抄訳:モリスの手紙
Letters by William Morris
出典:The Collected Letters of William Morris Edited by Norman Kelvin
翻訳:城下真知子(
読みやすいように改行しています

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 1887年  激動のなかで その4 
          トラファルガー広場の集会ーー「血の日曜日」



 
 [
訳者から]

 1887年のロンドンには失業者があふれ、雇用を求める労働者が自然発生的にトラファルガー広場に集まっていた。10月ころからは、失業者の即時救援と公的事業の創造を求める集会が連日開かれるようになり、社会民主同盟(SDF)などは率先してこれを組織化し始めていた。この時代に「employment」という英語が、雇用の意味で使われるようになったというほどだ。
 ちょうどこの頃、アメリカ・シカゴのメーデーで爆弾を仕掛けたとの容疑(のちに権力者による謀略だったことが判明)で有罪とされたアナキストたちに死刑が執行された。イギリスでもこれは大きな話題になっていた。また、アイルランド自治も国会で大問題となっていた。
 こうした状況下での連日のトラファルガー広場集会だった。11月13日には、雇用獲得とあわせて、アイルランドのリーダーであるオブライエンの収監に反対して、かってない規模の集会が行われようとしていた。これに対し、ロンドンのウォレン警視総監は11月9日、集会禁止令を発行した。この処置には、集会に参加していた労働者だけではなく、リベラルなメディアも直ちに反応した。『ペルメルガゼット』紙は、「ロンドンにおける自由と法を擁護する同盟」の結成を呼びかけた。これに対して、モリスはすぐに賛同する手紙を書いた。

  ■1887年11月11日付 『ペルメルガゼット』紙編集長への手紙 

 昨日の貴紙の率直な記事に対して、言論の自由の価値を理解する人々、それが何を意味し、その抑圧は何を意味するのかが分かるすべての人が、当然にも貴紙に感謝しています。ロンドンで大規模の屋外集会を開催するにはトラファルガー広場が一番便利な場所であり、そこで行なう集会が世間に与える混乱も最小限だということは、誰でももちろんよく知っていることです。私が貴紙の記事に付け加えるとするなら、きわめてシンプルな疑問ぐらいでしょう。つまり、それ(トラファルガー広場が一番便利な場所だという事実)こそ、保守党政府がトラファルガー広場から政敵や現状に不満を持つすべての者を締め出すことに決めた理由ではないかということです。

〈参考〉
『ペルメルガゼット』紙・11月10日記事 要旨

「ただちに何がなされるべきか」
 首都の政治的歴史が危機にみまわれている。ロンドン警視庁の傲慢な権利侵犯に対して、ロンドン市民の法的自由を守るために直ちに何かをなさなければならない。
 ウィリアム・オブライエンの収監を糾弾して開かれる予定だった11月13日(日曜日)の集会は、禁止にもかかわらず予定どおり開催されるだろう。
 しかも、今や、集会は単にアイルランドのリーダーに同情しての抗議というだけのものではなくなった。より重大で厳粛な要求――遠い昔からロンドン市民が行使してきた集会する権利の擁護という意味を持ったのだ。
 それゆえ、本紙は「ロンドンにおける自由と法を擁護する同盟」の結成を呼びかける。(以下略)

 
 [
訳者から] 11月13日「血の日曜日」

 禁止令にもかかわらず、事態は沈静しなかった。11月13日には、予定通り、社会主義者、急進派、アイルランド独立派その他、多くの人々が、市内各地からのデモを連ねて広場に集結し始めていた。

  だが、いつもと異なって当日の広場周辺には、騎馬隊を含めた警察部隊が秘かに配置されていたのだ。モリスは社会主義者同盟(SL)のクラーケンウェル支部のデモ隊に参加し、バーナード・ショウ、アネット・ペザントら5000人近い仲間とともに広場に向かったが、400メートル手前のセントマーティン通りで警官隊に攻撃された。周到に武装し準備した警察部隊に対して、無防備のデモ隊はなすすべがなかった。こうして、各方面から広場に結集した多くの労働者市民は、到着直前に警官隊の襲撃を受け、あっという間に蹴散らされた。

 100人以上の負傷者が出て、リベラル派の議員でモリスの信奉者だったカニンガム・グラハムなどが逮捕された。(当日の死者は出なかったが、その時の怪我がもとで、翌年、少なくとも1名が死亡している)この日は、それ以来「血の日曜日」と呼ばれるようになった。この弾圧の様子は、モリスの「ユートピアだより」に取り入れられた。

 それでも事態は収まらず、1週間後の11月20日にも同趣旨の集会が行われた。このとき、騎馬隊から受けた負傷がもとで、裁判案件の清書をしていた事務労働者アルフレッド・リンネルという人物が死亡した。彼の死に抗議して12月18日に葬儀が行われ、多くの人が参加した。モリスは代表して弔辞を述べた。

 また、モリスは、遺族に弔慰金を募るために、その無名の労働者の死を悼んだ詩を書き、ウォルター・クレーンが表紙を書いてリーフレット「A Death Song」として発行した。収益金は遺族に手渡された。

■1887年12月21日 ジョン・グレージャーへの手紙より抜粋 

 先週の日曜日(12月18日)〈アルフレッド・リンネルの葬儀〉は、新聞でも見るだろうが、成功だった。正直なところ、大騒ぎになるのではと予期していたのだが、期待が外れてとてもうれしかった。だって、騒動になってもどうにもならないからね。
 じっさい、大成功だったよ。今まで見たこともないものすごい数の人々が集まった。数えきれない人数だった。集まった人々は同情に満ち、とても秩序正しかった。

■1887年11月18日 リンネルの葬儀でのモリスの弔辞 〈参考〉
                    12月24日の『コモンウィール』より 

 ここに、どんな政党にも属さぬ一人の男が横たわる。一、二週間前まではまったく無名で、おそらくわずかにしか知られていなかったであろう男が、集会参加者全員の兄弟が、ここに横たわる。これからもずっと、この男を兄弟として、友として覚えていようではないか。
 ここに眠る友は、容易ならない人生を生き、容易ならない死に見舞われた。社会が現在とは違ったかたちで形成されていたなら、その人生は、喜びに満ちており、美しいものだっただろうに。幸せな人生だっただろうに。
 この地球を美しく幸福な場所にすることこそ、その日の行動に参加した者の任務だった。彼らは、神聖極まりない闘いに挑んでいたのだ。支配者たちが、このロンドンというりっぱな町を単なる牢獄に作り上げるのを防ごうとしていた。
 きっと彼は、あの日いっしょに歩いた壮大なデモが痛切な教訓を与えたと考えずにはいられないことだろう。そして、敵はもっとも成功裏に行われたあの式典に喜んで汚点を付けかねないのだから、きっと、人々が秩序を持って無事に帰宅してくれるように願ったことだろう。
 さあ、明日からただちに取り組もう。二度とこんなことが起こらないようにするために。

■リンネルに捧げたリーフレット 〈参考〉 


『A Death Song』のリフレーンは
Not one, not one, nor thousands must they slay,
But one and all if they would dusk the day.

(仮訳)
一人たりとも、一人たりとも、まして何千人など、殺させてはならぬ
われわれすべてを越えて行け、白日を闇夜に暮れさせるつもりなら。

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