抄訳:モリスの手紙
Letters by William Morris
出典:The Collected Letters of William Morris Edited by Norman Kelvin
翻訳:城下真知子(読みやすいように改行しています)
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1884年〜 運動のために全国を駆けはじめたモリス |
■1884年3月18日、ジェイン・モリスへ |
ハイゲートへのデモ行進
親愛なるジェイニ― 日曜日(3月16日)、なんとわたしが、まるで儀式を率いる牧師のような役割を演じたよ。行くのが嫌でたまらなかったが、行ってみるとそう嫌でもなかった。簡単に言うと、トットナムコートからハイゲート墓地までずうっと、ノロノロ歩いたのだ。カール・マルクス(前年3月14日死去)とパリコミューン(「1871年3月18日)を記念するデモ行進だ。上着のボタンホールに赤いリボンをつけて、いろんな旗がひるがえる後ろを歩いたよ。楽隊もいたが、マルクスやコミューンを讃えるには、ずいぶん下手な楽隊だった。 でも、この行進、それほど周囲から浮き上がってはいなかった。なんと言っても、かなりの人数が参加したからね。千名以上はいただろう。見物人も同じくらいいたのだよ。墓地に到着したときには、二、三千人以上にふくれあがっていたほどだ。 もちろんわれわれは墓地内に入るのを阻止された。重装備の警官がおおぜいでお出迎えしてくれたよ。しかたがないから、近くのさえない荒地に移動して、そこで歌を歌い演説をした。途中で、青二才どもが、へっぴり腰で妨害しようとして集会に彩りを添えてくれたが、みんなで抑えた。我が方の被害は帽子ひとつだった。終了後、われわれは意気揚々と現地を出発した。まるで女王の行列のように、警官たちに両脇を固められてね。 墓地でサンダーソン[注1]が合流したから、彼やハインドマンといっしょに家まで帰った。みなクタクタだった。ディックたちもいたから、みんなで食事をして討論もした。でも、それなりに和やかだったよ[注2]。 明日は、朝早くエディンバラに講演[注3]に出かける。金曜日には戻るよ。 仕事は順調だ。新しい版木職人が来たが、いい男のようだ。いま、チンツの端切れに「ワンドル」模様を刷り始めている。ベルベット織りもすぐ始める予定だ。きっと豪華なものになるだろう。 いまちょうど、床屋を待っているところだ。情けないほど髪が伸びたからね。だから、今日の便りはこれでおしまい。 |
[注1] コブデン―サンダーソン。アーティストで製本職人。フランス語版『資本論』をモリスのために製本した。
[注2] 「それなりに和やかだった」と、あえてジェインに書いているところが興味をひく。繊細なジェインは、食事どきの「熱心な」討論にうんざりして、いつもモリスに苦情を言っていたのかもしれない。あるいは、すでにこのころから、議会へのかかわりをめぐるハインドマンとの対立が顕在化しており、ジェインが「大激論」を心配するだろうから書き添えたのかもしれない。 [注3] モリスは3月19日、エディンバラ大学・社会主義者協会の聴衆に、『意義ある労働と無意味な労苦』を講演した。 |
ハイゲートへのデモ行進
親愛なるジェイニ― 日曜日(3月16日)、なんとわたしが、まるで儀式を率いる牧師のような役割を演じたよ。行くのが嫌でたまらなかったが、行ってみるとそう嫌でもなかった。簡単に言うと、トットナムコートからハイゲート墓地までずうっと、ノロノロ歩いたのだ。カール・マルクス(前年3月14日死去)とパリコミューン(「1871年3月18日)を記念するデモ行進だ。上着のボタンホールに赤いリボンをつけて、いろんな旗がひるがえる後ろを歩いたよ。楽隊もいたが、マルクスやコミューンを讃えるには、ずいぶん下手な楽隊だった。 でも、この行進、それほど周囲から浮き上がってはいなかった。なんと言っても、かなりの人数が参加したからね。千名以上はいただろう。見物人も同じくらいいたのだよ。墓地に到着したときには、二、三千人以上にふくれあがっていたほどだ。 もちろんわれわれは墓地内に入るのを阻止された。重装備の警官がおおぜいでお出迎えしてくれたよ。しかたがないから、近くのさえない荒地に移動して、そこで歌を歌い演説をした。途中で、青二才どもが、へっぴり腰で妨害しようとして集会に彩りを添えてくれたが、みんなで抑えた。我が方の被害は帽子ひとつだった。終了後、われわれは意気揚々と現地を出発した。まるで女王の行列のように、警官たちに両脇を固められてね。 墓地でサンダーソン[注1]が合流したから、彼やハインドマンといっしょに家まで帰った。みなクタクタだった。ディックたちもいたから、みんなで食事をして討論もした。でも、それなりに和やかだったよ[注2]。 明日は、朝早くエディンバラに講演[注3]に出かける。金曜日には戻るよ。 仕事は順調だ。新しい版木職人が来たが、いい男のようだ。いま、チンツの端切れに「ワンドル」模様を刷り始めている。ベルベット織りもすぐ始める予定だ。きっと豪華なものになるだろう。 いまちょうど、床屋を待っているところだ。情けないほど髪が伸びたからね。だから、今日の便りはこれでおしまい。 |
[注1] コブデン―サンダーソン。アーティストで製本職人。フランス語版『資本論』をモリスのために製本した。
[注2] 「それなりに和やかだった」と、あえてジェインに書いているところが興味をひく。繊細なジェインは、食事どきの「熱心な」討論にうんざりして、いつもモリスに苦情を言っていたのかもしれない。あるいは、すでにこのころから、議会へのかかわりをめぐるハインドマンとの対立が顕在化しており、ジェインが「大激論」を心配するだろうから書き添えたのかもしれない。 [注3] モリスは3月19日、エディンバラ大学・社会主義者協会の聴衆に、『意義ある労働と無意味な労苦』を講演した。 |
■1884年6月1日、ジョージアナ・ バーンジョーンズへ |
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心配しないでおくれ。わたしはいろいろ書かれるのだよ。見るのが嫌なら暖炉に投げ入れればいい。 (※)わたしは資本家ではない。資本家階級の腰巾着の一人(a hanger on)だね。専門家というのはすべてそうだ。 (※※)民主連盟のメンバーが酔っ払いだと言っているわけではないよ。たんなる比喩だ、念のため。 |
■1884年7月18日 アンドレアス・ショイへ |
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親愛なるショイ (ショイの不満――機関紙費をめぐるトラブル、自分の名だけ消されていたetc――の慰めを書いた後で) 正直言って、君たちのスコットランド組織の新名称[注1]はよくないと思う。その名ではこちらで分離派だと思われるからね。げっそりすることばかりと思うかもしれないが、ロンドンのわれわれも何も努力していないわけじゃないし、すべてを投げ捨てて一から出直せばいいと思っているわけじゃない。もちろん、(君もよく知っていることだが)私もほんものの組織が必要だと思っているよ。ただ、どうすればそれが生まれるのかは今は見えないのだ。 学生たちのしりごみについて言えば、原因は根本的にはあのいまいましい宗教の問題だと思う。私自身や運動上での私の位置については、出来るだけ率直に真面目に答えることにする。私が党のなかで(党になるとしてだが)何らかの影響力を持っているとするなら、それは私が本音で語る無欲な人間だからだ。じっさいそうありたいと思っている。そういう影響力なのだから、私が幹部を狙っていると思われたら間違いなく消え失せるようなしろものだ。だから、私としては、重要だと思える問題でも単なる戦術上の問題で党を脱退するつもりはない。(そうせざるを得ない状態に追い込まれたら別だが)。だが、たとえばフランス戦争などの原則的問題で対立せざるを得なくなり、間違った原則を掲げるグループが無理強いするなら彼らとは決別する。そういう場合は、もちろん真の原則を貫く者がたとえ二、三人でも、あるいは君だけであっても、いっしょに行動を取るよ。それでも、私は自分が指導者の器でないことはよく分かっている。少なくとも、まだ今のところはそうじゃない。 もちろん、どんな問題に対してもやるべきことはやるつもりだし、盲目的愛国主義には絶対に反対するけれど、自分の力量については冷静に判断しておかなければ、打ちのめされるだけだからね。私はまだ労働者階級のメンバーとの絆も十分築けていないし、書物も十分読めているわけではない。それに、そもそも性格的には無口だし書斎派だ。「政治」という名の策謀に頭を煩わせすぎたら、書き手として運動に貢献できなくなる。きっと君は、そんなことを言うのは弱さだと言うだろうね。確かに、そのとおりだ。でも、私はあるがままに見てもらいたい。間違って理解されてもしかたない。もっと先で重要な地位に押されることがあるかもしれない。そうだとしたら、そのときは、単なる怠け心や軟弱さで拒否したりはしないよ。でも、今私のやるべきことは、やはり、避けられないような人が指導者になるのを防ぐことだと思っている。 (中略) 君がエディンバラに行って組織を引き受けてくれて、ほんとうにうれしいよ。メイホンは頼りになるだろう。ロンドンの大会への出席の件だが、私自身は君に会えるならまことにうれしいが、どうすべきかは君自身が一番よく知っていることだ。もし来るなら、家に泊ってくれ。来られない場合は、小さくてもいいからエディンバラで会合を準備してくれないか。やる値打のある間にね。私が行く。会えば、こういう問題についても直接いろいろ話もできるだろう。(以下略) 友愛を込めて ウィリアムモリス [注1]:スコットランドでは、ハイランドや島々から労働者家族が追い立てられる「クリアランス」が歴史的問題だった。ショイは地元のジョン・メイホンらとともに、その問題を中心に掲げた「スコティッシュ土地・労働同盟(SLLL)」をつくろうとしていた。 |
■1884年12月24日、ジョージアナ・ バーンジョーンズへ |
夏を経て、モリスたちは新組織立ち上げに動き出す [訳者から] 大会は乗り切ったが、社会民主連盟内の対立は、路線をめぐってもハイドマンの独裁的手法をめぐっても限界に達していた。モリスたちは多数派だったが、組織内での非生産的な議論に疲れはじめていた。同年のクリスマスイブにモリスが書いた手紙を紹介する。手紙の冒頭は、自虐的ともいえる皮肉で始まっている。 |
今年はにぎやかなメリー・クリスマスになりそうだ。修羅場も演じられて盛り上がることだろうよ。夕べなど、まったく期待通りのべらぼうな夜だった。私の期待が当たるなんてめったにないことだが。最悪なのは、結論が土曜日まで延期されたことだ。真夜中まで議論して、もううんざりで、誰もそれ以上我慢できなかった。 まあ、堕落の標本のような夜だった。唯一の光は、ショイがハインドマンに対して気高く弁舌巧みに自分の人格を弁護したことだ。それ以外は陰鬱な中傷合戦にすぎなかった。哀れな宗教の典型のようにも思えたね。 ともかく、土曜日には決別する。事前に意志統一しているのだ。実は、提案したのは私だがね。社会民主連盟(SDF)の名前や、残骸にすぎない機関紙「ジャスティス」のために貴重な時間を一、二か月も費やして争うなんて、まったく意味がない。ハインドマンがSDFを自分の所有物だと思っているなら、所有させて好きなようにやってもらえばいい。SDFを基礎に政府を脅かすというのが彼の計略のすべてだが、本当にできるかどうか、やらせればいい。われわれはさっぱりと出直して、もっと地味で平凡な宣伝をまた始めるさ。機関紙も新しく作り直す。新生組織の一番の問題点と言えば、目下のところ、機関紙の編集長を私が引き受けざるを得ないということだ。そんなことなぞ望んでいないが、どうやら、他に誰もやりそうにない。 月曜日にチェスターフィールドに出かけて、カーペンター[注2]に会ってきた。彼はとても好意的で事態をよく分かってくれたよ。 7エーカーの土地でどう暮らしているかを説明してくれたが、とてもうらやましかった。その土地だけでほぼ食べていけるそうだ。自分たちで小麦を作り、チェスターフィールドとシェフィールドの市場に果物と花を売りに出している。生活の本当の楽しさは、生活上必要なあたりまえのことすべてを受け入れるところにある。興味津々で取り組めば、それは喜びに変わる。でも、現代文明は日常の生活をぞんざいに扱い、金銭づくで処理するか、だらしなく片づけるかにしてしまったから、避けられるものなら避けたい嫌なことになってしまったのだ。現在の情けない口論や、腐敗した社会を見ていると、上質の社会に逃げ場を求めたくなる。夢だがね。それは任務放棄で卑怯だと言われるかもしれない。仮にそうでないとしても、それを追求するには、私はもう年を取りすぎた。 [注2]:エドワード・カーペンター(1844−1929)イギリスの作家、社会運動家。こののち、モリスたちが結成した社会主義同盟にも参加。イングランド北部のダービーシャーに、自給自足のコミュニティをつくった。モリスより長生きしラスキンやモリスを思い起こせと呼びかけた。第一次大戦を目の当たりにして、「人類は大半の人々を貧困と飢餓に苦しめながら、貴重な時間とエネルギーを破壊と狂気の戦争に費やしている」と嘆いている。 |
■1884年12月28日 ジョージアナ・バーンジョーンズへ |
土曜日(注:12月27日)の夜に、(社会民主連盟の)最後を見たよ。6時に初めて、10時半に終わった。ことがらを詳細に述べても、君が興味を持つと思えないし、本当のところ、私自身うんざりで、すべてを書く気もしない。 ほとんど彼らの側が、大いにしゃべった。だって、ハインドマンが支持者を連れこんで、何で揉めているのかをまったく理解することもなく、次々としゃべらせたからね。最後にはHが出て来て、長くて頭のよい法律家の口調で、締めたよ。下院の議論と同じで、それはみな省略していいだろう。というのも、双方とも、最初からどちらに票を入れるかは決めていたからだ。したがって、その通りに投票し、予測通りの10対8――多数派の2票が我々側――という結果だった。それから私が立ち上がって、論争の過程でボロボロに引き裂かれていた、自分の名誉と誠実さなどを守るために一言二言しゃべってから、用意されていた辞任の声明を読み上げて、我々は厳かに退場した。 これは、三文文士がいうところの「感情の急変」を呼び起こしたらしく、向こう側のほとんどが私の周りに来て、私のことはよく思っていたとか、何も言ったような悪いことは思っていないとか、言うのだよ。かわいそうにウィリアムズなんかは涙を流して、心からの別れを告げたよ。もちろん、我々が辞任したのは正しかった。そうしなければ、次には総会があるから、我々の存在に気づいた世の中を面白がらせる論争が一カ月続くだろう。そうなると、我々はまずは膠着状態におかれ、結局のところ、今いるところ、つまり二つの別々の団体となる。 けさ、社会主義者同盟(Socialist League)のために、とてもつつましい場所を借りて、必要なだけのウィンザーチェアとキッチンテーブルの購入を許可した。というわけで、私は、本当にもう一度、すべての困難を目前にした若い熊のようになったわけだ。明日の夜、同盟を立ち上げるために会合する。 そういうことで、今のところは、これ以上そのことに何も言う力は残っていないよ。私の部屋にいて、冬の庭の景色を眺めている。庭では、男たちがグラウンドに漂白のためにインド更紗を広げていて、見ていて少し慰めになる。だが、新しい団体でできる限り働くことを、自分自身に誓うよ。しばらくの間は、小さな団体にしかすぎないと思うけれどね。 |