抄訳:モリスの手紙
Letters by William Morris
出典:The Collected Letters of William Morris Edited by Norman Kelvin
翻訳:城下真知子(
読みやすいように改行しています

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 1883年 具体的活動を開始して

モリスは1883年1月に「民主連盟」に加入し、社会主義を広めるための運動を開始する。

  ■1883年3月14日、マンチェスター・イグザミナー紙編集長へ
  [訳者から]
 1883年3月6日、モリスはマンチェスターでArt, Wealth, Riches(『芸術、豊かさ、金権[注1]』)と題する講演をおこなった。芸術家で起業家として有名なモリスが社会主義者だと宣言して、上流階級や金持ちの一大ひんしゅくを買ってから、まだ日が浅い。この講演でモリスは、金持ちで権力を持った者に芸術が占有されてようとしていると警告し、物議をかもした。
 マンチェスター・イグザミナー紙は、この講演に対する読者の批判を掲載した。その投稿は、「モリスの講演は、『単なる芸術』の問題ではなく、別の問題を提起した」と述べて、芸術家モリスが芸術以外のこと――社会問題――に口を出すことをからかった。さらに、「競争原理のもとでこそ、芸術は栄える」とつけくわえられていたという。
 この手紙は、それに対するモリスの反論である。
拝啓

 そもそもわたしの講演の目的は単なる芸術上の問題ではなく、「別の問題」を問うことでした。民衆の芸術は社会的問題であり、芸術を問うことは社会の大多数の幸せや窮状を問うことだ――これこそ、わたしが特に指摘したかったことです。

 他のどの時代でもない、現代における民衆芸術の不在が問題なのです。この問題がわたしの心を騒がせ辛くてたまらなくなるのは、それが人々の決定的分裂を予感させるからです。競争主義の商業は、洗練された階級と、洗練とは無縁な階級を生み出し育ててきました。これでは、民衆の芸術は健やかには生きられません。いや、この恐ろしい貧富の亀裂を埋めようとしないかぎり、民衆の芸術はそもそも生存しえないでしょう。もちろん、この亀裂を埋めるものは様々あるでしょう。でも、芸術がそのひとつになれないなら、芸術など無くなってしまえばいい。すべての人が共有できないような芸術にいったい何の意味があるでしょう。とはいえ、将来に何が起ころうとも、芸術は死からよみがえるとわたしは思っていますが。

 そもそも、政治と商業の真の目的とはいったい何なのですか。すべての人が過重な不安から解放されて平和に生き、気持ちのよい労働、しかも人の役に立つものを生産する労働ができる社会、これを実現することではないでしょうか。

 無数の人の人生が讃えられることもなく労苦だけに費やされ、疲れを希望の力で癒すこともなく過ぎていく――そう考えるだけで、わたしは良心の呵責を覚えます。少しでも人間らしく生きようとしている誠実な者なら、きっとそうでしょう。でも、これが彼らの人生なのです。労働で社会に貢献しているにもかかわらず、その労働も結局は徒労にしかならない無数の人々。これが、過酷な競争条理の商業に指令されて動く人々の運命なのです。商業が強いる競争主義は単なる手段としてあるのではなく、それ自体が目的となって人々におおいかぶさっているのです。

 こういう事態こそ、わたしが良心を悩ませてきたことです。だからこそ、わたしは、マンチェスターでも各地でも、民衆の芸術について語らざるをえなかったのです。わたしの場合、仕事は自分自身の楽しみです。それ以上ではありませんが、でも不可欠なものです。何が起ころうと仕事を止めるつもりはありません。でも、なぜ、一般的にはそうではないのでしょう。なぜ、多くの人にとっては仕事は楽しみではないのか――わたしは何度も何度も自分に問いました。わたしの労働は特別なものではありません。ほとんどは単純な仕事です。とても気持ちのよい労働で、それなりの知性があって熱心に結果をめざせば誰にでも出来ることです。

 わたしの労働とは明らかに違う単調な苦役が存在し、そのような誉められることもなく報われることもない苦役をほとんどの人が強いられている――そう思うと、わたしは人間として恥ずかしくてたまりません。多数の人のそんな労働が、文明にとって必要であり良いことだとは、どうしても思えないのです。

[注1] 中橋一夫氏が訳した『民衆の芸術』(1953年初版発行)では、この論文は「藝術・財貨・富」と訳されている。だがわたしはwealthを豊かさ、 richesを金権と訳した。これは、モリスがこの論文の中で、wealthを「しかるべき生活を送るための手段」、richesを「他の人々に対する支配権を行使すること」という意味で使うと明言しているからである。

  ■1883年5月19日、ジェニー・モリスへ
 我が娘ジェニーへ[注1]

 (省略)

 火曜日と木曜日、作業場のあるマートン[注2]までローハンプトン・レーンを通って歩きとおしたよ。とても気持ちがよかった。地下鉄には、もう、うんざりだ。もっとマートンに歩いて行き帰りすることにしよう。二時間かかったけれど、あのうだるような列車で二時間無駄に過ごすよりずっとましだからね。

 火曜日は二輪馬車で帰ってきた。ローハンプトン・レーンを通っているときに、馬車の御者がそこにある修道院のことを話してくれたよ。ちょうど聖霊降臨祭の夜に通りかかったことがあるそうだ。そのとき庭で、尼僧たちがまるで天使のような声で歌っていたんだって。それを聞いて、父さんは馬車のなかで立ち上がってフェンス越しに覗いてみた。そしたら何を見たと思う?尼僧たちが楽しくボートで池に乗り出すところだったんだ。お前も知っているだろう。あの敷地は素晴らしいからね。きっと、すごく金持ちの修道院にちがいない。

 月曜日に民主連盟の会合に行ったけれど、気がつくと、執行部に参加させられていたよ[注3]。また仕事を増やしてしまった。でも、入ったからには、その組織がどういうことをしようとしているかは知りたいからね。彼らがやっていることにあまり楽観はしていないけれど、社会主義のために何かをやろうとしているのは間違いないようだ。

 社会主義と言えば、ちょうど今「アンダーグラウンド・ロシア」[注4]を読んでいるところだ。虚無主義者のひとりが書いたものだよ。そうだ、誰かに言って、お前に一冊送ってもらうように手配しよう。とても興味深い本だよ。恐ろしい話でもあるけれどね。まちがいなく真実を書いていると思う。こういう本が、イギリス人の眼を少しでも開けるのに役に立ってくれるといいのだが。(中略)

 マートンは今とても美しい。サンザシの花がちょうど顔を出した。でも、ライラックはまだほとんど咲いていないね。見たこともない可愛い花をつける木があった。ポルトガル月桂樹のような白い花だ。エドガーは「ドッグウッド」だと言うのだが、ジェラード図鑑にも載っていない。(モリスののイラスト入り)。

 それからね、ジェニー、めんどりにアヒルの卵を抱かせたんだよ。まずは三羽生まれた。それから一羽が消えて、さらにもう一羽。でも昨日、残された哀れな一羽がシャキッとしているのを見たよ。

 聖霊降臨祭だけれど、壁紙の印刷は順調だ。
 心からの愛を送るよ。そして母さんにもメイにもね。
                                      いつもお前を愛している父
                                      ウィリアム・モリス

[注1] モリスの長女、当時22歳。15歳のときてんかんの発作を患い、それ以後は病気がちで、モリスはいつもそれを気にかけていた。

[注2] モリスのデザイン会社の作業所。1881年建設。ここで、ステンドグラスからタペストリー作りなどがおこなわれた。ロンドンから南東のサリー州にあり、ロンドン北部ハマースミスのケルムスコットハウスからは、地下鉄などを乗り継いでも2時間ほどかかったという。モリスは、狭く暑苦しいロンドン地下鉄を嫌っていた。その様子は『ユートピアだより』の冒頭のシーンにも出てくる。

[注3] モリスは財政部長となった。民主連盟は翌年8月に社会民主連盟と改称し、社会主義組織としての性格をより鮮明にする。

[注4] 前年の1882年に出版された。セルゲイ・ステプニャクが帝政ロシアのツアーの弾圧のもとでの活動を描いたもの。セルゲイはのちにロンドンに亡命する。

  ■1883年9月3日、ジョージアナ・バーンジョーンズへ

 「民主連盟」のことで心配させて済まないが、心配はいらないのだよ。両目をちゃんと開けて踏み出したのだから。よくないことが起こるかもしれないと覚悟もしている。じっさいには起こりそうもないことまでね。ハインドマンも他の指導者も彼らなりに真剣だ。意見が食い違うことがあっても、わたしは彼らの真摯さを疑っているわけでは決してない。

 あたりまえのことだが、こうして活動を始めてみると、社会主義について細部にわたって理解して説明するのは簡単じゃないと今更ながら気がついた。論争に負けることもけっこうある。それでも自分の考えが正しいと思っているがね。まあ、ちゃんと説得できるように勉強しないといけないということだね。

 君は教育についてジレンマを語っていたが[注1]、問題を真剣に考えている人なら誰でも君のように感じるだろう。でも、現在の教育を受けることが解決になるだろうか。君の知っている教養人を思い浮かべてごらん。教育を受けた人の多くはどうなっている? 教育を受けていても、社会のなかで恐ろしく自己中心に振る舞ったり暴君だったりするだろう。教育でそういう人を治すことはできないのだ。教育に社会主義的な平等の視点を組み込めば別だろうが。

 とはいえ、いわゆる下層階級(まったく嫌な表現だ)がより良い生活を要求したくなるように気持ちを揺さぶる、その意味の教育は必要だと思う。はっきり結果が出ようが出まいが、やるべきことだ。より良い生活を要求するのは彼らのためだけではないし、物質的満足それ自体のためでもない。むしろ、世界全体の幸せと人間の良心の再生のために必要なのだ。こういう気持ちを呼び起こすことこそ教育の大事な要素で、社会変革以前にやらなければならないことだ。ただ、繰り返しになるが、変革が必要だということを人々に示さないかぎり、現代教育は暴君や臆病者を生み出すだけだと思う。大物、小物をとりまぜて次々と生み出すね。一番情けない小物は、自分の手を汚さず他人を働かせて金を搾り取る奴らだ。

 ひとつだけ分かっておいてほしいことがある。わたしはこの問題で行動し組織に参加せずにはいられないのだよ。それに、君の優しい心根を少しでも安心させるかもしれないから言うのだが、運動のただなかにいる者・何かを成し遂げたいと思っている者は、傍観者のように周辺をうろついて望みの実現を先延ばしすることなどしたくないのだ。

[注1] ジョージアナがどういう問題を指しているのかは分からないが、当時の良心的なインテリ層が言っていたジレンマは以下ののようなことではないか:
 もっとも教育を受けるべきなのは、無教育なために貧しい暮らしを強いられている労働者階級の家族だ。だが、当時は教育を受けるには現在と比較にならないくらい莫大な費用がかかった。暮らしに追われる彼らには子供たちに教育を与える時間も費用もなかった。そのため、労働者階級の子供たちは貧困のサイクルから抜け出せない。

  ■1883年11月17日、ペルメルガゼット紙編集長へ

 わたしの講演を聞いた「聴衆の一人」からの質問が貴紙に掲載されていました。ここに、その答えを載せていただけないでしょうか。(中略)

 社会主義の経済的基礎については正式項目としては触れなかったかもしれませんが、少なくとも講演を通して根底に貫かれていたと信じています。もっとも、聴衆の皆さんにも明らかだったでしょうが、わたしは自分が政治経済に強いなどとは考えていません。

 わたしが個人的に強調したかったポイントですが、わたしは二十年間、民衆芸術の立場から競争偏重の商業と人生を賭けて闘ってきました。この闘いを通じて、わたしは中世や十七、十八世紀の工房での生産の仕方を知りました。そして、ついに、いま完成しつつある競争重視の商業主義は芸術にとっては命取りだと確信するにいたったのです。こうした文明への脅威を避けるためには、たんなる手直しでは駄目です。一階級が他の階級を支配し競争に追いたてる制度そのものを根本的に廃止する以外にはありません。

 アーティストであり労働者であり雇用者でもあるわたしは、中世の芸術が好きでたまらないという気持ちだけで仕事を始めました。そのわたしが、民衆芸術を追求してあらゆる階級の人々と接するなかで、社会主義運動実践の道へと駆りたてられていったわけなのです。わたしのこの経験が思慮深い人々にとって何らかの参考になるのではないか、この経験をお話しすることによって、心ある人々が進もうとしている道を促進することになるのではないか、とわたしは思います。これこそが、わたしが敢えて各地で講演をしている理由なのです。                                                                             敬 具

  ■1883年11月27日、ジョージアナ・バーンジョーンズへ

 今はまるで新聞の投げつぶての嵐の中にいるような生活をしているよ。いくつかには反論をしないとね。もちろん、まったく気にしていないし、攻撃されるのが不当だとも思っていない。

 ここマートンアビー[注1]の従業員たちは(わたしの民主連盟加盟宣言に)とても好意的なので、すごくうれしい。わたしが自分の気持ちをはっきり表明したから、以前にもまして関係が良くなると思う。そのうちの七人などは、民主連盟[注2]に加入すると言ってきかないくらいだ。そのためには、(わたしが入っているからというだけでなく)ちゃんと社会主義を理解しないといけないよとお説教したがね。


[注1] モリスのデザイン作業所

[注2] その後、じっさい1884年1月にはマートンアビー支部の結成が報告されている

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