現在の暮らし方か、違う暮らし方か その2

by William Morris in 1885
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行しています)

  ■今のままでは、労働者は資本の一部でしかない
 先に述べたように、今のままでは労働者は競い合う企業の一部・資本の付属物でしかない。もちろん、強制されてそうなっているだけで、強制という事実に無自覚なままであっても、労働者はそうした強制やそれで直接引き起こされる賃金引下げや生活水準低下に対して闘う。個人としても階級としても闘わざるを得ない。

 たとえて言えば、ローマの奴隷が、自分は家財道具の一部でしかないと痛いほど感じていても、同時に、奴隷階級としては制度を破壊する力を秘めた存在であり、個人としても、身の安全さえ確保できれば、常に主人から盗もうと狙うようなものだ。

 つまり、ここにも、現在の私たちの生活に不可避となってしまった戦争があるわけだ。戦争の一形態、階級対階級の戦争だ。だが、階級対階級のうねりが(いままさに高まりつつあるようだが)最高潮に達すれば、述べてきたような他の形態の戦争を消滅させる。利潤生産者の身分も、果てしない商業戦争も、存続しなくなるだろう。特権の競い合いと商業戦争という現体制は打ちこわされる。

 さあ、よく考えてほしい。労働者という存在にとって必要なのは競争ではなく団結だ。だが、利潤生産者にとって団結は不可能で、戦争が必然だ。労働者の現在は、商業のシステムの一部、いや、ひらたく言えばシステムの奴隷でしかない。

 しかし、彼らがその立場を覆し自分たちを解放すれば、利潤生産者という階級も消え失せざるを得ない。さて、そうなれば、労働者の立場はどういうものになるだろう? 

 現在でも、他の階級は労働者に寄りかかる居候の寄食者にすぎないが、労働者は社会が必要とする唯一の構成要素・生命を生み出す要素だ。労働者がついに自分たちの本当の力を知り、生計のために互いに競うことをやめたら、どうあるべきなのか。どういう存在になろうとするだろうか。

 私の考えはこうだ――彼らこそが社会となるのだ。コミュニティとなるのだ。彼らが社会そのものとなれば、もはや争うべき階級がほかにいないわけだから、労働を調整して、ほんとうに必要なものだけを生み出せるようになる。

 いま、需要と供給がさかんに話題にされている。だが、そもそも需要と供給というものは人工的なものであり、投機的な市場に支配されている。つまり、供給の前に、需要が無理やり作られるのだ。すべての製造業者は競い合っているのだから、誰も生産を手控えるわけにもいかない。そのうち市場が飽和状態となり、労働者は街に放り出される。

 そして、生産過剰だったと聞かされるのだ。売れなかった商品がたくさんあったという。労働者たちには生活必需品さえろくに供給されていないのに。それというのも、彼ら自身が創造した富が「適切に配分されていない」からだ。つまり、労働者から不当にも奪い取られるからなのだ。

  ■労働者が「社会」そのものになれば
   生産過剰のなかの貧困はなくなる
 労働者が社会そのものになれば、需要と供給は賭けではなく本物であるよう、労働が調整される。需要と供給は、それぞれ適切に対応するようになる。

 なぜなら、必要だと求めるのも供給するのも、同じ社会だからだ。そうなれば、もはや、人工的飢饉も生産過剰のなかでの貧困もない。供給すれば貧しい人の生活を安寧にするはずの製品が、倉庫に在庫として大量に眠っていることもない。要するに無駄がなくなり、それゆえ、圧政もなくなる。

 もう一度言おう。「生産過剰」に伴うこうした人工的飢饉の代わりに社会主義が請け合うのは、市場の規制だ。供給と需要は等しくなる。投機的生産はなくなり、したがって、無駄がなくなる。

 ある月は過労で疲れ果て、次の月には仕事が無く飢餓の恐怖にさらされるということもない。毎月、安定した労働とゆったりした余暇がある。市場向けの安物商品も消える。市場向けの粗悪品にはいいところなどほとんどない。儲けだけを考えて立てられた櫓の柱のようなものだ。そんなものに、もう労働は費やされない。

 奴隷でなくなった人は、そんな品物を持とうとしない。粗悪品ではなく、消費者の本当の使用目的にかなったものを作りにかかるだろう。利潤制度が廃止されたわけだから、人々は、利潤を搾り取ろうとする内外の資本家に強制されたものではなく、自分の作りたいものを作りだす。

 分かっていただきたいのは、こういうことだ――すべての文明国には、最低でも、国民全体に十分ゆきわたる富がある。少なくとも、それを産みだす力がある。労働がこんなにも間違った分野に費やされている今日でも、富を公平に配分すれば、すべての者がかなり快適に暮らせるはずだ。だから、労働が適切な方向に向けられれば、私たちが生み出す富は今とは比べ物にならないことだろう。

 考えてもみよう。人類が出現してまだ間もないころは、日々、生きる糧を得るのに必死の奴隷のようなものだった。自然は強大で人間はひよわだったから、雨露をしのぐ場所を確保しその日の食糧を得るために、いつも闘いを挑まねばならなかった。

人間の生活は、この絶え間ない闘いのために縛られ制限されていた。人間のすべての道徳、法律、宗教は、実際のところ、生活の糧を得るための不断の労苦のなかから生まれたものであり、その反映である。時が経ち、しだいに人間は強くなっていった。

 こうして長い時代を経て、いまや人間はほぼ完全に自然を征服したかのようだ。それなら、もう、明日の夕食に何を調達するのかではなく、もっと高度なことに考えをめぐらせる余裕があってもよさそうなものではないか。それなのに、残念なことに人類の進歩はストップしている! 自然を乗り越え自由にコントロールできるようになったにもかかわらず、人間はいまだ、自分自身を乗り越えなければならないのだ。駆使できるはずの力をどう活用するか、と考えなければならないのだ。

 現在では人間は、まるで運命(さだめ)に追われてでもいるかのように、獲得した力を愚かに盲目的に使っているにすぎない。

 かつて野蛮人を支配していた悪夢――人間を絶え間ない食糧獲得に急き立ててきた亡霊――が、現在なおも文明人につきまとっているかのようだ。過ぎ去った日のおぼろげな記憶が作り出した非現実的でうすぼんやりした願望、それにつきまとわれながら夢うつつで働いている。

 だが、それから目を覚まして自分の本質に向き合うべきときが来たのだ。自然は完ぺきに征服された――そう言っているではないか? それなら、私たちが今やるべきことは、いや、これまで長きにわたってやるべきだったことは、自然の力を使いこなす人間の組織化ではないか。

 少なくとも、これに挑戦しないかぎり、私たちはあの恐ろしい飢餓の恐怖という亡霊から決して自由になれない。支配欲というもうひとつの悪とともに、この飢餓の恐怖こそが私たちをあらゆる種類の不正、残虐、卑劣さへと駆り立てるのだ。仲間の人間を恐れることに終止符を打ち、彼らへの信頼を学ぶこと、競争と縁を切り協力を築くこと、これこそ、私たちに必要なことだ。

  ■人間は余剰を生む力を持っている
   問題は、それを私的利害に使うかどうかだ
 さて、もう少し細部を見てみよう。おそらくご存知だと思うが、文明社会の人間は、いわば自分の生命以上の価値がある。人間は働かないわけにはいかないが、労働によって人間一人ひとりは(社会全体として論じれば)、まずまずの暮らしを営める以上のものを生産することができる。これは何世紀も前からそうだった。じっさい、部族どうしが戦さをしており、勝者が征服した部族を殺さず奴隷にし始めた時代からそうだった。

 余剰を生み出す能力は、もちろん加速度的に増えていった。今日では、たとえば織物でいえば、村の住民すべての何年分もの衣服を作れるほどの布を、一人が一週間で織れるまでになった。そして、文明社会でこれまで問われてきた一番の問題は、「労働によって生み出された余剰の生産物をどうすべきか」だった。

 人間は、例の亡霊――飢餓の恐怖と、その相方である支配欲――に駆られて、この問いにろくな答えを出してこなかった。なかでも最悪なのが、余分な物の生産スピードがこんなにも桁外れになった現代だろう。これまで取られてきた現実的対応は、いつでも、自分のものでもない余剰を手に入れるために仲間と争うというものだった。

 そして、自分に余剰分を奪う力があると見出した者たちは、ありとあらゆる手段を駆使して、被搾取者を支配し続けてきた。すでに示唆したように、搾取されている側は少数に分断されているかぎり、強奪に抵抗するチャンスなどなく、他の者も同じように抑圧されているという自覚もほとんど持てない。

 しかし、このように不当な分け前・過分の収入を得ようと必死になるがゆえに、人間は依存を強め、生産のためにもっと完ぺきに結びつこうとする。そして、労働者(つまり強奪され搾り取られている階級のことだが)の力は飛躍的に増大し、あとは、自分たちの持つ力を自覚しさえすればいいだけとなる。

 それを自覚したとき、彼らは、余剰の労働生産物――生き延び労働するために必要なもの以上の余分――について正しい答えを出せるようになるだろう。つまり、生産した物すべてを自分の手に収め、巻き上げられたりしないということだ。

 そして、生産が協働によることを忘れず、能力に応じて必要な仕事を効果的におこない、生産したなかから必要な物を手にする。だって、そうではないか、人は必要以上の物を使うことができない。そんな物を手にしても無駄になるだけだ。

 皆さんは、こういうやり方をあまりにも理想的過ぎると思うかもしれない。現在の状況から見て、そう思う可能性は十分ある。それに対しては、ただこう付け加えるしかない――労働を無駄に費やさないよう自らを組織すれば、人間は飢餓の恐怖や支配欲から解放されて、周りを見回す余裕や自由を得て、本当に何が必要かを見るようになる、と。

 さて、皆さんの希望と比べられるように、私が望んでいることがら・理想をこれから展開してみよう。その際、念頭に置いておいてほしいことがある。

 食住に関する共通の必要が満たされた場合も、それに収まらない各人の能力や希望の違いがあるが、これこそ、コミュニティ全体の多様な要望に沿った運営を容易にする原動力だということだ。

  ■私が未来社会に求めるのは
   第一に、健康な暮らしだ
 それでは、私が必要なものは何か。つまり、取りまく環境のなかから仲間とともにつくりだせるものは、何だろう。もちろん、先見の明でも見えないことや、仲間の協力があっても避けられない事故は未来社会でもあるだろうが、さしあたり、それは別にして考えてみよう。

 何よりもまず、私は健康で健やかであることを求める。文明社会の人々の大半は、健康という意味がほとんど分かっていないと思う。健康とは、ただ生きているだけで楽しいと感じられることだ。

 自分の四肢を動かして身体的力を発揮するのが嬉しく、いわば、太陽や風や雨と遊べることだ。そして、堕落を懸念したり罪悪感におちいったりせずに、動物である人間として当たり前の身体的欲望を晴れ晴れと満足させること。しかも、そのうえ、形よく、まっすぐな手足を持ち、均整がとれて骨格もよく、表情も豊かである――ひとことでいえば、美しいこと、これも私の望みだ。

 こうした望みが満たされなければ、結局のところ、私たちは哀れな生きものだ。以上の望みは、あの恐ろしい禁欲主義の教条に反対して主張するものだ。禁欲主義は、抑圧され貶められてきた者の絶望のなかから生まれ、この何世紀ものあいだ、抑圧と退化を継続させる道具として使われてきた。

 「私たちみんなに健やかな体を」という要求を基礎として、他のあらゆる望みが派生する。金持ちがかかる病気はそもそも何に原因があるかなどは知ったことではないが(おそらく先祖の贅沢な暮らしだろう)、ふつう、もっともよくある病気の種は、やはり貧困だ。高名な医者も、貧乏人がいつも患っている病はただ一つ、空腹だと言っている。

 また、私が間違いないと思うのは、たとえ短い時間であっても働きすぎは体に悪く、さっき述べたような健やかさは謳歌できないことだ。いつ終わるともしれない退屈で機械的な労働に長時間縛りつけられていれば、なおさらだ。

 ろくに住む家もなく、いつも生活の糧を得るためのさもしい不安を抱え、周りの自然を愛でる余裕などまったくなく、精神を高揚させるための時々の気晴らしとも無縁であれば、健康であるはずがない。

 これらはすべて、多かれ少なかれ身体に影響を及ぼす要因で、私は健康に暮らすために、これらの条件を満たすことを要求する。実際のところ、これらの条件が満たされた生活が何世代も積み重ねられないことには、私が望む本当に健康な人々は生まれないだろう。でも、その他の条件(詳しくは後述)にも恵まれて時が経てば、しだいに真に健康な人々――少なくとも動物が味わうような日々の喜びを楽しみ、幸せで、民族や人種に即した美を兼ね備えた人々――が生まれるに違いない。

 最後の点に関して付け加えよう。民族的多様性というものは、人々が暮らす状況に規定されて生じる。地球上には、気候や環境上で不利に思える荒地もあるが、そういうところでも、利益のためではなく生活のために働くようになれば、気候上の弱点など簡単に相殺されるだろう。少なくとも、民族の特殊性を全面的に発展できるようになるに違いない。

  ■次には、開かれた教育だ
 さて、次に求めたいのは教育である。皆さんは、いまイギリスの子供たちはすべて教育を受けているなどとは言ったりしないだろう。でも、私が求めるのは、そういうたぐいの教育ではない。もちろん、全児童の教育はそれなりの意義はあると喜んで認めるが、それでも結局のところ、それは階級的教育でしかない。

 私が求めるのは、開かれた教育だ。自分の理解力や好みに合わせて、世の中のどんな歴史的・科学的知識にでもアクセスできる機会があること。また、産業工芸であれ、絵画・彫刻・音楽・演技などの芸術であれ、世に存在する技能を学ぶ機会があること。社会のためになるような工芸は、(教われるものなら)一つ以上は教えてもらいたい。

 要求が少し高すぎると思うかもしれないが、個人が持つ特別な能力が社会に何かを与えられるなら、これは素晴らしいことであり、決して高すぎる望みではない。現在のように、抜きん出ているのは最強の者だけで、あとは全体としてさえない二流レベルに落ち込んでいる状態にならないですむなら、安いものだ。

 もちろん、この要求実現のためには、どんな金持ちでも私人としては準備できないような、豊かな公立図書館や学校などの公けの施設が必要だ。そういう設備なしには人間らしい生活は成り立たないのだから、道理をわきまえた社会なら必ず準備するに違いない。

  ■そして、たっぷりある余暇だ
 この教育の要求から、次に、たっぷりの余暇という要求が生まれる。この点についても、私は確信がある。利益のための奴隷制度を振り捨てれば、労働は無駄に消費されることなく組織される。だから、特定の個人に重荷がかかることはもはやない。一人ひとりがみんな、明らかに有益な仕事を当然のこととして分担する。

 現在では、人間が発明した素晴らしい機械は、利益を生む生産物を増加させるためだけに使われている。略奪した利益を私的に増やそうとするために使われている。その一部は、増殖させるための資本として投資され、それにはまた同じく無駄な労働がついてまわる。さらに別の部分は、個人の贅沢な生活のために消費されるが、これもまったくの浪費だ。労働を搾り取り、自分たちが消費できる量以上に生産させた物を、焚火にして燃やして喜んでいるようなものだ。

 だから、いくらいろんな発明があっても、現体制の下では、いわゆる省力機械によって労働時間が一時間でも少なくなったという労働者は一人もいない。だが、幸せな社会状況を作り出せば、そういう機械はきちんと労働を短縮するために使われる。そして、無意味な贅沢という無駄をなくし、商業戦争を廃止することによって得られた余暇に加えて、社会はさらに膨大な余暇を得るだろう。

 こうして生まれた余暇を、どう使うか。それで誰かを迷惑をかけたりするはずもないのだから、私は直接コミュニティに貢献するという形で余暇を返していくだろう。手や頭脳を使った芸術の実践あるいは職業を通して、多くの市民を喜ばせるだろう。

 最良の仕事の多くは、生計に関する不安から解き放たれた人間が切実に自分の才能を発揮したいと思って取り組む、こういう余暇の中から生まれる。これはすべての人間に言えることだ。いや、人間だけではない。動物だってそうではないか。

 こうして、余暇があれば自分を楽しむことができるし、その気があれば旅をして視野を広げることもできる。たとえば、私が靴屋だとしよう。適切な社会システムが打ち建てられれば、何もいつも同じ場所で靴を作らなければいけないことはない。簡単に手配できる必要なアレンジを整えて、たとえば、三か月ローマに滞在して靴を作り、過去の作品などもいろいろ見聞して、新しい発想を練り上げてロンドンに帰ってきて働くこともできる。              (続く)


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