未来の社会 その2

by William Morris in 1887
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行している箇所があります)
(注:この翻訳文章は『素朴で平等な社会のために』で、バージョンアップされています)

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  ■政治は姿を消し 人間関係は地位や財産と無縁になり
             考慮すべきは人間そのものとなる
 さて、そのカギを使って、閉まっている未来の扉を開いてみよう。

 もちろん、未来の社会について語る場合、理想的社会と現在とのあいだに存在する過渡期(それがどういう形になるにせよ)を端折らせてもらっていることを承知しておいてほしい。過渡期は、ひとたび世界の新生を信じ念じたなら、多かれ少なかれわれわれ全員の心に形づくられるにちがいないと思うからだ。

 まず、新社会での人々の立場、いわば政治的立場がどういう形態を取るかについて述べよう。

 われわれが知っている形での政治的社会は姿を消す。人間と人間の関係は、もはや地位や財産の関係ではなくなる。考慮すべきは、中世のような上下の身分や地位ではなく、現在のような財産でもない。人柄そのものとなるのだ。

 国家が強いた権利義務の契約関係は、高貴な血を尊ぶ慣習と同じく、忘却の淵に消えるだろう。暮らしを犠牲にして、発生するとも思えない揉め事を処理する機関を必要であるかのように思わせる、そういう人為的側面は、すべて一挙に取り除いてしまおう。

 権利が競合したり要求が衝突したりする場合は、その場で解決を図られる。つまり、法制度を通じてではなく、現実的に処理されるのだ。もちろん、私有財産は権利として存在しない。普通の暮らしに必要な必需品は何でも充分あるので、個人が直接交換する必要もない。もっとも、特定の人々のあいだで育ち、いわばその人の習慣のようになった交換・商売に首を突っ込みたい人など、その社会には一人もいないだろう。

  ■現在のような分業はありえない
 さて、職業についてだが、明らかに、現在と同じような分業は存在しなくなる。

 主人の家事雑用を代行する召使い、下水処理、屠殺、郵便配達、靴磨き、結髪などの職業は、すべて無くなるだろう。これらの職業は、自主的にやってもいいという気持ちや好みのある人がそれふさわしい形態に変えておこなうか、そうでなければ、まったく廃れるにまかせるかだ。

 大量にあった見せかけの職業もなくなるだろう。売らんがために布に模様をつけたり、水差しの取っ手をいじくったりせず、ただ、自分や人を楽しませるために美しく作るようになる。

 生産される品がどれほど不器用で平凡なものであろうとも、それは使用という機能を果たすためにそうなのであり、決して売るためではない。奴隷はもういないから、奴隷以外は誰も使わないような品物はもはや必要ではない。

 機械は、おそらく一定の労働者の特権を取り除くのに大いに役に立つだろうが、使用はかなり削減されるに違いない。数少ない貴重な機械は大幅に改善され、大量の重要ではない機械は使用されなくなる。

 人々は多くの機械を使用しようと思えば使用できるが、あまり使いたいと思わないかもしれない。言ってみれば、現在の上流階級のように大量の荷物を持って旅行するなら鉄道を使わなければならないが、そんな必要がなくなれば、個人的好みの赴くままに、馬車やロバに揺られて旅をしてもいいようなものだ。

 現代の人口集中は人々にコミュニケーションの機会を与え、労働者に連帯を感じさせるという要素もあるのは確かだが、そういう人口の密集も終わりを告げる。巨大な工業地帯は分割され、無分別な欲望と愚かな暴虐行為が残した恐ろしい傷跡は、自然が癒してくれるだろう。なぜなら、たとえわずかでも去年より安い綿布を生産しなければならないという市場の圧力が、もはやなくなるからだ。

 清潔な家と緑の草原を得るために、一日に半時間余分に働くかどうかを決めるのは、われわれ自身となる。もともと作る値打ちもないような品物のために市場がちょっとした気まぐれを起こして、何千人もの人が飢えたり、惨めな生活に落ち込むことはない。

 言い遅れたが、もちろん人々は余暇を使って個人的に多くの装飾品を簡単に作るだろう。ほんものの芸術作品を作るのは、間に合わせの不良品を製造する機械を編み出すより簡単なのだから。

 そしてわれわれが住む恐ろしい汚泥の山、偽善とおべっかの中心地となったロンドンは、もっと簡単に変えられるだろう。かつてロンドンと呼ばれていた非常識な愚行の町に代わって、テムズ河の両岸には心地良い村々が生まれることだろう。

  ■未来の教育は生活を楽しむ可能性を広げる
 つづいて、あのカギを使って、未来の教育という扉を開けてみよう。

 現在の教育はまったく商業のためのもので、政治的な教育だ。誰一人として人間たるべき教育を受けていない。受けているのはただ、一部の人間が財産の所有者となり、その他はそれに仕える者となる教育だ。

 私はここでも、禁欲主義とは無縁な素朴な生活を基礎にした革命が影響を及ぼすことを願う。そして、致命的な分業システムを教育の面でも取り除くべきだ。

 人はみな、水泳、乗馬、海や川での舟の扱いを学ぶべきだ。これらは技ではなく、ただの身体的訓練であり、人々の習慣となるべきだ。そして、基礎的な生活上の技としては、大工か鍛冶仕事を学ぶべきだろうし、多くの人が蹄鉄の打ち方、羊毛の刈り方、畑を耕し収穫する方法を修得すべきだろう。(自由になれば、すぐに農業に機械を使わなくなると思うからだ)

 それから、料理、パン焼き、裁縫なども、聡明な人なら誰でも数時間で覚えられることだし、すぐできるようにしておくべきだ。もう一度言うが、こうした技はすべて習慣となっているべきだ。また、読み書きの技もそうだ。思索の技について言えば、現在は、私の知るどの学校でも大学でも、教えているとは思えない。

 こういう習慣や技を身に付ければ、市民が楽しむ生活が広がる。どの分野で力を発揮したいにせよ、教育の面でも、機会の面でも、材料の面でも、共同体が助けてくれる。

 私自身は、その市民が何をすべきかを処方するつもりなどない。習慣となった技によって人間の持つ可能性が広がり、それを使いたくなるにちがいない。

 そして、暮らしを楽しむ過程は、仲間の市民を犠牲にしてではなく、仲間の利益のために実現されるだろう。ご存知のように現在は、餓死の危機という鞭に尻を叩かれることのないすべての金持ちにとって、行動意欲を起こす刺激は限られている。それはたいてい、ちゃんと活力に満ちた人間がエネルギーを使わなくてもいいような地位を願うことだ。つまり、文明社会では、勇猛果敢に努力しても、勝ち取る栄冠は飽き飽きするような退屈な暮らしとなるのだ。

 しかし、ものごとが社会らしく組織されれば、人間が心身の力を行使して得られることは、きっと多様で広範囲にわたるだろう。また、たんに個人的に能力を使うからといって、そのために人間の努力の範囲が限定されるなどとはまったく思わない。なぜなら、ついに人々は、生きることを自分の責任だと認識し、努力なしの人生なんて退屈だという結論にきっと到達するだろうから。

 もちろん、その努力がどの方向に発展するかは、私にはわからない。ただ言えるのは、文明社会を包囲している呪い、面白くもない下劣な仕事の必要性という呪いから解き放たれるのは確かだということだ。

  ■人類は視力を取り戻す
 だが、私がひとつ希望的提言をするとしたら(もちろんこれは個人的な希望だが)、おそらく人類は、現在ほとんど失ってしまっている視力を取り戻すのではないかということだ。

 なにも、物理的に不完全な視力の持ち主が増加している事実をほのめかしているわけではない。そうではなく、それとも関係して、かつては、眼が空想力と想像力の源だったのに、今では多くの人々が眼を使って心に印象を刻むのをやめてしまったことを問題にしている。

 もちろんいまも人々は、階段から転げ落ちないように、あるいはフォークを口ではなく鼻に突っ込まないように、目を使っている。だが、人々が目を使うのは、たいていそれだけだ。

 展覧会やギャラリーへ行ったとき、私はそこにいる人々の様子を観察する癖がある。大体において見学者は時間を持て余しており、眼はいろんな展示品の上をうつろに泳いでいる。そして奇妙なことに、珍しいものや変わったものに少しも惹きつけられない。そういうものは眼で見て初めて心に訴えるものだから、眼を使っていなければだ、それも当然だ。ところが、もし印刷したラベルになにか馴染みのあることが書かれていると、人々は興味を持ち、お互いひじをつつきあう。

 たとえば、一般の人々がナショナル・ギャラリーに行くと見たがるのはブレナムのラファエロの絵だ。その絵はよくできてはいるが、実に退屈な絵だ。少なくとも芸術家でなければ、そう興味を引く絵ではない。それなのに人々が見に行くのは、「ほら、その、例の…」と言われたからなのだ。つまり、絵の持ち主の泥棒が、その絵で国から法外な金額を絞り取ったからなのだ。

 一方、慎み深い微笑みを瞳にかすかに浮かべる16世紀のデンマークの姫君をホルバインがキャンバスに蘇らせても、あるいはファン・エイクが14世紀のブリュージュの窓を開けてくれても、ボッティチェリが神学の死滅以前に人の心に生きていた天国を見せてくれても、人々はなんの感激もしない。好奇心をそそられて、「これはいったいどういう絵なのか」と尋ねたりしないのだ。なぜなら、こうした絵画は見るために作られたものであり、過去、現在、未来の物語を眼から心に届けるために描かれたからで、眼を使わない人には届かないからだ。
 
 あるいはさらに、かつてサウスケンジントン美術館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)の教育部(たぶん冗談でだろう)と呼ばれる部署が、多少美術部とごっちゃになっていたとき、あるグループのあとについて、過去の素晴らしい芸術が集められた館内を巡ったことがある。

 彼らの眼は、どの美術品にも一度たりとも留まらなかった。だが、ビーフステーキの成分分析がラベルとともにきれいに置かれたガラスケースに出くわすと、すぐに活気づき、特になんということもないひとつまみを食い入るように見つめ、その分析への全面的信頼をみなぎらせた。(私にはそういう信頼はまったく共感できない)。まるで、分析者が道路のホコリや灰を拾ってきて深遠な物質の代わりをさせることもなく、馴染みのある対象に光りをあてる努力をしたのは、超人的な正直さの証しでもあるかのようだった。

 文学でも同じようなことが起こっているのに気づくだろう。われわれの眼に訴えて強い印象を残す作家たちは、もっとも「知的な」批評家によって、少なくとも二流の位置に格下げされている。現代の「真に知的な」人たちは、(ホーマーやベオウルフ[注1]やチョーサーは別格として)たんに美辞麗句を操る者や内省の探求者を評価して、スコットやディケンズのような人生を語る達人を低く扱う。だが、スコットやディケンズはわれわれの感覚に直接語りかけているのだ。それを道徳的に解釈することなど、「知的な」人に任せてほっておけばいい。   (その3に続く)

[注1]八世紀ごろの古英語の英雄叙事詩

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