抄訳:モリスの手紙
Letters by William Morris
出典:The Collected Letters of William Morris Edited by Norman Kelvin
翻訳:城下真知子(読みやすいように改行しています)
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1887年 激動のなかで その2 |
[訳者から] 平等で公平な社会づくりをめざすモリスの活動は、1887年に入ってさらに激しくなっていく。このころの英国は、植民地アイルランドを抑圧する法律が相次いで作成され、それをめぐって世論が揺れていた。また、帝国の産業を支える炭鉱労働者の過酷な労働と生活状況も限界に達し、スコットランドやイングランド北部の炭鉱ではストライキが起こっていた。こうしたなかでモリスは、ほぼ連日の集会や講演会、機関誌の執筆・発行、翻訳と小説発行(14世紀の農民一揆に題材を取った『ジョン・ボールの夢』などがある)だけでなく、デザイン事業の管理も行なっていた。その激務のなかでも、モリスは家族にこまめに手紙を書き送っている。 とりわけ、持病を持つ長女ジェニーには、多忙のなかで細やかな手紙をしたためている。もう一人の娘・次女メイは身近におりいっしょに活動しているので、なおのこと、療養を必要とするジェニーが取り残された思いを持たないようにと心を砕いていたのだろう。そのおかげで、今日の私たちは、「冒険物語」だと照れて茶化しながら娘に活動を報告するモリスの手紙を目にすることができる。 ジェニーと、その母でモリスの妻ジェインは、1887年2月から保養のためイタリアに滞在した。そのもとへ送ったモリスの手紙を3通紹介しよう。そこから、劣悪な労働条件に抗議しストライキを続行しているニューカッスル地域の炭鉱労働者とモリスの交流が伝わってくる。モリスはさらりと書いているが、このとき、現地の労働者にモリスが与えた印象は強烈だったと思われる。じっさい、モリスの2著作『ユートピアだより』と『ジョン・ボールの夢』は彼らに愛され、その後の不況の中でニューサンバランドの炭鉱労働者の多くは家財を売ってしのいだが、ほとんど何もなくなった炭鉱住宅の部屋にもその2冊は誇らしげに飾られていたと言われている。 なお、〈〉内は城下の注釈。 |
■1887年4月14日付 長女ジェニーへの手紙 |
ハマースミスにて 私の大事な娘ジェニー スコットランドと北部から帰るのが予定していたより遅くなった。そうでなければ、もっと早くお前に手紙を書いていたところだったのだよ。火曜日に戻って来るとお前の手紙が待っていた。とてもうれしかった。さて、立派な社会主義伝道師の冒険は、そんなにワクワクするものではない(それで結構だが)。でも、たぶん、それなりに面白いだろう。 4月3日、日曜日の朝にグラスゴーに着いた。体を洗い朝食を取ってホッとした。同志ミュアヘッドが私に宿を提供するはずだったが、まだ用意が整っていなかったので、その晩はホテルに泊まらざるをえなかった。私の作戦行動は、まず、ジェイル広場(刑務所広場とは不吉な名だ)で、いつも行なう屋外集会を手伝うことから始まった。その広場は、グリーンと呼ばれるそれなりに広くて陰鬱な公園のすぐ前にある。集会は、ロンドンと同じようなものだ。でも、集会としてはいい方だった。そのあと、室内で支部の会合を持ったが、支部がしっかりしていることが分かったよ。それはそうと、壁にある巨大なポスターに大きな字で私の名が書かれているのを見て、ちょっと顔が赤くなった。その上には同盟のバッジも大きく描いてあった。 そして夕方には、講演会を行なった。本当に国会議員が現れて議長を務めたのだが、これはスコットランドではそれなりの勇気がいることだ。入場料が必要だったのに、千人近くが参加して盛会だった。講演は新しい内容だ。私の調子は良好で、聴衆も真剣に聞き要点を上手につかんでくれた。社会主義的な私たちの集会宣言も難なく採択された。 次の日は、ダンディー〈スコットランド東海岸〉に出向いた。天罰を信じないために教会を追放された牧師の要請だ。〈中略――モリスは現地の同志とともに、火曜日はエディンバラ、水曜日はグラスゴー、木曜日はハミルトン、金曜日はペーズリーと各地を回った〉 これで今回の仕事は終わるはずだった。でも、水曜日にロンドンの同志からの連絡で、ニューカッスルにいるメーホンをぜひ助けに行ってくれと頼まれた。メーホンは炭鉱労働者たちのあいだで活動を成功させており、祝日のイースター・マンディには一大集会を開催する予定とのことだ。それで、私はオーケーして、土曜も日曜もグラスゴーに泊まることにしたのだよ。土曜日にはコートブリッジに出かけて、屋外集会を開催した。(中略) 日曜の午後、私はグラスゴーのグリーンでの集会に集まったたくさんの聴衆にさよならを告げた。彼らは大変好意的だった。でも、悲しいことに、当然のことだが、とても貧しくやつれて見えた。 夕方にはニューカッスルに向かい、11時にメーホンとドナルドに会った。ハイドマン〈社会民主連盟SDF代表〉にも出くわしたよ。わが同盟とSDFは現地でいっしょに行動しているからね。 でも、もう便せんがほとんど無くなったし、郵便回収の時間だ。またそのうち便りを書いて、ノーサンバランド地方での冒険を教えてあげる。ニューカッスルの新聞を同封しておくから、少し様子が分かるだろう。メイは、お前たちのおばあさんに〈許婚の〉スパーリングを見せに行ったよ。私も来週は会いにいかなければ。 いいかい、ジェニー、母さんにはもう少ししたら手紙を書いて「必要なもの」も送るよ。よろしく伝えておくれ。私は元気だが、家に帰れて静かに落ち着けてうれしいよ。 私の大事な娘、心からの愛を送る。いつもお前を 愛する父 ウィリアム・モリス |
■1887年4月19日 長女ジェニーへの手紙 |
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■1887年4月23日 長女ジェニーへの手紙 |
ハマースミスにて 私の大事なジェニー さあ、またお前への手紙だよ。まず、この前最後に書いたところから始めよう。イースターの日曜日〈4月10日〉、夜11時ごろニューカッスルに着くと、メーホンとドナルドが待っていてくれた。そのあと、SDFのハインドマンにも出会ったが、どうも私に会ったのはあまりうれしくないようだった。SDFは現地でちょっと汚いやり方をしているからだ。ともかく、私は宿である禁酒者向けホテルに連れて行かれた。別に私が酔っ払いかねないと思われたわけではない。こういう宿の方が、他の三流ホテルよりも静かだし清潔だからだ。 次の朝早く、私たちは炭鉱に向けて出発し、いかにもみすぼらしい様子の田舎で列車を降りた。ああ、悲しいことに、炭鉱は休業しているから煙くはないのだが、とても荒れ果て陰鬱な風景なのだ! かつては森などがある美しい平地だったそうだ。でも、今やどう見えるかと言えば……まあ、大規模の「裏庭」〈注1〉のようなものだ。道はもちろん真っ黒だ。そのうちに、線路に突き当たる。その線路は歩道でもあって、いくつかある炭坑の一つに続いている。その道を行き、ある「村」まで行き着いた。セグヒルと呼ばれる村で鉱夫が住んでおり、メーホンの支持者が大勢いる。そこで、私たちは仲間の家を訪れた。 一家は彼と奥さんに娘で、みな、とてもいい人たちだった。わが友はとても気持ちの良い聡明な男で、地元ノーサンバランドの不思議な訛りでしゃべるので、まるで外国人と話しているような気がした。気の毒に、彼は事故で片目を失い、もう一方の目も傷ついた。家は清潔でこざっぱりした田舎家だ。じっさい、どの家もみなそうだった。ところで、家々の前を通ったときドアが開いていたので見えたのだが、ほとんどの家は、一番中心に大きな醜いベッドが鎮座していた。さて、ドナルドと私はその家で座りこんで話をしたが、メーホンは、人々が集会する予定の原っぱまで行進する手はずを整えに行った。 1時間ほどしてから私たちは鉄道の駅に行き、メーホンと私は別の部隊を集合させるためにブライズに向けて出発した。ブライズの駅に着くと、かなりの人数が私たちを待っていて、私たちについてマーケット広場まで来た。また、メーホンがその場所にトロッコを持ち込むよう手配させたので、私はその上に乗り、半時間かそこいら演説をして彼らを楽しませた。そのあと、また私たちは出発したが、音楽隊を雇うわけにはいかなかったから、音楽隊はいなかったし、後尾がばらばらのだらしない集団だった。マーケット広場にいた人の半数ほどがついて来たが、あちこちうろつきながら進んだ。ブライズは港町で、中心に入ると船のマストが見えたよ。私たちはとぼとぼと、わびしい村々(あぁ、本当にわびしいところなのだ)、果てしなく続く裏庭のような恐ろしい荒廃の中を進んで行ったが、左手には紺碧に輝く海が見えるのだ。美しく晴れた日だったからね。 やっと、ある村で大勢の人が集まっているのが見えた。音楽隊もいて横断幕もある。そこで、私たちはあるていど態勢が整った集団になり、急速に人も増えた。なおも進んで、6マイルほど行進してから、なだらかな丘の上に登っていった。会場の原っぱに着いたときには2000人ほどが私たちの後ろにいた。会場にはほかにも2隊がすでに来ており、そのほかにも、あちこちから男や女のグループが次々と原っぱに詰めかけていた。〈最終的な人数は9千人とも1万人とも報道されている〉 私たちが演説台にする荷車の周りは特に人々が密集していたが、とても礼儀正しく気持ちの良い群衆だった。でも、私たちがみな準備について、新聞記者たちもそこにいるのを見ると、人々は「すべてをきっちり書くと約束しないかぎり、その男たち(新聞記者)を追い出せ!」と囃し立てた。女性もたくさんいたが、とても興奮している人もいた。(年配の)一人は、不愉快な人物の名が挙げられるたびに、必ず「追い出せ!」と合唱していたよ。 荷車のそばにいる人はみんな、ほかの人たちに聞こえるように地面に座り込んだ。私たちは荷車の手すりの上に渡された少し危なげな板の上に立たなければならなかったが、私はそれには登らずにただ単に前に出ただけだった。そうすると何人かが脇から大声で「そこの男が上に登らねーと、おらたちには聞こえねーど」と叫んだ。だから私も登らざるをえなかった。でも、誰かが掲示板を後ろに持ってきてくれて、それに寄りかかったので、かなり楽だった。こんなに熱心で真剣な大勢の人々に話すのは、とても感動的だった。スピーチはかなりうまくできたよ。まったくつっかえなかった。 さて、その集会が終わると、その晩、また別の場所で演説する予定だったから、私たち三人はニューカッスル行きの列車に間に合うように飛んでいった。ぎりぎり列車に間に合って、6時にニューカッスルに着いたころには、私などはそれなりに空腹だったよ。だから、その大きな駅の中にある食堂に入った。そこで、食べ物を詰め込んでいると、誰に会ったと思う? ジョセフ・コーエン〈注2〉だ。とても友好的で感じが良かったね、実際のところ。20分の間に話せるだけ話したよ。 それから、ライトンウィローズに向けて出発した。タイン川沿いで今でも綺麗な所だ。リクレーション用の広場で、イースター休暇の月曜日だったから、たくさんの人がいて、ブランコやクリケットやダンスなどをしていた。真面目な社会主義者の集会場所にしては奇妙なところだなと思ったが、すぐに群衆が集まってきて、私はしゃべった。ちょっと長すぎたかもしれない。星が出るまでしゃべったからね。日が暮れてきたが、人々は静かにじっと聞いていた。そして終わると、社会主義者万歳と三唱してくれた。みんな、ものすごく親しみやすく気持ちの良い人たちだった。それで私たちはやっと戻って夕食を取りベッドについた。ほかの者は知らないが、私などは寝られてホッとしたね。 それでも、次の朝には元気になって体調も良かった。だから、ちゃんと起きて同盟の評議会の会合に間に合うようにロンドンに戻ったし、そこで、ハイドパークで炭鉱労働者を支援する集会を行なうと決めたのだよ。集会は明日〈4月24日〉行われる。 さあ、そういうところが、私の冒険物語だ。あまり大した冒険ではないが、私が何をしたかを聞くのを楽しみにしてくれると知っているからね。 クロム〈注3〉はロンドンに出てきていて、今でもまだいる。二度会ってきた。ひどい発作を起こして病床に就いていたが、今は良くなって元気そうだった。昨日はお前のおばあさんのところに出かけたけれど、二人のエマがいたよ。二人とも、いやはや、とても年を取った。おばあさんは元気だったが、ほんの少し耳が悪くなったようで、この前見た時よりも老けて見えた。 ここの晩春はとても綺麗だ。ミヤマガラスがたくさんいて、美しくさえずっている。でも、私は年を感じる。変な言い方だが、若い人たちといっしょにいる時より年を感じる。来週は楽をさせてもらって、二、三日ケルムスコットに行きたいと思っている。水曜日の朝に出発するが、たくさん伝票や整理することがあってね。 さて、まだ書いていないニュースもあるとは思うが、ジェニー、勘弁しておくれ。ちょうど時計が零時を告げたから、もう寝に行かなければ。 愛しているよ。母さんにもよろしく。 お前を愛する WM 〈注1〉英国の裏庭というと一般的には緑もなく、物置になって雑然としていることが多かった。 〈注2〉ジョセフ・コーエン(1831〜1900)ジャーナリストでニューカッスル選出の元国会議員。新聞 『ニューカッスル・クロニクル』の経営者兼編集者。 同紙はモリスの集会での演説を詳しく報じている。 〈注3〉コーメル・プライス(1835〜1910)オックスフォード大学以来の親しい友人。大学時代、 モリスはプライスやエドワード・バーンジョーンズらとともに同人誌を発行し、 文筆や絵画の道を模索した。 |