現状の下で、最善をめざすために           
――デザインとインテリアのいくつかの基本
   その2

by William Morris in 1879
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました) 2021/4/17

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習得のための職人ギルドと、バーミンガム芸術家協会のへの講演
  ■八重咲きと庭のカラースキームについて

 さて、郊外に漂うスモークのためにバラをほとんど育てられないロンドンっ子としては、バラのことを語り過ぎたかもしれない。しかし、バラについて述べてきたことは、その他の花にも言えることだ。それについて、もう少しこのことを言っておこう。
 八重咲きには用心するように。オールド・コロンバイン(オダマキ)は房になっている花弁がくっきりと見分けられるもので、そこがただボロボロになっている八重咲きは選ばないように。(もし手に入るなら)中心が黄色のエゾギクを選ぶように。その黄色は紫がかった茶色の茎や、さらに興味深い色合いの花びら――現代もてはやされている切り紙のように見える塊りではなく――ととてもよくマッチしている。一重のスノードロップの驚嘆の美をだまし取られないように。八重のスノードロップにはなんの利点もなく、多くを失うだけだ。
 それよりも失うものが多いのが八重のヒマワリだ。八重のヒマワリは粗野な色の冴えない植物だ。他方、一重のヒマワリは、昔からの庭の植物ではなかった花ではあるが、どこにでも育つからといって、これを軽く見るのはとんでもないことだ。その鋭く削られたような舌状花は、中央でゆかしいパターンを描くくすんだ色の筒状花で和らげられているし、筒状花は蜜が詰まっており蜂や蝶々に取り囲まれており、とても興味深く美しい花だ。

 それだけ、花を人工的に取り扱いすぎている。置き間違いについて、もう一言付け加えておこう。庭にシダを植えないように。岩の割れ目のコタニワタリ(シダの一種)や、滝のしぶきが届くところに育つ奇妙な植物。これらはあるべき場所にある。もっと言うと、森陰にあるイモトソウ(ワラビのようなシダ類)だ。晩秋に、枯れた茎が記憶に長く残る森の香りを醸し出し、春に、枯れ果てた荒れ地の中から渦巻きを伸ばし出す。だが、これらはまったく庭向けの植物ではなく、使うべきではない。もしそれを使おうとするなら、すべてのロマンス、庭のロマンスを取り去ることになる。

 同じことが珍しいだけの多くの植物に関しても言える。自然が美しくではなく、グロテスクであることを意図してつくりだしたもので、大体において熱帯地方のもので、急速に育って生い茂る。なかでも最も奇妙なものは、ジャングルや熱帯の荒れ地から来ているが、そういうところは、人間の本拠地ではなく、人間は侵略者であり敵だということに注目してほしい。植物園に行って眺め、そういう奇妙な場所について納得いくまで考えてみてほしい。だが、レンガのあいだにある煙まみれの一切れの土地のなかで凍死させてはいけない。そういう植物は決して庭の飾りにはならないのだから。

 庭のカラースキームについて。大量の花は極めて強烈な色彩であって、非常に注意して使わないと庭づくりを楽しむにはとても破壊的となる。全体としていえば、最善でもっとも安全なプランは、花々を混ぜ合わせることであり、色を大量に使うのはむしろ避けるべきだ。つまり、組み合わせることだ。だが、なかには(人間つまり草花栽培家の発明で)まったくもってひどい色で、決して使うべきではないものもある。たとえば、深紅のゼラニウム、黄色のキンチャクソウだ。それらは、じっさい、花でさえ徹底的に醜いことがありうるとしらせるために、いっしょにやたらと生えているのだろう。

 もうひとつ、あまりにもよく見られる現象がある。本筋から外れていると思わなければ、皆さんに注意を促すのも恥ずかしいほどだ。それは、専門的に「絨毯ガーデニング」と呼ばれるやり方だ。説明が必要だろうか。いや、言うまでもないだろう。絨毯のように一面を花で敷き詰めるなんて、一人でいるときでさえ考えるだけで恥ずかしくて顔が赤くなる。

 普通の鉄製の囲いがこんなにも普及しており、しかも庭のあらゆる美しさを壊している現代、最善を尽くすのは難しいが、とくに言っておくべきことがある。それは、庭で何か囲いをするのなら、生垣を使うように。あるいは、平らに敷いた石(コッツウォルズの一部でやっているように)か、材木か、編んだ枝かを使うように。つまり、鉄以外なら何でもいい。(原注:上手にデザインされた槌目鉄の格子垣や門が十分いい形で使われているのは知っている。だが、主にかなり大きな庭園の場合だ。だから、いつかはそのように使えるかもしれない。それでも、しばらくは無理だ)

 さて、庭についてまとめよう。大きくとも小さくとも、庭は秩序があり豊かな趣きを持つこと。外界からきちんと隔てられていること。絶対に自然の強情さや野性味を真似しようなどとはしないで、家近くでしか見られないという様相を呈していること。じっさい、家の一部のように見えることだ。そこから次のことが出てくる。どんな個人の楽しみの庭も大きすぎないこと。そして、公けの庭は区分けされていて、野原や林、あるいは歩道のあいだにたくさんある、花のスポットのように見えること。

 庭がもっとも望まれるのはどういうところかと考えるなら、それは庭について考える鍵となる。とても美しい田舎で、とくに山に恵まれているなら、庭無しでも十分やっていける。だが、平坦で味気ない田舎の場合に、私たちは庭を求めてやまない。それに、家とは、そういうところでこそ、よく建てられるものだ。他方、大都市では、市民が心身ともにまともで健康な暮らしを送ろうとおもうなら、個人のであれ公けのものであれ、庭は必須である。

 庭についてはそういうことだ。言ったように、庭は家の一部であるべきだ。しゃべりすぎていないといいのだが。

  ■窓、床、天井について

 さて、間に合わせの家の外観について、長いあいだ、醜すぎたと思う。しなければならないペンキ塗りは、できるだけシンプルにして、主に白か白っぽいものにすること。というのも、建物の形が醜いと、装飾の余地はないし、違う色で各パートを塗れば、その醜さを際立たせるからだ。だから、ロンドンの一部で流行っているような、家を血のような赤やチョコレート色に塗って白の縁取りをすることは勧めない。だが、窓枠や桟は必ず白に塗って、どこか侘しい窓というものを区切った方がいい。それ以外に言うべきことは一つだけだ。装飾家によってはとても好みのようだが、茶色がかった赤を使うのは絶対にやめた方がいいことだ。誰かがいい言葉を見つけるまでは、それをアブラムシ色と呼ぶことにするが、その色とはまったく無縁な方がいい。

 では、家の内部に入ろう。私たちが住む部屋だが、(居間、客間など)好きな名前で呼べばいい。そのサイズについてだが、現代の普通の家がそれなりに耐えられる大きさなら、それはとても幸運だといえるが、まあ、最善を祈ろう。バランスの取れた家の場合は、高さであれ長さであれ広さであれ、その一つが他より大きいこと、何らかの形で際立っているべきだ。真四角かほぼそう見えるようなら、天井は高くない方がいい。幅が狭くて長細いなら、高くても問題はないが、それでも低い方が趣きがあるだろう。他方、設計上、明確にそれなりの長方形なら、絶対にかなり高い天井がいいだろう。

 考えなければならない部屋の要素は、壁、天井、床、窓、ドア、暖炉、家具がある。そのうちで、壁が装飾家にとって一番重要であり、ほとんどかなりの分野に触れることになるので、まずは、他の分野から始めたい。アレンジについて言うなら、壁のためのパターンデザインについて私が提起することのほとんどは、多かれ少なかれ他のどの分野のパターンにも通用するということを理解しておいてほしい。

 では、まず窓について。残念ながらまた不満を言わねばならない。多くのまともな家、あるいはまともと思われている家で、窓は大きすぎて、光は容赦なくやみくもに差し込んでくる。だから住人は、シャッターやブラインドやカーテン、スクリーン、重厚な布張りなどの厄介なもので、光を遮らなければならなくなる。それに窓はほとんどたいてい低く作られすぎる。低いので、窓台がくるぶしの位置にきて、刺すような光が部屋中に満ちて、気持ちのよい色合いを壊してしまう。それに、窓は壁にできた大きな長方形の穴になっている。悪くするとバランスの悪い丸い上枠や区切られた上枠が付いていることもある。「立派な」家で普通よくおこなわれているのは、これらの開口部に大きな1枚の厚板ガラスを嵌めるか、真ん中を細い桟で区切ることだ。どうしてもこういう形で窓ガラスを嵌めるなら、窓に最悪の扱いをする、そういう処理をされた部屋は、耐えられるしろものではないと決めたことになる。人々がゴシック窓のはざま飾りや、カイロ・ハウスの格子模様をどんなに称賛しているかを見れば、先のような扱いをどう感じるかはわかるかもしれない。あのような美に代わる間に合わせは、窓はしっかりした桟のあいだに適度な大きさの窓ガラス(可能なら厚板ガラス)で埋めることだ。いずれにせよ、そうすれば、寒い日にも頭の上は屋根で覆われている、室内にいると感じられるだろう。

 床について。少し前までは、可能なら、部屋の埃にあふれた歪んだ部分を絨毯――上等なであれ、ひどい絨毯であれ、あるいは質にこだわらずに――で覆ってしまうのが、普遍的な習慣だった。いまや、芸術ではなく健康に関心を持つ他の人たち(芸術と健康が切り離せるとしてだが、そんなことはないはずだ)から、皆さんも聞いたに違いない。ドクター・リチャードソンのような先生から、この習慣がどんなに汚くて不健康かと聞いたと思う。だから、私もじっさい汚く不健康に見えると言うに留めよう。しかしうれしいことに、現在では、もうその習慣は運が尽きたと思えるくらい、破れてきている。インテリアの好みがあると装っている家ではすべて、絨毯はいまや部分敷きのラグとなっているからだ。大きい場合もあるが、いずれにせよ動かせて、部屋の隅の埃をためる道具ではない。それでも、私はこれよりさらに進んで、金持ちの人たちが絨毯をまったく部屋の必需品と考えないでいてほしい。少なくとも夏場だけでも、そうしてほしい。これには2つの利点がある。第1に、そうするとより良い(そして隙間風の少ない)床を敷かざるを得なくなる。現在の床は今日の建築の最悪の恥だ。第2に、絨毯を供給する必要が減るので、現実に敷く絨毯はより良いものとすることができる。現在の機械織りの何百ヤードもの間に合わせ品と同じ価格で、いくつかの本物の芸術品を持てる。ともかく、床そのものを見るのは大きな慰めだ。そして、その床は、きっと寄木細工かタイルや大理石のモザイク模様でとても装飾的になるだろう。とくに後者は、技術的観点からだけ見ればとても簡単な芸術であり、多くの材料があるので、もっと使われないともったいない。そのグレーの色合いと、東洋の絨毯作品の豊かではっきりした色合いとのコントラストは、とても美しいので、その2つをいっしょにすれば、それだけで他のほとんど何も加えなくても、部屋の装飾として満足いくものになる。

 寄木細工が使われる場合は、形がシンプルさなので、それに従って、木の色は(木に色を塗って?)変えないのが一番いい。いろんな木目などによって生まれる変化で十分だ。ほとんどの装飾家が原理として受け入れると思うが、パターンがとてもシンプルな幾何学的形で作られている場合は、コントラストの強い色を使うのは避けた方がいい。

 床に関してはそういうことだ。その連れともいえる天上に関しては、最善を尽くすという点では、正直言って私の痛い所である。もっともシンプルで自然な装飾方法は、適切に骨組みされた梁や接続部分の下側を見せるのがいい。なんなら、そこをパターンでペンキ塗りしてもいい。だが、私たちの今の間に合わせの家で、これがどの程度可能かは言う必要もないだろう。それから、エリザベス風やジャコビアン風の家の天井装飾に見られるように、漆喰を微妙なパターンに塗るという自然でかつ美的なやり方もある。それらは、たいてい豊かなデザインで熟練の腕で塗られており、決して、もったいぶってスムーズな仕上げにはなっていない。いや、むしろ、その細工は粗いと呼ばれることが多い。しかし、残念なことに、左官ほど低く見られる装飾芸術は他にない。もったいぶった部屋でよく見る鋳物作品は、ぞっとするような滑稽な装飾品だ。できるなら誰も見たくないようなしろものだ。それは単に、「この家は金持ちが立てた」と言いたいから存在している。素材自体がまったく駄目だし、じっさい、ほとんど気持ちの悪くなるような出来栄えだ。豊かなデザインで自由自在に塗られた古い家々の漆喰は、扱う職人の手を励ますような丈夫な粘土質の漆喰を、ゆっくり乾かして作られている。今日の天井に使われるような脆い漆喰では決して出来ない。現在の漆喰の長所は、滑らかさだけにあると考えられているからだ。現在の偽りの基準に従えば、良い漆喰であるためには、加熱プレスされた紙のように輝いているべきだとなる。だから、現在のところ、豊富な時間も費やさず骨折りもなされないので、そういう類いの天井の装飾は望むことができない。

 天井を壁のように紙で貼るということが言われるかもしれないが、それはうまくいくと思えない。たてまえとしては、漆喰を手塗する代わりに、表面にディステンパー(訳注:膠などで色粉を塗り合わせた絵の具)で色をプリントした紙を貼るだけだとなるが、決して忘れてはいけないのは、それは紙だということだ。そこら中を紙で貼った部屋なんて、まるで箱の中に暮らしているようなものだ。そのうえ、趣きのない素材に安っぽい繰り返しパターンを付けたもので、部屋中を覆うなどというのは、立ち向かっている困難の脱出法としては貧弱で、すぐに飽きてしまうやり方だ。

 そうすると、残るやり方としては、そうする余裕があるなら、できるだけ注意深くかつ洗練された形で天井にペンキを塗るしかない。もっとも、前に述べたように漆喰飾りやコーニスが恐ろしく醜いため、その単純なことですら複雑になる。それらはあまりにもひどいので、塗らずに放置せざるを得ないのだが、そのように無視してさえも、平たい天井部分を塗ると、残りが浮き上がって、ある意味で装飾の一部のようになり、考えられるどんなカラースキームを選んでもうまくいかないだろう。だが、注意深くペイントするか、白いスペースをそのまま残して、可能なら忘れ去られるようにする以外に、思いつかない。もちろん、このペイントは、部屋でガスを使うよりましなことをしているとしての話だ。ガスを使っていると、じっさい、すべての装飾はかなり一般的なレベルにまで、すぐに落ちこんでしまうだろう。

 ■壁について

 さて、壁について話すときが来た。誰も壁をそのままにしておく可能性など認めないだろうから、壁は私たちにとって中心的に問題となる要素だ。最初の問題は、壁の水平的区切りをどうするかだ。

 部屋が狭くて天井が高くないなら、あるいは、絵や背の高い家具で壁がそうとう区分けされているなら、私は壁を横方向に区切ったりしない。1種類の壁紙、またはなんであれ、1色で十分で、装飾に関する入念な建設計画がある場合は別だが、間に合わせの家の場合は、その可能性はないだろう。かなり大きい部屋で、壁があまり分断されていなければ、部屋の天井がそんなに高くなくても、ある程度の水平的分割はしてよいだろう。

 では、どのように分割すべきか。2等分すべきでないことは言うまでもないだろう。(ガリバー旅行記の)空想のラピュタ島の人でない限り、そんな馬鹿なことはしない。その他については、精緻な装飾計画がある場合は別だが、そうでなければ、1つ仕切って2つのスペースを作れば十分だ。その場合、現実的には以下の2方法がある。コーニスの下に狭いフリーズを作って、そこから床まで壁を張るか、または、4フィート6インチ(約135p)くらいの高さのほどほどの腰羽目を作って、コーニスから腰羽目まで壁を張るかである。状況に応じて、どちらかを選ぶのがよい。
 壁がいろんな品々、タペストリー、パネリング(装飾を施した木材)で覆われているなら、前者の広い壁と狭いフリーズが最適だ。その場合、先に述べたような漆喰飾りがないなら、フリーズに繊細なペイント保施すのが望ましい。あるいは、部屋のバランス上、どうしても必要なら、手塗がないばあいには、プリントした細長い壁紙を使ってもいいだろう。だが、これは間に合わせの間に合わせだということは指摘しておかなければならない。
 後者の、腰羽目を作ってそこからコーニスまでの壁の場合は、装飾ペイントまたは代替品としての壁紙で覆われた壁が一番良い。その場合、1部屋には1パターン以上は使わないようにと強く言っておきたい。ほとんど気がつかないくらいの目立たないパターンで、表面を分割してはいないなら、別だが。壁紙でパターンの上にパターンを重ねたやり方をずいぶん見てきたが、それはとても不出来なものだった。つまり、だから私は、今言ったように、光が遊ぶ余地もなく、それ自体の特別な美しさもない材質に摺られた、安っぽい繰り返しパターンは、かなり慎重に使われるべきだと確信した。そうでなければ、洗練された装飾を破壊し、そのデザインにもあるかもしれない美を楽しむことすらできなくなる。

 装飾のために壁をどう区切るかというテーマの最後に言っておこう。非常に天井の高い部屋を扱う場合は、床から約8フィート(約240p)以上のところには目を引くものは何も作ったり置いたりしないのが一番良い。それ以上は、すべて、いわば空気とスペースがあるだけにするように。そうすれば、天井の高い部屋にありがちな、あの物悲しい雰囲気を取り去るとわかるだろう。

 壁をどう区切るかについては、そういうところだ。では、それをどう覆うかについて検討しよう。このテーマは語り尽くすまではかなりの部分をカバーすることになるし、一般に平面を絵画ではない作品を使ってデザインする場合にどうすべきか、というテーマにつながるだろう。

 まず切り口として、部屋の木造部分の扱いについてひとこと言っておきたい。できることなら、ペンキ塗りが必要な木造部分はない方がいい。ペンキ塗りとは、つまり、オイルやニスで溶いた鉛性染粉で、ただ4度塗りすることだ。しかし、オークのような上質の材木でないかぎり、それ以外に方法はないだろう。透明に塗られたモミ材で成功したものは見たことがないし、モミ自体の色は貧弱で、どんな装飾スキームでも成功しない。磨いてもひどくなるだけだ。要するに、単に材木として大量に使われるのでない限り、粗末な素材なので隠さなければならないのだ。それでも、教会の屋根その他で、ディステンパーなどで色を付けるのは問題ないだろうし、部屋の屋根や天井の木造部分には、絶対にそうするし、じっさい、手元に来た木造部分はペンキで塗った。
 色については、ルールとして壁と同じ一般的な色であるべきだが、色合いはほんの少し濃い目がいい。あまり黒ずんだ木造部分は部屋を鬱陶しくするが、室内装飾に非常に明るい色調を使っているならともかく、そうでないなら、木造部分が壁より明るいのはいただけない。そうでなくて、幸運にもたっぷりオークを使えるなら、カンナをかけたオークのままにして、その上を好きなように飾ればいい。

 さて、シンプルな色合いにするだけで、壁に特別な装飾をしないなら、ここで、もっと装飾そのものについて語る前に、メインとなる色彩について少し述べておこう。壁にふさわしい色合いという風に人はほとんど考えないから、話しておくのだが、じっさい、そんなに数は多くない。

 メインのカラーについては、それぞれいろんな好みがあるだろうし、それでいいのだが、特定の色に対して偏見を持つのは芸術家としては不健全な兆候だ。だが、こういう偏見は、中途半端に芸術教育を受けた者、あるいは芸術についてぼんやりとしか考えていない者のあいだではよくあるし、かなり極端なきらいがある。とはいえ、装飾における色彩は、色自体の主張においても、人がどう使うかとの関連においても、それぞれ、いわば、いろいろな使い方がある。だから、こうした使い方について私が気づいたことがらを規定しても許されるだろう。

 ■黄色、赤、ピンク、紫、緑、ブルーなどについて

 黄色は大量には使えない色だ。そうとう分割したり他の色と混ぜたりしない限りは無理で、その場合ですら、大変なきらめきがあるとか色調が微妙であるとかの素材でないと、どうにもならない。まったくゴールドの色でもないときでも、人々は黄色の物をゴールドと呼びがちだ。ゴールドは、たとえ本物でも明るい黄色ではない。だから、爽やかな黄色はそんなに明確な色ではなく、先に言ったように、映えるためにはピカピカした材質が必要だということだ。黄水仙やプリムローズのような鮮やかな黄色は、絹を除けばほとんど芸術には使えない。絹なら黄色を受けて輝き、元の色に光を加える。ちょうど、自然の中で太陽の光が黄色い花にそうするようなものだ。ディステンパーのように生きていない素材の場合は、はっきりした黄色は他の色といっしょに控えめにしか使えない。

 赤もまた、素材の美しさに助けられない限り、使い方が難しい。なぜなら、黄色に傾くと緋色(スカーレット)となり、青に傾くと深紅(クリムゾン)となるが、そうなると、深い完全な色でない限り、ほとんど面白くない。緋色が不純な度を超すと、激しい赤茶になり、大量に集まるととても不愉快な色だ。かなり薄められた深紅は、最近ではマゼンタ(赤紫)と呼ばれる冷たい色に傾き、他の色と組み合わせても単色でも芸術家としては使えない。赤の一番いい色合いは、深紅と緋色のちょうど真ん中で、それは本当にとても力強い色だ。しかし、均一にはほとんど決められない。グレーがかった茶色で割られた深紅で、あずき色に傾いているのも、とても役立つuseful色だ。だが、すべての素敵な赤がそうであるように、家のペンキ用というより、むしろ染色家の色である。世の中には溶性の赤がたくさんある。もちろんこれは溶けるのは早いが、顔料として耐久性に優れていると言えない。

 ピンクは、組み合わせるともっとも美しい色の一つだが、ほどほどの広さに艶消しで塗る場合でも簡単な色ではない。よりオレンジがかった場合に一番使いやすいが、寒色系ピンクはできるだけ避けた方がいい。

 紫は、まともな感覚の持ち主なら、鮮やかな紫を大量に使おうとは思わないだろう。暖色系で赤味があるなら、少しくらい組み合わせて使えるかもしれない。しかしもっとも特徴的で最善の紫の色合いは、決して鮮やかな紫ではなく、あずき色がかった色だ。ベニスのサンマルコ寺院の敷石にあるように、エジプト斑岩がオレンジ色との対比で使われているのが、その色をよく表している。
 大英博物館やその他1、2の有名図書館には、全盛時代のビザンチン芸術で使われていた、その色合いが見本として残っている。それは羊皮紙に金や銀で書かれた本で、羊皮紙を染めた紫は、おそらく、今ではもう見られないアッキ貝の貝紫または古代紫だろう。その染料の色合いは、プリニウス(訳注:紀元1世紀のローマの博物学者・政治家)が『博物誌』で詳しく正確に述べている。ありきたりの艶消しでは、もっとも華麗なこの色を再現することはできないのは、言うまでもないだろう。

 緑は(少なくともイングランドでは)、母なる自然が一番広範に使っている色だが、多くの人が考えているような鮮やかな緑は自然の中ではそんなにない。ほとんどの場合、まだ葉が茂っておらず、枝のグレーなどの寒色に混ざって早春の1、2週間に見られるだけだ。歌に歌われているように「葉が長く生い茂」る頃には、葉もまたグレーになる。早春の若葉から受ける喜びは、その色合いの明るさよりもむしろ柔らかさから来るものだと、ラスキン氏が書き留めていたが、確かにそうだと思う。いずれにせよ、壁に緑を使って自然を出し抜こうなどとしたら失敗し、おまけに居心地が悪くなるのは間違いない。要するに、鮮やかな緑には注意しなければならないし、使うとしても、鮮やかでかつ強い緑はほとんど使わない方がいい。

 他方で、くすんだ胆汁のような黄緑の罠にははまらないように。私はその色にはとくに個人的に嫌悪している。というのも、(個人的な事情を言うのを許してもらえるなら)私がその色をなにか流行りの色にしたと思われているからだ。そんなことにはまったく責任を持たない。

 実のところ、ピュアで、寒色系でもなく下卑てもいず、鮮やかすぎて住みにくいこともない緑色を出すのは、装飾家にとって簡単なようで何よりも難しいことなのだ。しかし、できないこともない。それも、特別な素材の助けを借りなくてもやれる。もしできた場合は、こういう緑色はとても満足できて目にも優しい。だから、この件でも、私たちは自然に倣っており、日常の平凡な色である緑を広範に使いがちだ。

 緑を日常の色と呼ぶとしたら、ブルーは間違いなく休日の色と呼ぶべきだろう。そして、鮮やかな色を好む人たちは、ブルーにもっとも満足を得ることだろう。というのも、赤傾向の場合は寒色にならないように、緑傾向には下品にならないようにしようと思えば、その鮮やかさを恐れる必要はない。赤は何よりも染色家の色だが、ブルーは顔料やエナメル塗料向きの色だ。世間には溶性のブルーがたくさんあり、多くは実用的で非常に強い。

 壁に合う色はあまり多くないと言ったが、これが私の知るかぎりでのリストだ。固定的な赤、あまり深い色でなく、濃いピンクと表現できる赤、黄色とブルーの色合いを加えた赤は、その色が出せるなら大変素晴らしい色だ。薄めの橙色がかったピンク。だが、これは控えめに使う。薄い黄金色、つまり黄色がかった茶色は、出すのがとても難しい。その2つの中間の色は、薄い銅色と呼ぼう。これら3色は、濁ったり汚くしたりすれば駄目になるので、注意深く扱うように。

 純粋な色から薄め、さらに濃いめからグレーがかった緑色。純粋であればあるほど、薄い色になり、濃ければ濃いほどグレーがかることを忘れないように。

 ピュアな薄いブルーは、ムクドリの卵のような緑がかった色から、灰色がかった群青色まで、とても豊かな色なので扱いが難しいが、ピタッと決まればずば抜けている。その場合、緑色がブルーに勝って下卑た色になる段階は心して避けるようにすること。また赤が勝って薄紫や、ブルーの糊の情けない色にならないように。こういう色は、エレガントな居間や立派な客間の装飾家が往々にして好みで使っているが。

 ここで私が話しているのはディステンパーでの色付けだということは分かっておいてほしい。その素材の場合は、すべての色合いがある。もっと大胆な濃い強い色を使う場合は、調和の取れた色にしようとしても、単色に打ち負かされることになるだろう。

 単色ではないディステンパーと、その間に合わせ品である壁紙について、最後にもう一つ。無理やりに色を出すのではなく、その素材のなかで、かなり薄淡いか、かなりグレーかのどちらかで、決して黒ずんでいないということで満足するのが常に一番いい。材質の豊かさ、さらに金箔の余地を許す着色に委ねることだ。

 色合い一般についての不十分な提起だったが、締めくくりに、普通の居室の壁に色を使う場合は度を越さないようにと注意しておきたい。素材によって、薄く鮮やかな色から、濃く深い色までいろんな幅で使うことができる。しかし、もう装飾などたくさんだと叫ぶ出すほど住人をうんざりさせないためには、ある程度の落ち着いた色調が絶対に必要だ。
 だが、これは、非常に未経験の装飾家だけが必要になるような忠告だろう。これが一方の失敗だとしたら、他方は、黒ずんでくすんだ色にしてしまう失敗だ。直しようがないので、前者よりもまずい失敗である。色を扱うまともな工芸職人なら、できるだけ鮮明な色、仕事の性質上可能な限り完ぺきな色を出すようにするものだ。工芸職人が表現したいこと、素材の性質、あるいは使い方によって、この完ぺきさに限界があるかもしれない。彼らがどんな色を出そうとしていても、その色をピュアで鮮明にできないのなら、自分の工芸を学んでいないということだ。そして、作品に現れた失敗を認識できないなら、学ぶこともできないだろう。           (続く)

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