、ついには、不満や不安や絶望が社会全体を飲み込んでしまうだろう。

 そして、私たちが曇った目をこすって見開き、なんの役にも立っていない品々、不公平でもあり持つのも落ち着かない品々を少しあきらめることができたなら、きっと世界がまだ知らない幸せの種を蒔き、その種が生む休息と満足を得ることができるに違いない。

 そのとき、本物の芸術の種も蒔かれることだろう。労働における人間の喜びの表現である芸術、作り手にとっても使い手にとっても幸せな、民衆による民衆のための芸術だ
 
 これこそが、世界を後退させるのではなく進歩させる手段となる唯一の芸術だ。皆さんも、どういう形であれ本能的に芸術を求める人なのだから、きっと心の底では分かってくれているに違いない。私が語ったほかの点では違うこともあるかもしれないが、この点に関してはきっと賛同してくださるだろう。これこそ、私たちがともに繁栄させようと願っている芸術であり、その拡大のための方向性である。


 ■道の先は見えなくても、力を尽くせ

 さて、芸術の未来に対して望むことや懸念することを申し上げた。では、それを前提にした現実的結論は何かと問われるかもしれない。結論はこうだ。たとえ私たちが心を一つにしたとしても、しかも、それが正しい心構えだとしても、私たちの前には大変な仕事があり、多くの障害もある。最良の者たちが全力を尽くして、慎重に、先見性を持って、献身的に努力しなければならないだろう。しかも、それでもたいていの場合、道の先は見えないだろう。

 私たちが正しいと思う考え、いつかは世間一般にも理解されるはずの考えも、気づいてもらうためには必死で闘わなければならない。現在はまだ、明確な道のりを見極めるには時期尚早なのだ。

 考える人間をつくる教育一般が、いつかは芸術についても正しく考えさせることにつながると言えば、皆さんはあまりにも当たり前すぎると思うかもしれない。当たり前ではあるが、私はそう信じているし、それで勇気づけられる。現代は明らかに古きことから新しきことへの移行期の一つにすぎない。私たちはなんと奇妙な混乱のなかにいるのだろう。でも、いつの日かそこから抜け出す日が来る。そのとき、私たちは無知や無自覚のままに、旧時代に作り尽されたガラクタや新時代の粗削りな未完成品を作ることだろう。その双方ともが、まさに手を伸ばせば届くところにある。
 
 さらに何か実用的なアドバイスが必要かもしれないが、それを言うのはかなり困難な任務だし、何を言っても誰かの気を悪くしてしまうだろう。というのは、これは人々が芸術と呼ぶものについてというよりも、むしろ倫理の問題になるからだ。
 
 だが、芸術と倫理や政治や宗教は絶対切り離せないことを忘れてはならない。こうした原理原則に関わる重大な問題では真実は一つであり、それを分けて論じることができるのは、形式的な論文のなかだけだ。それに、最初に言ったことを思い出してほしい。たとえ、こうして語っているのは私であり、話しぶりは弱々しくまとまっていないかもしれないが、私は自分より優れた多くの人の思想を代弁しているということだ。

 さらに言えば、ものごとが良い方向に向かっている場合ですら、先に述べたように最良の人々に正しく導かれる必要があるわけだが、現在は、それとはまったくかけ離れた状態なのだ。だから、たとえ人数はわずかでも、この火急の事態に信念を貫いて尽力するぐらいはしなければならない。そのために生き、そのために死ねば、名誉なことではないか。


 ■誠実さとシンプルな暮らしが民衆の芸術の鍵だ

 現代の暮らしが果たして楽しくなることがあるとしたら、そのためには、2つの美徳が絶対必要である。民衆による民衆のための芸術、作り手にも使い手にも幸せを生む芸術の種を蒔くためには、それは絶対に必要だ。

 その美徳とは、誠実さとシンプルな暮らしである。私の言いたいことをはっきりさせるために、後者の反対語をあげると、「贅沢」だ。また、誠実さの意味は、誰に対してもきちんと心をこめて当然支払うべきものを支払うということだ。誰かに損をさせて利益を得たりしないと固く決意しているということだ。私の経験では、これは現在ではまれなのだ。
 
 この2つの美徳は、どちらも互いに他を実行しやすくする点に注目してほしい。私たちの要求がささやかなら、要求に引きずられて不正を働く機会はほとんどない。すべての人に支払うべきものを支払うという原則を堅持していれば、自分が多く取りすぎではないかと悩んで、自分を尊敬できなくなることもない。
 
 これまでおとしめられてきた階級が芸術のなかで、あるいは芸術を準備するなかで(それなしには安定して価値のある芸術は存在しない)高まっていけば、2つの美徳の実践は新しい世界を作りだすだろう。あなたが富裕層なら、あなたのシンプルな暮らしは2つの意義を持つ。一つは、文明国における恐怖の無駄と貧困という度し難い明暗差を解決する働きであり、他方は、あなたが持ち上げようと思っている階級に尊厳ある生活の実例を示す働きだ。じっさい、今のままでは、彼らは金持ちがはまりこんだ生活――ありあまる金ゆえの怠惰や無駄――をうらやみ、真似ようとしているのだから。
 
 触れざるを得ずに触れた倫理の問題は置いておこう。シンプルな芸術は費用をかけてもかけなくても可能である。少なくともそれで無駄は生まれないし、シンプルさを欠けば、これほど芸術にとって破壊的なことはない。どんな金持ちの家を訪れても常に思うことだが、金持ちの家にあふれるものの9割までは、外で焚火にした方がよっぽどましなものだ。

 まったく、贅沢を犠牲にするのは、私には、ほとんどなんでもないことのように思える。というのも、私の見るかぎり、金持ちが贅沢をしたがるのは、たんに悩みの種に過ぎない所有物をともかく増やしたいからか、あるいは、何でもチェックし嫌がらせをする気取った上流社会の環境に縛られているからにすぎない。

 そうなのだ、贅沢はなんらかの奴隷システム(注)抜きには存在しない。その廃止は、奴隷制度の廃止同様に人類の慶事だ。奴隷も、奴隷の主人も、解放される。
 
 最後に、シンプルな暮らしの獲得と同時に、正義を愛する心も獲得すれば、芸術の新生に向けて準備がすべて整うことになる。そもそも、労働力の雇用者ならば、労働者が人間らしい生活を送る賃金を支払わない事態、あるいは教育や自尊心にふさわしい余暇を与えない事態を、どうして耐えることができるのか。労働者ならば、請け負った契約の水準に達さないとか、あるいは、ごまかしやさぼりを疑われて現場監督に通路を行き来されるなどという状況を、どうして耐えられるのか。小売店主ならば、損失を誰か他人に背負わせるために商品をごまかすなんてことを、どうして耐えられるのか。また一般の消費者ならば、1人を困らせ、2人目を破滅させ、3人目は飢えさせてしまうような価格しか支払わないなんてことを、どうして耐えられるのか。そもそも、作った人の苦痛や悲しみがこもっている品物を、どうして使ったり楽しんだりできるのか。

(注):これは、古代の奴隷制度そのものというよりは、ここでは、モリスがよく問題にする主人と召使いという「奴隷関係」を指していると思われる。モリスは、上流社会の「代理」システム、自分がやるべき身の回りのことなどを他人にさせるシステムを嫌悪した。
                    

 ■夜明け前に蝋燭を灯して準備する職人となろう

 さて、私が今夜言いたかったことはすべて述べた。何も新しいことはないかもしれない。だが、ご存知のように、大多数の人が聞く耳を持つまでは、言うべきことは何度も何度も言わなければならないのが世の習いだ。だから、今晩のこの主張は、言葉に込められた思想が堂々と語られるようになるまで、必要な限り何度も繰り返させてほしい。
 
 その他の点に関しては、これらの主張がいかに激しく反対されるとしても、聴衆の皆さんは、使命感と心からの善意で語られたことなら(私は、そう語ってきたつもりだ)、どんな言葉でもそれを手掛かりに考えをめぐらしてくださるだろう。

 いずれにせよ、真面目に考える者が仲間に相対するときは、なんであれ、心のなかで本当に燃えていることを話すべきだと思う。そうすれば、お互いに相手を奇妙に思ったり誤解したりすることもなくなって、多くの無意味な対立抗争が避けられるだろう。
 
 ところで、私の話が希望のないものに聞こえた人がいるとしたら、それは、私の言葉が芸術的力を欠いていたことになる。分かっていただきたいが、もし絶望していれば、私は口を開くのではなく閉じていただろう。間違いなく、私は希望を持っている。だが、果たして、その希望が達成される日を予言できるか、あなたや私の目の黒いうちに達成されると言えるかと言えば、それはまた別だ。
 
 いや、いや、少なくとも勇気を持とう! 私が生きてきた短いあいだでも、予期しないような素晴らしくて輝かしいことが起こっているではないか。
 
 そうなのだ、現在が素晴らしい実りある変革のときであることは確かだ。消えゆきつつある時代は、そのなかでも新しい息吹を引き寄せつつあり、いつの日か、苦しい労働の日を過ごす人間に良きものをもたらすだろう。そのとき人間は、自由な心と澄んだ目で、ふたたび美を表現する感覚を身につけ、それを祝うだろう
 
 だから、今は暗い時代だとしても――確かにいろんな意味で暗いのだが――少なくとも、馬鹿者やご立派な紳士のように、一般人がするような労苦は自分たちにふさわしくないと考えたり、混乱して疲れ果て何もしないで座り込むことだけはやめようではないか。そうではなく、薄暗い工房に蝋燭を灯し、朝が明けて太陽が昇ればすぐ働けるよう準備している良き職人たるべく努力しよう。

 明日、もはや欲深でも抗争好きでも破滅的でもない品位のある世の中になれば、新しい芸術、輝かしい芸術が生まれることだろう。民衆による民衆のための芸術、作り手にも使い手にも幸せな芸術が花開くのだ。
                                  (終わり)

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