未来の社会 その1

by William Morris in 1887
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行しています)

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この講演でモリスは、「社会主義の実現とは人間を幸せにするために心を配ることだ」と語っています。
100年後の1987年に崩壊したソ連圏の「公式」の社会主義と、なんと異なっていることでしょう。
生産力、つまり経済優先だった「社会主義」に対して、
モリスはのびのびした暮らしとそこでの仕事や日常の喜びを尊重します。
あまりの違いに、同じ「社会主義」という言葉で呼ぶのをためらうほどです。
人間の社会、コミュニティを尊重しようと名づけられたSocial-ismやCommunity-ismという言葉が
こんなに泥にまみれてしまうとは、19世紀の先達たちは思いもしなかったことでしょう。
モリスは、この講演で描いた独特の未来社会の夢をさらにふくらませ、
『ユートピアだより』に結実させます。

  ■まずは独占を廃止し、労働者が生産手段を使用すること
 労働を解放し新社会を生みだす社会的変革を求めていく場合、われわれ社会主義者は未来社会が自らを形づくっていくのに必要な最低限のことがらを上げれば充分だと考えている。それからさきは、社会が自ら準備し進化していくだろうから、細部にわたるユートピア的な計画を提案するより、そのほうがいいと思うのだ。

 必要最低限のこととは、まず、独占の廃止である。そして、富を生みだす生産手段は、生産に携わる労働者が自由に使えるべきで、生産した富の大半が無責任な生産手段所有者に無理やり差し出されるようなことはあってはならない。

 われわれは、この生まれたばかりの誠実な社会が持つ再生能力の高さを信頼しており、自由になった世界は新しい進歩のサイクルに突入すると信じている。

 この新たな発展にどういう問題が伴おうとも、われわれは沈着にそれに直面する心構えができている。現体制はいまや問題だらけとなっており、それを取り除くだけでも大きな前進に違いないからだ。

 疲弊し無力となった現在の生産体制を消滅させても、人類が獲得した進歩を破壊することにはならない。むしろ、少数の人間だけに進歩を楽しませるのでなく、人類全体が楽しめるようになる。

 つまり、世界の現状を考えれば、もはや改革者がなすべきなのはあれやこれやの予言ではなく行動だということだ。すでにある手段を使って、眼の前にある抑圧という悪を正すのはわれわれの任務だ。その努力の結果として勝ち得た自由を守り使う役目は、来たるべき世代に委ねなければならない。

  ■それでも、未来社会はどうなるかを想像せずにはいられない
 さて、最低限の基本を上げれば充分だとは言ったが、生まれたばかりの新社会がどう発展するかの方向性も、実は、ある程度分かっている。歴史の進化が教えてくれるからだ。

 世界がこれまで歩んだ道を後戻りすることはないし、人間だって新しい社会のなかで速やかな心身の発達を遂げるだろう。人々は直前の世代が感じたよりずっと強く社会への責任を感じるだろうし、生産、さらには生活全般において協同する必要性も、いままでよりずっと意識することだろう。

 労働が解放され暮らしが容易になれば、すべての人々がゆとりを持てるようになり、思索する時間もできる。これまでのような犯罪の衝動も生まれなくなるから、犯罪自体が珍しくなるだろう。暮らしやすさと教育とがあいまって、心身の病いからも解き放たれることだろう。要するに、正義と誠実さや思いやりに満ちた世界に歩み出すためには、物質的生活条件においてそれにふさわしい改善が必要だったのだ。

 もちろん、こういう知識があるからこそ、社会を根本から変革しようと声を上げてきたわけだが、そういう一定の知識をも越えた未知の多くの分野についても、われわれは想像を働かせずにはいられない。

 そして、この想像、この希望、もっと言えば、未来への夢の数々こそが、人を動かし、社会変革を目指す人間にする力なのだ。科学や政治経済や自然淘汰説から導き出された冷静な理性だけでは動かなかった多くの人を動かす力こそ、この夢なのだ。

 この夢が、健全な精神の持ち主に希望が湧いてくる根拠を学ぼうと思わせ、難しい勉強も成就しようとする勇気を与えてくれるのだ。算数を学ぶアラブの王様も言ったように、これらがなければ思索は退屈すぎる。

 ところで、どんなグループの場合もそうだが、社会主義をめざす革命家にも二つのタイプがある。分析を重んじるタイプと前向きに構想していくタイプだ。

 私自身は後者なので、後者のタイプが陥りやすい危険や、さらには失うであろう喜びについても充分に認識している。そして、行動を熱望するあまり足をすくわれて方向を見失ったとき、分析的タイプの人々がわれわれの進む道を正してくれることを、ありがたく思っているつもりだ。

 正直なところ、分析的タイブがお気に入りの理論を完ぺきにしようと、うっとりと思索する至福の状態は、少々うらやましいほどだ。われわれのように、世界の現実を注目する際に理性の力よりも眼を使う者たちにあっては、ほとんど味わうことのない幸福だろう。

 分析型の人たちは、私のようなタイプの本能的洞察を「夢想」と呼ぶようだが、そう呼ばれるとなると、話は少しやっかいになってくる。同志間の論戦でも、彼らはいつでも自分たちの方が優れていると思っていて、そういう態度で接してくるので、二つの傾向の名づけ方は慎重にしておかなければならない。

 だから、いまのところは、後者のタイプをビジョナリー(洞察力・想像力を持った人)、あるいは、「理論的」との対比で実践的な人というだけにしておきたい。

 そして最初に認めておかなければならないのは、ビジョナリーあるいは実践的な人々の未来像は同じではなく、一人ひとりで著しく異なっているということだ。しかも、お互いの未来像について、このタイプは相互にあまり興味を持っていない。

 ところが、分析型の人たちは互いの理論にほとんど違いがないにもかかわらず、それぞれの細部に大いなる興味を抱いている。ある意味では、肉屋が牡牛を「どう解体しようか」と興味を持つようなものだと言ってもいい。

  ■社会主義とは人々を幸福にすること
   幸福とは自由で充実した生活だ
 だから私は、私の未来像と他の同志の未来像とを比べるつもりはまったくない。ただ私自身のビジョンのいくつかをお話しするだけだ。ビジョナリーな人々は自分の像と比較してくれればいいし、分析型の人々は、私を気にせず批判してくれればいい。

 というわけで、これから、みなさんに正直な告白をひとしきり話そう。もし私が未来社会に生まれ変わることができたら何を望むかをお話ししたい。それをずいぶん変わった未来像だと感じる人も、なかにはきっといることだろう。

 でも、変わっていると思われるとしたら、そう思う理由の一つは、ある意味で悲しく屈辱的なものだ。というのは、私はずっと裕福な階級に属してきており、贅沢のなかに育った。だから、私が未来に必要だと思うことがらは、ほとんどの皆さんよりずっと多いのだ。

 私が未来像のなかで真っ先に掲げたいと思うのは、そういう貧富の差からくる食い違い自体が不可能となる日の到来だ。この願いはその他の望み全体を彩る願いでもある。私が願うのは、たとえ辞書には貧富という言葉が残っていたとしても、貧乏人と金持ちという言葉が意味を持たなくなる日の到来だ。そんなときが来れば、分析型のりっぱな人たちがいくら多くの時間を費やし言葉を尽くして説明しても、未来の人にはその意味が通じず、分かったふりをしてくれるのが関の山だろう。

 さて、まず初めに、社会主義の実現とは人間を幸せにするために心を配ることだと言いたい。

 では、何が人々を幸福にするか。それは、自由で充実した生活、意識的生活だ。あるいは、楽しく行動力を発揮し、発揮したことによって必要となる休息を楽しむことだと言ってもいい。これが、もっとも活動的な人から怠け者まで、あらゆる能力・気質の人を網羅したすべての人にとっての幸福だ。

 だから、どんなもっともらしい見かけをとっていようとも、この生活の自由と充実を妨げるものは何であれ悪であり、できるだけすばやく取り除くべきだ。幸せでありたいという当然の望みを持つ分別のある人間なら、辛抱すべきことではない。

 余談だが、ここで私が「非科学的精神」を認めていることが分かるだろう。運命論を取る最先端の科学者が否定する「人間の自由意志の発揮」を提案しているわけだから。だが、ここで「自由意志と運命論」について立ち入るつもりはないから安心してほしい。

 私が言いたいのはただ、人間が取り巻く環境の産物であるなら(その通りだと思うが)、個々人を人間たらしめる環境を作ることこそ、社会的動物としての人間の、あるいは社会の任務でなければならないということだ。

 人間は、自分が生きる環境を創造しなければならないし、創造する。このことを意識させ、賢く創造させるようにしようではないか。

  ■人間的エネルギーの発揮を他人に代行させるシステムが文明だ
 では、人間はこれまで環境を賢く創造してきただろうか。取り組んではきたが、よく言って、そのときどきにまあまあの成功を収めてきたにすぎない。だがわれわれは、そのまあまあの成功を自慢し、それを文明と呼んできた。

 文明が善か悪かについては、いろいろな考えの人のあいだで多くの議論があった。わが友バックスは、大変りっぱな記事のなかでその問題の基礎をはっきり設定し、「より良いことへの第1歩としては文明はひとつの善だが、達成したものとしては悪だ」と述べた。そういう意味で、私は文明を敵と考えていると宣言したい。

 いや、これは告白の章であるべきだから、もっと正直に白状しよう。私が社会主義をめざす基本的中心的動機は、文明への憎悪だ。私の新社会の理想は文明を破壊しないかぎり満たされない。

 それというのも、幸せとは気持ちよく活力を発揮することであり必要な休息を楽しむことだが、バックスの提起した観点から文明を見てみると、文明はこの二つの善を否定しがちだからだ。そうすることによって人間を意志のない機械におとしめがちだからだ。人間から、しだいに動物としてのすべての機能と、その機能を発揮する喜びを剥奪してしまい、もっとも初歩的なものしか残さない。

 科学が考える未来の理想的人間のイメージは、私にはまるで、自分では制御できない環境によってぶくぶく太らされた太鼓腹に知能をプラスしたにすぎないように思える。知能はあっても、その人間は、考えたことを他の太っちょのきょうだいとコミュニケーションする能力も欠いている。

 したがって、私の未来社会の理想は、なによりもまず自由であり、個人的意志を磨くことである。文明はそれを否定し、その存在すら無視している。

 人間ではなく人工的なシステムにやみくもに依存している状態を取り除けば、人間は人間的らしい悩みと責任遂行能力を自分のものにすることができる。そして、これを自己内部で燃やし続けるためには、なにをさておいても、自由で束縛されない本能のままの暮らしが必要だ。

 私はすべての禁欲主義を完全に拭い去るよう強く求める。恋の欲望、陽気でいること、食欲があること、そして眠くなることに少しでも引け目を感じるようなら、われわれはろくでもない動物であり、惨めな人間である。

 文明がこれらの気分や行為をすべて恥ずかしいと思わせるのはご存じだろうか。文明のもとで教養ある人間は、必死にそれらの欲望を露わにしないように努め、可能なら生活を他人(召使い)に整えさせる。じっさい、文明とは、特権を持つ少数者のために、人間的エネルギーの発揮を確実に代行するようお膳立てされたシステムとしか思えない。

 さて、この禁欲主義の死滅という要求は、さらに新たな要求を生み出す。それは、贅沢の死だ。これは矛盾しているように思うかもしれないが、そうではない。

 贅沢とは、情けないことに、美しい地球での素朴な喜びを不満に思うことではないのか。人間であることをやめた人間、働きもせず、それゆえ休憩するすらできないような「人間」の萎えた欲望を満足させようとして、自然な美しさを歪んだ醜さへと変形させているのが、贅沢というものではないか。

 贅沢が現代ヨーロッパでいったい何をしたか、挙げてみようか。楽しい緑の野原を奴隷のあばら家で被い、花や樹木を毒ガスで枯らし、川を下水に変えてしまった。いまや、イギリス中の多くの場所で、庶民は野原や花がどういうものだったかを忘れてしまい、美しいのは、ごてごて飾りたて空気の汚れた安酒場か、けばけばしく安っぽい劇場だと思っているしまつだ。そして、文明はこれを気にも留めず、むしろ安堵している。

 そして、金持ちは事実上、「これでよい。庶民はもう慣れてしまった。彼らが豚などの食うモミ殻で腹を満たしているかぎりは、それで十分だ」と考えている。

 これで、いったい、何が得られるのか。りっぱな絵画が出来るのか、美しい建物を建てられるのか、良い詩が書かれるのか。とんでもない! それは、贅沢以前の時代、文明以前の時代に為されたことだ。

 現代の贅沢が建築したのはペルメル通りの紳士のクラブだ。まるで繊細な病身の淑女に仕えるように注意深く贅が尽くされ、立派なヒゲの男たちが馬鹿馬鹿しいほどもったいぶってのんべんだらりと時を過ごす。そして、贅沢なビロードの半ズボンを履いた召使いたちは、まるで紳士が現実より上等な人間であるかのように仕えるのだ。これ以上言う必要もないだろう。豪勢なクラブこそ、贅沢の見本だ。

  ■のびのびした素朴な暮らしこそ人間的だ
   他人に生活を整えてもらうようでは喜びは分からない
 まったく、贅沢は暮らしの楽しさにとって不倶戴天の敵なのだ。ご覧のとおり、贅沢の問題となると私はつい長々と話してしまうが、それは、たとえ一瞬でも、労働者諸君に洒落たクラブを望ましいものであるかのように考えてほしくないからだ。

 貧しく不潔な状況で暮らさざるを得ない労働者が、その現実の先に真の人間的喜びのある生活を想像するのはどんなに難しいことかは分かっている。それでも私は、未来の良き生活には、今日の金持ちが送っている生活との共通性などほとんどないと分かってほしいのだ。金にまみれた生活は、彼ら自身の惨めさの裏面にすぎないし、それこそが惨めさの根拠なのだから、そんな暮らしを羨ましがる必要などまったくない。

 社会主義に反対する人たちは、しばしば、社会主義社会ではどうすれば贅沢品を調達できるのだと言ったりする。はっきり答えよう。そんなものは調達できないし、できなくてけっこうだ。そんなものは欲しくならないし、持つ気もないのだから。

 じっさい、われわれがすべてみな自由な人間となれば、きっと、贅沢品など存在しないと思う。自由な人間は、素朴な生活を送り、素朴な楽しみを持つにちがいない。その必然性に今たじろぐとすれば、それはわれわれがまだ自由な人間ではないからだ。自由人でないわれわれの生活は複雑な依存関係の網に絡み取られてしまっており、そのために心細くて無力だと感じるからだ。
 
 だが、果たして素朴とはどういうことか。ひょっとして皆さんは、黄色レンガで青瓦の家並み、あるいは改良型ピーボデイ下宿のような共同住宅を私が考えていると思っていないだろうか。夕食のベルでいっせいにテーブルに付き、四角に切りそろえたパン一切れが添えられたスープの白椀の前に座り、デザートには湯沸かしで出した紅茶と生煮えライスプディングが出ると思っていないだろうか。

 それは違う。それは慈善家の理想かもしれないが、私はそんなのは嫌だ。そんなイメージをはっきり否定するために、もう一度言おう。日常生活の支度を他人に任せれば、そこには生活の楽しみなどない。

 それでは駄目だ。どうするのが心地良いかを自分で見つけ、それを実行するのだ。同好の士は他にもいる。多くの人がきっと実現を助けてくれるだろう。そうすれば、自分の特質を伸ばしながら、社会生活が広がっていく。
 
 ということで、私の理想は、まず初めに、制約されないのびのびした生活であり、次に素朴で自然な暮らしだ。そのためには、何よりもまず自由でなければならない。

 そして次に、暮らしのすべてに喜びを見い出すすべを身に付けなければならない。これは絶対必要だ。そもそも、他の人たちも自由で、あなたの召使いではないのだから、自分の仕事は自分でやらなければならない。これは文明の対極にある考えだ。文明社会では、厄介な手間は避けろと言う。でもそれは、他の人々に自分の生活を助けさせて初めてできることなのだ。

 社会主義者は、「手間を惜しむな。そしてそれを喜びに変えよ」と言うべきだ。これこそ、幸せな生活のカギだと、私はいつも思っている。  (その2に続く)

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