現在の暮らし方か、違う暮らし方か その1

by William Morris in 1885
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行しています)

  ■「革命」とは、社会基盤の転換だ
 私たち社会主義者がひんぱんに使わざるを得ない「革命」という言葉は、ほとんどの人の耳にそら恐ろしく響くものだ。革命と言っても、必ずしも暴動その他のいろんな暴力をともなうわけではない。また、そのときの執行権を握ったからといって、反対意見があるのに機械的に物事を変えるわけではない――そう説明しても、イメージは根強い。

 レボリューション(革命)という言葉は、その語源的な意味あいで使っているだけで、意味するところは社会の基盤における転換だと語っても、人々は、その考え方自体が途方もない変化だと怖がり、「革命」ではなく「改革」という言葉を使ってくれと訴える。

 しかし、ご立派な方々が改革という言葉で考えていることと、私たちが革命という言葉でめざすものはまったく異なる。あたりさわりのない言葉で包み隠して実現できる計画がどういうものかはしらないが、そういうやり方は誤りだと思う。

 やはり私たちは、社会の基礎からの変革を意味する言葉にこだわりたい。それで人々が怖気づくかもしれないが、少なくとも、何か怖れるようなことがそこにはあるという警告の意味は果たす。それを知らないままにいるのもまた、恐怖と同じくらい危険なのだから。

 それに、そう聞けば勇気づけられる人もいるかもしれないではないか。少なくとも彼らにとっては、その言葉は恐怖ではなく希望を意味するだろう。
 
 恐怖と希望――これこそ、人類を支配する二つの主要な情熱であり、革命をめざす者が扱うべきテーマだ。抑圧された大勢の人に希望を、少数の抑圧者には恐れを与えるのがわれわれの任務だ。多くの人々に希望を与えれば、少数の抑圧者は、その希望を恐怖するにちがいない。それ以外の意味で彼らを恐怖させるつもりはない。

 私たちが望むのは、貧しい人々のための報復ではない。彼らの幸せなのだ。だいたい、何千年にもわたって続いてきた貧民の苦難に匹敵するような報復など、この世に存在しうるだろうか。

  ■現代の抑圧者には抑圧の自覚がない
 しかしながら、貧しい人々を抑圧している者の多く(おそらくほとんどだろう)は、自分たちが抑圧者であるという自覚がない(なぜそうなのかは、あとで見よう)。

 彼らは、ローマ時代の奴隷所有者や、『アンクル・トムの小屋』に出てくる奴隷商人ラグリーのような感覚とはまったく無縁で、規則正しく平穏な暮らしを送っている。もちろん、彼らも貧民の存在は承知している。だが、その困窮を痛切に生々しい形で感じることがないのだ。

 金持ちは金持ちで悩みを抱えており、悩みに耐えることが人間たる者の運命だと思いこんでいる。しかも、彼らは、自分たちの暮らしの中での悩みと、社会的に低い地位の人々の悩みを比較するすべを持たない。

 世の中にはもっと深刻な悩みがあると気づいた場合でも、おそらく、“どんな悩みであれ、耐えなければいけないなら耐えないと仕方がないし、そのうちに慣れる”という処世訓を自分に言い聞かせて、見て見ぬふりをし、良心の呵責を忘れようとするのだ。
 
 じっさい、現代の個々人の状況というのは、こういうありさまなのだ。だから、現在の劣悪なシステムは、二種類の人々によって支えられているといえる。

 第一は、安楽に暮らしている無自覚な抑圧者で、彼らは、まったく緩やかで穏やかな改革ならともかく、それからはみだすような変化には、どんな変化であれ、恐れおののく。

 第二は、不安に満ちた厳しい暮らしを送る貧しい人々だ。そういう生活を送っていても、彼らは自分たちに良い変化が起きるとはこれっぽっちも考えていない。むしろ、それでなくてもわずかな持ち物が減ることを恐れて、状況改善に向けた行動を起こすなど、まったく思いもよらない。だから、金持ちに対しては、せいぜい怖がらせるぐらいしかできないが、それはいいとしても、問題なのは、貧しい人に、何でもいいからともかく希望を持ってもらうのがとても難しいことだ。

 したがって、いまの暮らし方よりも良い暮らしを実現する――そのための一大闘争に彼らを獲得しようと思えば、より良い暮らしとはどんなものか、あるていどのアイデアを示すのも理にかなったことだと思う。

  ■現在の暮らしは何が問題か
 とはいえ、それを納得いくように示すのは至難の業だ。というのも、私たちの生活は現在の体制にがんじがらめになっており、その現実の下で新しい社会を思い描くのは不可能に近いほどなのだ。そういう意味では、こう答えてもいいかもしれない――「人類の真の前進を明らかに妨げている障害が何かをはっきりさせよう。それを取り除けば、どういう暮らしが可能かはおのずと見えてくる」
 
 そうはいっても、人によっては、このままならわずかながら持ち物もあるが、変化が起こればそれすら失う、いや、悪くすれば何もかも無くなると恐怖するかもしれない。だから、私は犠牲的精神を発揮して、彼らを得心させるために、どういう暮らしが出来るかを展開してみようと思う。

 もちろん、その場合でも、多かれ少なかれ、現在のシステムの否定面に触れざるを得ない。つまり、人間らしい暮らしをするには何が足らないのかを、私の観点から明らかにせざるを得ない。金持ちや富裕層に対しては、彼らが何としてでも守ろうとしている地位とはいったいどういうものか、それをあきらめることが果たしてそんなに大きな損失なのか、と問わなければならない。

 そして、貧しい人に対しては、豊かで品位ある暮らしを生み出す力を持っていながら、これからも、ますます悪化する状況を忍ばねばならない――そんな立場にいるんだよと指摘しなければならない。
 
 では、現在のシステム下で私たちはどう暮らしているのだろうか? それを見てみることにしよう。

  ■現代社会は常に戦争を基礎にしている
 まず初めに、現在の社会体制が終わりのない戦争状態を基礎にしていることを理解してほしい。こういう状態がよいと考える人などいるのだろうか? 

 現在すべての生産のルールとなっている「競争」は、人類の進歩を鼓舞する良いことだ――皆さんは、しばしばそう聞かされてきただろう。だが、そんなことを言う人は、もっと正直に、競争ではなく「戦争」という言葉を使うべきだ。そうすれば人々は固定観念にとらわれず、戦争が人類を刺激し鼓舞するかどうかを判断できるだろう。そんな刺激は、庭に入り込んできた狂牛に追いかけられているようなものだ。

 どちらの表現を使うにせよ、戦争や競争は、最低でも、誰かの犠牲の上に自分の利益を追求することを意味する。その過程では自分の持ち物も破壊されるかもしれない、という覚悟がいる。でないと、まちがいなく争いに不利になる。人々が殺し殺される戦争を思い浮かべれば、これは完ぺきに分かるはずだ。

 戦争では、たとえば軍艦が就役するが、それは相手を「沈没させ、焼き払い、破壊する」ためだ。しかし、商業という名のもうひとつの戦争を遂行している場合には、どれだけ品物が無駄になっているかはあまり意識されていない。だが、よく見てみたまえ。多くが無駄に費やされているのは、どちらも同じなのだ。
 
 もう少し詳しく、戦争としての戦争がどういう形態を取っているかを見てみよう。「燃やし、沈め、破壊せよ」が、どう遂行されるかが分かる。
 
 まずもって、いわゆる国家的対立の存在だ。じっさいのところ、これこそ、こんにち文明国家が弾薬と銃剣を振りかざす原因のすべてだ。イングランドはここのところ、これにあまり積極的ではなかった。(もっとも、一方的殺戮が可能だと踏んだり、少なくとも希望的観測としてはそうだったりして、自分たちには危険がないと見定めたときは別で、勢いづくわけだが)。

 わが国は長い間まともな敵との銃撃戦を敬遠してきた。これには理由がある。私たちがすでに不当に大きい分け前を世界市場で得ていたからだ。最大の分け前を手にしているのだから、そのために国として戦争をしかける必要はなかった。

 だが、いまや、それは決定的に――社会主義者にとっては、喜ばしい形で――変わりつつある。私たちは、その大きい分け前を失いつつある。いや、もう失ったと言ってもいい。文明大国のあいだでは、世界市場をめぐって必死の「競争」が始まっている。死にもの狂いの戦争が明日にも起こるかもしれない。

 したがって、戦争のかけ声は、(そんなに大規模でなければ)古い保守派トーリー党の「名誉と栄誉」のための専売特許にとどまらなくなっている。彼らのかけ声に何か意味があるとしたら、それは、トーリーにとって戦争は民主主義の火を消すのにちょうどいい機会だということだ。

 いまや、事態は大きく変わった。流行りの「愛国主義」を駆り立てているのは、まったく違った種類の政治家だ。進歩的リベラルと自称するリーダーたち、つまり、自分たちが関わる関わらないに関係なく世界は動いていく、社会的運動が進行していくと十分承知している抜け目のない者たちだ。今日では、彼らが好戦主義者の代表だ。

 もっとも、彼らは、自分たちが何をやっているかは分かっていない。ご存知のように、政治家という人種は、六か月後に起こるかもしれないことには固く目を閉ざすものだから。しかし、現在起こっていることはこうだ。国家的対立が常態である現在の体制下で、世界市場をめぐる角逐はいまや互角となり、イギリスは死にもの狂いの争奪戦に追い詰められつつある。なぜなら、さっきも言ったように、かっての支配権を失ったからだ。

 死にもの狂いという表現は、決して誇張ではない。市場簒奪という、この衝動は、私たちを行きつくところまで行かせるだろう。いま私たちは、首尾よく強盗をやり遂げて世界に恥をさらしているが、明日は、おそらく、ただの敗北と恥が残ることになるだろう。
 
 いま述べてきたことは、決して脱線ではない。(もっとも、こんな言い方は少し「政治的」だから、これからはもうしない)。私は、ただ、商業戦争が外国との関係ではどんな様相を呈するかを語りたかった。一番呑み込みの遅い人にも、これがどんなに大きな無駄を産むのか、分かってほしかったのだ。

 これが、現在の外国とのかかわり方であり私たちの暮らしぶりだ。戦争に持ち込まずに相手を破壊できればそうするが、必要ならば戦争もいとわない。その一方で、未開人や部族に対しては破廉恥に搾取し、大砲で脅して粗悪品や偽善を押しつけるのだ。

  ■国家間の戦争ぬきに暮らせるはずだ
 もちろん、社会主義はこれとまったく異なることを請け合うことができる。そうだ、できるのだ。戦争ではなく、平和と友情だ。

 私たちは国家的対立などとはまったく無縁に暮らせる。自然にまとまって同じ名の下にコミュニティを作りたい人々は、自分たちで自治をおこなうのが一番いい。文明社会のどのコミュニティの経済状況も似たようなものだから、互いの利害が相反することはない。どのコミュニティのどの市民も、外国に行っても、生活を乱されることなくすみやかに働き暮らすことができ、自然に新しいコミュニティに融けこむことができる。

 すべての文明国家は一つの大きなコミュニティを構成し、必要な生産と分配の種類や量をいっしょに協議し合意する。こうして、適切な季節に必要な物のあれこれを生産するよう労働し、無駄は絶対に避ける。

 考えてもみてほしい。こうして避けられる無駄は、いったいどれだけの量になることか。このような革命によって、世界にはどれだけ富が増えるだろうか! この革命で害をこうむる生物など地球上に存在するだろうか? むしろ、すべての者がより良い暮らしを手にするのではないか? 

 これを妨げているのは何なのだ? このことはおいおい述べていこう。

  ■「競争」という名の企業間の戦争
 だが、その前に、国家間の「競争」の問題から目を転じて、「労働を組織する者たち」である大企業や株式会社、つまり資本家の競争を見てみよう。

 競争はいかに彼らの「生産を促進」させているのか。確かに、競争で生産は刺激されている。でも、それはどういう種類の生産なのか? 利益を得るための生産、利潤の生産ではないか。商業戦争が、どう利潤生産を促進するか――ある商品の需要が市場で高まる。その商品を作る製造業者は何百と存在するが、どの企業も市場独占をめざして必死に最大限の生産に邁進する。

 そうなると、結果は明らかだろう。やがてやりすぎて飽和状態となった市場は破裂し、憑かれたように稼働していた工場も錆びつき冷たい灰に埋もれていく。
 
 これって、戦争と似ていると思わないか? はなはだしい無駄が見えてこないだろうか。労働も、技術も、熟練の技も無駄となる。つまり、命が無駄に費やされるのだ。

 「いやあ、でも」とあなたは言うかもしれない――「その分、商品は安くなりますから」と。ある意味でそれはそうだ。だが、同時に、価格が安くなれば、明らかにそれに比例して一般労働者の賃金も低下する傾向にあるではないか。

 それに、見たところ商品が安いと言っても、それは何かを犠牲しているのではないか。はっきり言って、その商品は消費者をあざむき、真実の生産者である労働者を飢えさせているのではないか。それもこれも、消費者や生産者(労働者)を自分の金づるとしか考えない相場師が利益を得るためだ。

 粗悪品製造については、多くを語る必要もないだろう。こうしたビジネスで粗悪品製造がどういう役割を果たしているかは誰でもが知っていることだ。しかし、覚えておいてほしい。商品から利潤を産もうと思ったら――これが、製造業者と呼ばれる者の仕事だ――、それは絶対必要条件なのだ。

  ■「安さ」が未開国を食い荒らす
 分かってもらいたいが、製造業者総体で論じれば、消費者はそういう相場師に対してまったく無力だ。安いからと商品が消費者に押しつけられる。それを買うことで、実はそれに見合った暮らし方も選ばされているのだ。パワフルで攻撃的とすら言える安さによって、消費者の生活は決定づけられる。

 商業戦争のこの呪いの力ははかりしれない。いかなる国もその破壊力から逃れられない。

 何千年も培われてきた伝統は、ひと月も立たないうちに崩れ落ちる。弱小国・未開国は荒らされ、その地に存在していたゆかしき歴史のロマンスも楽しみも芸術も踏みつぶされ、醜悪で下劣な泥沼に代わる。

 インドやジャワの職人たちは、もはや、のんびりと独自の工芸に精を出すことはできない。一日に数時間だけ働いて美しく複雑怪奇な模様の布を織るなど、まったく不可能となる。マンチェスターでは蒸気エンジンが回り出したのだ。手に負えなかった多くの困難を克服して獲得された機械の力、この自然への勝利は、しかし、劣悪な仕事のために使われ、まがいものが生産される。

 アジアの労働者はその場で餓死して果てるか(じっさい、餓死した者も多い)、そうでなければ工場に雇われ、マンチェスターの兄弟たちの賃金低下に一役買うことになる。アジア人労働者たちから気骨は消え果て、残るものがあるとしたら、それは、説明しがたい邪悪の象徴であるイギリス人ボスへの澱(おり)のように淀む憎悪と恐怖だけだ。南海の島人たちは、丸木舟の彫刻も甘美な安らぎも優雅な踊りもあきらめて、奴隷の奴隷となる。

 文明がもたらすもの――ズボン、まがいもの、ラム酒、宣教師、死に至る病――これらすべてを、否が応でも飲み込まなければならない。そして、彼らを破滅させた市場の暴虐が新しい社会秩序に変わらない限り、彼ら自身も私たちもこれをどうすることもできない。

  ■本国の労働者も市場に翻弄(ほんろう)される
 消費者はこういう有様だ。では、生産者はどうかを見てみよう。私の言うのは、真の生産者、つまり労働者についてだ。こうした市場の争奪戦は、労働者にどういう影響を及ぼすだろう? 

 工場主たちは戦争に勝つために、膨大な数の労働者集団を一カ所に集めなければならなかった。そして特殊な生産分野に向くように労働者を訓練してきた。つまり、利益を出せるようにしてきた。その結果、労働者はその仕事以外では何の役にも立たなくなる。

 工場主が供給する市場が過剰になると、この集団はどうなるのか。すべての兵卒は市場の安定需要に左右されており、あたかもその需要が永遠に続くかのようにふるまってはいる。彼らに選択肢はないのだ。だが、市場が過剰供給になるとこの人たちがどうなるかは、皆さんもよくご存知だろう。労働者は工場から締め出される。多くの場合、大半の労働者がお払い箱になる。

そこまでいかなくても、予備軍とも言える労働者――市場が膨れ上がっていた時にはせっせと雇用されていた常雇いでない労働者たち――は解雇される。彼らはどうなる? 言うまでもないだろう。私たちが日々目にしていることだ。私たちが知らないのは、というより、知ろうとしないのは、商業という戦争にはこうした労働者予備軍が絶対に必要だということだ。

 需要が膨らんだときに生産業者がこの哀れな労働者たちを駆りだして機械を動かさなければ、フランスやドイツやアメリカの生産業者が割り込んできて市場を奪ってしまう。
 
 そういうことなのだ。現在の私たちの暮らしでは、産業人口の大半が定期的に飢餓に近い状態にさらされる必要がある。

 しかも、それは世界のどこかで誰かのためになっているわけでもなんでもない。むしろ、他国の人々を貶(おとし)め奴隷化するために必要なのだ。

  ■膨大な無駄を産みだす利潤追求――
     なぜこんなことが可能になったのか
 少しのあいだでもいいから、これがなんたる浪費か、思いを馳せてほしい。

 現段階の世界市場で、利潤追求の一番極端な形態は、力づくで未開国を開国させ市場にすることだ。それを見れば、利潤追求が悪夢のように汚らしいことがよく分かるにちがいない。

 私たちは飢餓の恐怖にさいなまれ、食べるために汗水たらして長時間働かされる。本を読むなどはもちろん、絵を見ることも、気持ちよく野原を散歩することも、太陽を浴びて寝そべることも、時代の知識を共有することもできない。つまり、動物的幸せも知的楽しみも持てないのだ。

 しかも、その代償はいったい何なのか。死ぬまでずっと奴隷のような生活を続けるためにすぎない。

 そうして、金持ちには「安穏とした贅沢な暮らし」を提供する。だが、その安逸で豪華に見える生活は、実は、空虚で不健康で低劣な暮らしだ。全体としては、私たち労働者よりもっとひどいかもしれない。

 こうして人間がこうむるあらゆる苦しみ、その結果何がもたらされるのか。何もないとしたら、つまり、それらの商品を買っても別に何の役にも立たなかったと言えるなら、まだましだ。なぜなら、たいていの場合、生産された商品は多くの人に害を与えるのだから。私たちは、仲間の人間たちにとって有毒で破壊的な物を生産するために、うめきながら骨折って働き、そして死んでいくのだ。
 
 これが戦争であり、戦争がもたらすものだ。この場合の戦争とは、国どうしの競い合いではなく、企業や資本家どうしの競争のことだ。

 皆さんも私と同じように平和は絶対必要だと考えていると思うが、この企業間の戦争こそ、諸国間の平和を脅かすものなのだ。国家間の戦争とは、これら戦いあう企業が生存をかけて吸い込む息であり、吐き出す炎だ。

 現代においては、企業はもはやほとんどの政治権力を手中に納めている。彼らは各国で同盟を組んで政府を動かし、ただ二つの機能を果たすよう仕向けている。その第一は、国内で強力な警察力として行動し、強者が弱者を打ち負かす土俵を維持すること。第二は、海外で海賊の護衛役として行動し、世界の市場に通じる城門を爆破する役目を果たすことだ。海外では何としてでも市場の獲得、国内にあっては、どんな犠牲を出そうとも干渉を許さない特権的「自由競争主義」(虚偽の呼び方だ)の維持――これらの保証が、政府というものの仕事のすべてなのであり、産業界の大将たちが考えつくことなのだ。

 だが、それはなぜ可能なのか、これを支えているのは何なのか。それをこれから話していこう。なぜ利潤生産者がこんな力を手に入れたのか、しかも、なぜその維持が可能となっているのか――この疑問に答えてみよう。

  ■鍵を握るのは、労働者間の「競争」
 その鍵は、商業戦争の第三の形態にある。そして、この最後の形態こそ、すべての基盤なのだ。これまで、第一の形態・国家間の対立としての戦争を見てきた。そして、次に、企業間の対立を見た。これから問題にするのは、人間どうしの対立だ。

 現在の体制のもとでは、国家は世界市場を求めて相手を打ち負かそうとし、企業や産業司令官は市場での利潤を求めて攻撃し合う。それと同様に、労働者たちは、生活の糧を得るために互いに足を引っ張り合う。労働者間のこの絶え間ない競争あるいは戦争こそ、利潤を搾り取ろうとする者たちに利益をもたらし、手に入れた富を武器にして国の全執行権を獲得させる基礎なのだ。

 もっとも、競争といっても、労働者と、利潤を追い求める資本家とでは立場が違う。資本家にとって戦争は絶対必要だ。個人的にも企業としても国家としても、競争抜きには利潤を生み出すことはできない。だが、あなた方は競争抜きに働き生計を立てることができる。競い合うのではなく、連帯することが可能なのだ。
 
 利潤を追い求める者にとって戦争は生命をつなぐ息吹だと私は言った。それと同じように言えば、労働者の命は団結だ。労働者階級(プロレタリアート)は、なんらかの結合抜きには、そもそも階級として存在しえない。

 利潤を搾り取る者たちは、まずは労働者を作業場へと集めて分業させ、そしてのちには、機械を装備した大工場へと集めなければならなかった。こうして、しだいに労働者は文明の中心地・大都市へと引き寄せられていった。こうして、労働者階級(プロレタリアート)という明確な階級を誕生させたのだ。これが、労働者階級の、いわば機械のような存在を決定づけたわけだ。

 彼らは、確かに商品生産のために結合させられている。だが、これではまだ、単に機械的につながっているにすぎないことを忘れないでほしい。彼らは、何のために働いているのか、誰のために働いているのか、分かっていない。なぜなら、彼らは、自分たちが使用するために製品を作っているのではなく、本質的に、利潤を求める雇用主が商品を生産するために結合させられているにすぎないのだから。

 これを続けている限り、そしてこれに専念するために互いに競い合っている限り、彼らは、これまで話してきた争う企業の一部に過ぎないし、彼ら自身もそう感覚してしまう。じっさい、彼らは、利潤生産の機械装置の一部でしかなくなる。

 こういうシステムの中では、主人たる利潤追求者の狙いは、市場価格を下げるために人件費を減らすということになる。彼らはすでに過去の人間の労働は資本や機械の形で手にしているので、日々買わなければならない生身の人間の労働経費は、出来るだけ削りたいわけだ。というより、それが必要条件なのだ。

 他方、彼らに雇われる労働者は、労働力しか持っていない。だから、それを売るために自分に安値をつけ、互いに雇用や賃金を競い合うよう強いられる。こうして、資本家は、自分に有利に勝負を運べることになる。                       (続く)

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