抄訳:モリスの手紙
Letters by William Morris
出典:The Collected Letters of William Morris Edited by Norman Kelvin
翻訳:城下真知子(
読みやすいように適宜改行しています

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 1889年 


 
 [
訳者から]

 1889年もモリスは全国を駆け回って講演活動を続けた。モリスの社会主義者同盟内部では、勢力を伸ばすアナーキストと、将来をめぐってし烈な論戦を繰り返している。その一方で、モリス商会の仕事も指揮し、気を紛らわせるために『the Roots of the Mountain』などの物語を執筆。また、アメリカ人作家ベラミーの機械的な「ユートピア論」を読んで反発を感じ、名作『ユートピアだより』の構想を描き始める。

 このように八面六臂の活動のなかでも、モリスは病気の長女を気づかい、病気に倒れた長年の同志に胸を痛めて心の友ジョージアナに繊細な手紙を送っている。まずは、そうした手紙を紹介しよう。

 なお、〈〉内は城下の注釈。

  ■1889年1月16日 長女ジェニーへの手紙 

                               ハマースミス、ケルムスコット・ハウスにて
私のジェニー

 約束した手紙をやっと書いている。誕生日祝いの手紙になってしまったね。ジェニー、お誕生日おめでとう。幸せなことがたくさんあるように心から祈っているよ。そして、来年は誕生日の祝いの手紙を送らなくてもいいようにね!(注1

 お前に小包を送ったよ。ちょっとかさ高くなってしまったが、キーツの詩集4巻だ。かなり重いと思うから(気が重くなるという意味ではないよ、トランクに入れるには重いだろう)、帰って来るときにどうしようと考えるのが嫌だったら、もう十分読んだと思ったら送り返してくれればいい。そうしたら、お前の部屋の本棚にちゃんと置いておくからね。それから、もしその本が気に入らなかったら教えておくれ。別のを送るよ。キーツが嫌いだったらという意味ではない、お前がキーツを好きなのはよく分かっている。でも、その版が気に入らなかったら言っておくれ。ともかく、誕生日には何か気に入るプレゼントを受け取ってほしいのだ。私も、誕生日にそういうものをもらうとうれしかったからね。

 さて、ニュースだけれど、今のところあまり目新しいことはない。昨日はマートンで地区議員の投票に行ったよ。(中略)

 今晩はクロポトキン(注2)がここに講演に来る。いっしょに夕食を取って、講演のあとは泊まってもらうことになっている。最初は、赤ん坊の調子が悪いので泊まれないと言っていたのだ。いいお父さんで、一人娘を熱愛している。

 昨夜は、ちょっとした夕食会だったよ。来たのはド・モーガン(William DeMorgan、注3)、クロム(Cormell Price、注4)、ウォーカー(Emery Walker、注5)たちだ。クロムは、かわいそうにもうここを出てまたデボンに帰っていった。土曜日もここに滞在したがね。あんなに働いているが、ここ20年間、クロムはほとんど変わっていない。

 タペストリー製作は上々だ。ちょうど、星を持っている天使を織り始めたところだよ。天使の服は、白と金色でいろんな柄を入れる。

 昨日は、(書いたように)マートンにいた。曇って寒い日だった。でも、春の気配が漂い始めたよ。

 さあ、ジェニー、もうペンを置かなくては。今日は同盟機関誌の発行日なんだ。そういえば、お前の7シリング6ペンス、確かに受け取った。ありがとう。お前からだということで払い込んでおくよ。(注6

 それじゃね、大事なジェニー。元気で。

                        いつもお前を思っている父
                        ウィリアム・モリス

注1:ジェニーは病気療養のため、まだ介護施設にいる。

注2:ロシア貴族出身のアナーキスト。帝政ロシアから亡命し、ロンドンを拠点にして活動中。2年前にロンドンで娘が生まれた。モリスは馬小屋を改造した会議室で、著名人を招いて定期的にハマースミス支部の講演会を開いている。

注3:陶芸家。モリスとともにアーツ&クラフツ運動を進めた。

注4:古くからのモリスの友人。United Services Collegeの学長。『ジャングルブック』を書いたキップリングはこの寄宿舎の経験を小説にしている。

注5:印刷家、写真家。モリスのアーツ&クラフツ運動の同志で、ハマースミスに住む。

注6:ジェニーは社会主義者同盟機関誌の出版基金の保証人となっている。



■1889年2月8日 長女ジェニーへの手紙 

                               ハマースミス、ケルムスコット・ハウスにて
私の大切なジェニー

 お前の大事な手紙を受け取ったよ、ジェニー。家に帰りたいという気持ちはとてもよく分かる。それに、そこにそんなに長いこといる必要があるとは、今のところ思っていないからね。でも、ともかく、どんな調子になるか、今月末まで様子を見てみようね。

 明日(土曜日)は夜行列車でグラスゴーに行って、日曜の夜は同盟のグラスゴー支部で講演する。月曜日には芸術を学んでいる者を相手にゴシック建築について講演する。たぶん、彼らには新しいテーマだろうから、きっとかなり驚くだろう。火曜日にはアートスクールでアーツ&クラフツについて講演するし、水曜日にはエディンバラに行って、エディンバラ支部での講演だ。木曜日にはマックルズフィールドまで戻ってアートスクールで(アーツ&クラフツの)講演をする。金曜日には帰宅するが、もううんざりだとなっていることだろうよ。   (以下略


■1889年4月22日 ジョージアナ・バーンジョーンズへの手紙 

                                   ケルムスコットにて

 しばらく会っていないので、今日はどうでもいいことを君にぶつけたくなった。木曜日にここに着いたばかりだが、なんだかずいぶん長い間居るような気がする。退屈したというわけではない。物語を抱えているから(注1)することはたくさんある。ほかにもするべきなのにやっていない仕事もあるがね。

 季節はロンドンより6週間ほど遅れている。去年も遅れていたが、それよりずっと遅いよ。栗の木は別として、どの大木もリンゴの木も、まだ春の息吹はみじんもない。庭はとてもきれいが、プリムローズ以外はほとんどなんの花も咲いていない。でも、地面から顔を出したばかりの芽や蕾など、きっときれいな花を咲かせるにちがいないと思えて、それだけですべての埋め合わせになる。ここで一番美しい花の一つ、野生のチューリップの蕾は、ほんとうに今にも開きそうだ。

 今朝、ジェニーと私はバスコットの森まで出かけた。川の流れるケルムスコットの野原とはまったく違う景色で、まるで異国に来たようだった。私は森は深いのが好きなのだが、バスコットはほとんどただの雑木林のようなものだ。とはいえ、樹々のあいだからのぞく青空には心が弾んだ。

 天候は、季節の訪れがずっと遅いことを考慮に入れれば、そんなには悪くない。今日などは、まったく気まぐれな3月の天気そのものだった。小雨が降ったかと思うと、霰が舞って風がうなり、一転して静かになったと思ったら雷が鳴って、最後はシーンと凍りつく夕空になった。鳥たちは愉快だ。特にムクドリがいい。たくさん群れている。ところが、どこかの大馬鹿者がミヤマガラスをいじめたものだから、かわいそうにミヤマガラスは巣を6つしか作れなかった。だから、今年は鳴き声のボリュームが足らない。

 一つ、悲しいことがあった。春にはよくあることなんだが。イートン・ヘイスティングの村に美しい柳の木が数本ある。私たちがここに来てから丸々17年間というもの、一度も刈られたことなどないのだ。ところが、馬鹿な司祭がその木を切り倒して見るも哀れな切り株にしてしまった。その馬鹿者の足をちょん切って、柳の木で作った義足に代えてやりたいくらいだよ。材木としての価値はおよそ7シリング6ペンスだったそうだ。

 ケイトが大変だってこと、とてもとても悲しい。そのことを考えると、少なからず不安な気持ちになる。水曜日に訪ねたのだが彼女には会えなかった。かわいそうなチャーリーに付き添って夜通し看病して体調を崩していたからね。チャーリー(注2)のことは、本当に胸がつぶれそうで、いいか悪いかはともかく、あまり考えないようにしている。さもないと、自分が崩れてしまいそうなのだ。私の人生でやるべきささやかなことまで出来なくなりそうでね。

注1:モリスは、ファンタジー『the Roots of the Mountains』を執筆中。

注2:古くからの友人で同志の数学者Charles Joseph Faulkner(1833〜1892)は、前年に脳卒中を起こし、妹のケイトが献身的に看病していた。モリスとフィリップ・ウェブも常に見舞いを欠かさなかったという。



■1889年5月13日 ジョン・ブルース・グレーシャーへの手紙の一部 

                                     ハマースミスにて
親愛なるグレーシャー

(前半省略)

 君は『Looking Backward(仮題:振り返ってみれば)』(注1)を見たか読んだかしただろうね。まあ、少なくとも読もうとはしただろう。私は土曜日にあの本について講演するはめになってしまったので(注2)、読まざるをえなかったが、ベラミーの想像するような低俗な「楽園」なんか、とても住みたいと思わない。まっぴらごめんだね。


<注1>:アメリカ人ジャーナリスト、エドワード・ベラミー(1850〜1898)が1888年に発表した著作。ベラミーの未来社会では、すべてが機械化され、誰もほとんど労働することなく気楽に暮らしているという。

<注2>:ハマースミス支部の講演会

 
 [訳者から]

 ベラミーの機械化されたユートピアは、モリスにとっては耐えられなかった。モリスは、労働こそが人間の創造力の発揮であり、労働は同時に芸術であると主張し、労働の量ではなく質を問題にした。ベラミーのような、“労働は過酷なものだからそれを機械にさせることで労働を減らして平等を実現する”という主張には、不平等な現状の根拠の考察がないと考えたのだ。一部の人間が働かずに贅沢を甘受し、他方で大多数の人間が無味乾燥な労働にあえいでいる社会のシステム自体を転換し、本質的な意味での労働=芸術をすべての人間が楽しめる社会をつくる――これがモリスの理想だった。

 グレーシャーへの手紙にもベラミーの著作への嫌悪感がよく現れている。この嫌悪感が、モリスが『ユートピアだより』を書く直接のきっかけになったと言われている。

■1889年8月31日 ジョージアナ・バーンジョーンズへの手紙の一部 

 まっすぐ同盟本部に行ってみると、皆が港湾労働者のストライキ(注1)で興奮して大騒ぎしていた。田舎にいると、そんなに大きなことになっているとはまったく分からなかった。ケルムスコットでは、ニュースは2日遅れなものだからね。

 もっとも、少し大げさなんじゃないかという気はした。なかには、まるでついに革命が始まったかのように考えている者もいるありさまだったから。確かに港湾ストは大規模ストの一環で始まったが、今では大規模ストも終結し、その後も続いているのはこれだけだ。もちろん、このストを過小評価しようとは思わない。重大な意義を持っているのは確かだ。とくに、労働者たちの心意気は見上げたものだ。

 だが、残念ながら彼らは敗北するだろう(注2)。おそらく、昨日の宣言は彼らの役には立たないだろう。そうは言っても、雇用主側があくまで要求を飲まないなら、ああいう一歩を取らざるを得ないが。

 毎日の新聞論調とは反対に、このストライキには社会主義的な要素がある。その点がとてもうれしいね。そもそもストライキの本当の意義は、それの結果労働者が獲得する団結にあるのだからね。勝つか負けるかは大した問題ではない。もともと、彼らの要求は本当にささやかなのだし。

 昨日の宣言を見て、資本家サイドのメディアが労働者攻撃に回るのは当然のことだ。だが、港湾労働者が宣言で「ゼネスト」をほのめかしてからは(じっさい、ほのめかした以上ではない)、右往左往する港湾当局への反感だけにとどまらず、もっと広範な感情のうねりが労働者に起こっている。他の過酷な職場全体で対決姿勢が広がっていると言われている。私もそう思う。

 わが同盟の仲間たちも、一生懸命だ。ハマースミス支部だけでも(先週の日曜と月曜で)20ポンド近くの募金を集めた。社会主義者が扱う額としては大金だ。


 水曜日にはヨーマスに出かけた(注3)。ペゴティー(注4)のことがおおいに偲ばれたよ。本当に愉快で懐かしいごたごたしたところだね。奇妙だが妙に惹かれる田舎町だ。砂丘はかなり低くヘザーやシダなどで覆われていた。だから、そこに寝転べば、周りにスコットランド高地の岩山がそびえて居るかのような気持ちになる。でも、じっさいは、数10センチ下にはなだらかな牧草地が何キロも続いている。草の合間に大きな帆が動いているので、牧草地を縫って川がゆっくり流れていることが分かる。聖ニコラス大教会は不様に修復されていた。外観が台無しだ。ジョン・セドンの手になる修復だと思う。ありがたいことに、内部には見るべきものがたくさんあった。クレアストリー(注5)はどこにもなく、とても広々とゆったりした空間で、みすぼらしい現代建築を見たあとでは救われる。


<注1>:港湾労働者が過酷な待遇や賃金に抗議して起こしたストライキ。詳細は下記の「訳者から」参照。

<注2>:モリスの悲観的予測に反して、この港湾ストは勝利した。詳細は下記の「訳者から」参照。

<注3>:SL同盟のヨーマス支部主催の集会で「独占」というタイトルの講演を行なった。

<注4>:ディケンズの自伝的小説『デイヴィッド・コパーフィールド』の登場人物で、主人公に献身的に仕える乳母。

<注5>:上部に高く突き出た採光用の高窓のある側壁
 
 [
訳者から]

1889年の港湾ストについて

 1880年代の港湾労働者の労働環境は悲惨なものだった。貨物船の荷揚げという過酷な作業を機械なしでおこなっているにもかかわらず、賃金は農業労働者の半分以下。しかも雇用スタイルは仕事の直前に「親方」が声をかけて募る方式(「コールオン」)のため、多くの労働者が不安定な日雇いだった。それでも、雇われた者はまだ幸運で、その日の仕事をもらえなかった者は食べていけない。労働者は互いに競い合わされた。固唾を飲む労働者のなかから親方が恣意的に人を選び、労働者は「まるで競りにかけられる家畜のような扱い」だと感じていた。

 1889年8月、ある貨物船の荷揚げ作業をめぐって実質的な賃金削減がおこなわれた。労働者たちは労働組合を結成し、待遇改善を求めて8月14日からストライキに入った。そのころに勃興しつつあった労働組合は特権のある熟練工のものだったので、体を使う労働者・未熟練工が労働組合を結成したのは画期的だった。港湾スト以外にも、前年にはマッチ工場の女性労働者(「マッチガール」)が危険な職場に警笛を鳴らして組合を結成し、安全を求めるストを展開している。

 ストに入った労働者と家族は飢えに苦しんだ。スト資金が底をつき、継続は困難に見えたが、オーストラリア港湾労働者からの支援などを受けてストは継続され、荷揚げ労働者以外にも広がり、8月27日には、労働者街であるイーストエンド地域全体で13万人規模のストとなった。

 9月初め、ついにロンドン市長が調停に乗り出し、労働者側の要求「1時間6ペンス」などが実現した。9月15日、ハイドパークでの大集会を経て、ストライキ労働者は翌日仕事に復帰した。

 モリスは、当時の労働組合運動にあまり大きな関心を払っていないように思える。当時の労働組合指導者はしばしば会社側に取り込まれて資本家の意向を代弁し、組合員を抑える役目を果たしていたこともあるだろう。また、低賃金や劣悪な労働条件が生まれる社会の仕組みを問題にせずに、条件面だけを改善しようとすることを問題視していたのだろう。

 理想を説いて精力的に全国を講演してまわり、1887年4月にはニューカッスルで炭鉱労働者のストを支援してその真摯さと情熱に触れたモリスだが、理想を実現するために労働者の運動に深く食い込むことはできなかった。運動を始めたころに、「私は聴衆の労働者の心をつかむように語れない」と自分へのいらだちを吐露していたが、その気持ちはその後どう変化したのだろうか。芸術家で中流階級出身でありながら、黎明期の革命運動に身を投じたモリスは、階級意識の強い19世紀イギリスで、様々な困難に直面したことだろう。


■1889年10月17日 妻ジェインへの手紙の一部 

                        ロンドン・ハマースミスにて

大事なジェイン

……悪いが、この手紙をバースデイカードとさせておくれ(注1)。よく眠れるようになったと聞いて、とてもうれしい。誕生日の19日がいい日になりますように。プレゼントを用意したが、火曜日に持っていって手渡すよ。もし気に入らなければ取り換えるからね。向かいにあるインド人の店「プロクター」で買ったのだ。

 今朝は素晴らしいお天気だが、昨日は大雨だった。そんな日に、「テンプル」駅からここまで地下鉄ディストリクト線に乗らなきゃならなかったんだ。まったく。それくらいなら、ヨークへ往復した方がよっぽど良かった。(注2)

 うちで作ったチンツで、見本の本を製本してもらった(注3)。いいものが出来た。楽しかった。麻布に背表紙の金文字がよく映えている。(中略)また新しい物語(注4)を書き始めた。でも、急いで仕上げるつもりはない……今はもう、生きながらえるためには物話を書き続けなければ。
 いやはや、特別に手紙に書くことが何もないのがよく分かっただろう。だから、もう一度、いい日をお過ごし。子どもたちにもよろしく。夕食にはイワシを食べるつもりだ。自分で買ってきた。(キロ当たり6ペンスだ)

<注1>:ジェインは娘たちとケルムスコット・マナーに滞在中

<注2>:ロンドンにはすでに地下鉄が開通していた。必要に迫られてモリスも利用したが、狭くて閉鎖的な空間を嫌って、長距離を歩いたりもしている。『ユートピアだより』の冒頭にも、蒸し暑い地下鉄車両を厭う場面が描かれている。

<注3>:『The Roots of the Mountains』を仕上げて、刊行準備に入る。

<注4>:おそらく『The Glittering Plain』(邦訳は『輝く平原の物語』小野悦子訳、晶文社)

    [訳者から]

「今はもう、生きながらえるためには物話を書き続けなければ」というモリスの言葉は、意味深長である。モリスはどういう思いでジェインにそう吐露したのだろう。

 モリスが身を投じた革命運動は、分裂に次ぐ分裂で、モリスの理想通りには進まない。またプライベートでも、妻に迎えたジェインは、モリスが愛したようにはモリスを愛していなかったことがすぐに明らかになったが、だからと言って、かわいい娘2人の母として友人として守らないわけにはいかない。理想に近い女性がいたとしても、モリスの描くファンタジーのように愛を全うすることはできない。人生は苦しいことに満ちている。それでもやるべき社会変革をやりぬくために、自分の心の隙間を埋める何かが必要だ。晩年のモリスには、物語執筆と美しい本製作がそれだったのだろうか。



 社会主義を広めるためにイギリス各地に精力的に演説して回りながらも、モリスには少しずつ疲れがたまっていく。社会全般としては、平等や民主主義の考え方が広がっていくが、社会主義運動を進める団体間の対立は去らず、組織内ではアナーキストとの対立が続いて、機関誌は伸び悩み廃刊の危機にさらされている。
 そんななかで、近しい同志に吐いた弱音――「みんなは私がいつまでも若いと思っている」――や、機関誌継続の財政問題をめぐる手紙を、以下紹介する。


■1889年11月28日 同志ジェイムス・リー・ジョインズへの手紙 

                              ロンドン・ハマースミスにて

親愛なるジョインズ注1

 手紙ありがとう。私はひどい男だ。君が病気だということを聞いて悲しくてね。何カ月も前に手紙を書くつもりだったんだよ。でも、人間の持つどうしようもない我がままが出て(討論や講演でよく聞くあれだ)、結局書かなかった…。 言い訳のしようもない。ただ、自己形成もせず、そういう人間になってしまったと言うしかない。ロッティングディーンに行く機会があれば、必ず会いに行くとも。でも、しばらくは行けないのだけれど。


 私の新著『the Roots of the Mountains』は見たかい?『ペルメルガゼット』紙の批評家(頭を殴ってやりたいような奴だが)は、読むと眠くなりそうな小説だとあてこすった。だから、君がまだ調子が悪いなら、読むといい。眠くなって体にいいからね。(誰かは知らないが)その馬鹿者が自分のたわ言で人を眠らせられるようになるまでには、ずいぶん時間がかかることだろうよ。実は、もっと言ってやりたい言葉もあったんだが、それでは文章がだらだらするから差し控えるよ。

 ここのところ、あっちこっちと駆け回っている。自宅にじっとしていないといけない君には愉快に聞こえるかもしれないが、実は、私にはかなりきつい。みんなは私がいつまでも若いと思っていて、それらしい活動をするよう期待しているようだ。用心しないなら、そのうち私はみんなに背を向けてしまうぞ。


 運動は、奇妙な形で前進しているようだ。我々が望む具体的なことは、ほとんど打ち捨てられてしまった。それでいて広い意味では、事態は我々が望んだこともないようなスピードで進んでいる。


 そう遠くない時期になんとか会いたいものだ。それまでに、また君が元気になって活躍できるようになってほしいよ。幸運を祈っている。

                            心から君の
                            ウィリアム・モリス

(注1)ジョインズ(1853−1893)は、モリスの社会主義者同盟の同志。もともと有名な私立校イートンの教員だったが、社会主義を宣伝する講演旅行などをしたために辞職させられた。


■1889年12月28日 同志ジョン・カルーサーズへの手紙 

                             ロンドン・ハマースミスにて

親愛なるカルーサーズ(注1)

 手紙と同封の小切手、本当にありがとう。送ってくれた金については、以下の点を検討したうえで、どう使うのがいいかを君が判断してくれると大変ありがたい。


 機関誌『コモンウィール』は、困難な状況にある。資金援助者の一人チャールズ・フォークナーは重病なので、これからは援助は無理だ(注2)。もう一人のフィリップ・ウェブも今までほどは出せない。私は今まで通り資金を出すが、増額するのは無理だ。


 販売数は減少しており、発行を月に1度に減らすか、それとも廃刊にするかを検討中だ。君の支援金を使わない限り、どちらかを選ばざるを得ないだろう。君の金を使って発行を継続し、春になれば少しは良くなるかどうか、3月25日の支払日まで様子を見るという手もある。その頃には、ファリングドン通りの事務所はあきらめて引き揚げ、たぶんハマースミスで機関誌を印刷することになるだろう。

 問題は、寛大にも送ってくれた資金を使ってそれを試してみる価値があると、君が考えるかどうかだ。残念ながら、わが同盟は全体としてうまくいっていないと言わざるを得ない。(中略)


 ハマースミス支部はあまり資金を必要としないが、もしよければ君の金のうち5ポンドを支部用に取っておいてもいい。こういう細かいことを書くのは、君の金を無駄に使ったと思ってほしくないからだ。君の資金を何か具体的なことに使いたいからでもある。でも、正直言うと、『コモンウィール』は今後長らく続けられるとは思えない。もし資金があったとしても、販売数が増えない限り、大金を使う値打ちがあるとも思わない。とはいえ、先に述べたような「実験」をやらずに諦めるのは残念だ。だから、許してもらえれば、(たとえば)40ポンドを機関誌資金にそして(それが妥当だと思えば)ハマースミス支部基金に10ポンドに入れたいと思う。

 君の出発間際にこんなことで煩わせて申し訳ない。春にはぜひ健康を回復して帰ってきてくれたまえ。そのときには私たちの宣伝活動について、もっといい話を聞かせられるようにと祈るよ。

                            心から君の
                            ウィリアム・モリス


(注1)カルーサーズ(1836−1914)エジプト、アルゼンチンなど海外勤務経験の多い建設技師でエコノミスト。1884年にSDFハマースミス支部に加盟。以後、モリスとともに歩んだ。

(注2)1889年4月22日の手紙参照


■1890年1月10日 同志ジョン・カルーサーズへの手紙 

                            ロンドン・ハマースミスにて

親愛なるカルーサーズ

 今週の前半はロンドンを離れていたので、君への返事が遅くなった。もう、君が帰ってくるまで会えないのだね。君がいなくなると淋しくなるよ。でもそこで元気に過ごせて健康を取り戻すように祈るしかない。

 こちらで私たちがどういうふうにやっているか、君に手紙を書くよ。成功も、うまくいかないことも、包み隠さず書くからね。

 ときどき、正直、希望をなくすときがあるのだよ。でも、この活動を続けていく道と、それからこっそり逃げ出す道以外の中間の道があるとは思えない。後者のやり方では、幸せは得られないからね。だから、もし仮に『コモンウィール』と我が同盟の道が消えても、党のために何かやることを見つけるつもりだ。たぶん、見つけるのは難しくないと思う。というのも、人々の考えとは反対に、私は自分の個人的意見とでもいうものにこだわっているわけじゃないからね。すべての社会主義者のあいだの共通のきずなを見つけられたら、とてもうれしいのだから。


最後にもう一度、ありがとう。幸運を祈る。

                            心から君の
                            ウィリアム・モリス


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