現状の下で、最善をめざすために           
――デザインとインテリアのいくつかの基本
   その3

by William Morris in 1879
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました) 2021/4/17

その1に戻るその2に戻るその4に進むリストのページに戻るトップページに戻る

習得のための職人ギルドと、バーミンガム芸術家協会のへの講演
  ■暗めの背景に明るいパターンを置く

これまでのところは装飾のアレンジについて語ってきて、装飾そのものについては踏み込んでこなかった。本題に関した一般的な問題に触れる前に、あなた方が取り組む装飾の主な分野を形作るパターンのデザインについて、少し述べておこう。このテーマは広範で難しく、ふさわしい形で語るには時間が少なすぎる。だが、おそらく、あちこちでヒントが出てくるだろうし、ある意味でなにか新しい形で提起するだろう。

 概して言えば、パターンについて語る場合、私は必然的に繰り返されるものを考えている。大体において機械的な装置――たとえば版木や織機のような――で遂行されるものだ。

 今まで色彩について見てきたので、その側面からまず述べよう。もちろん、デザインに必要な他の側面から切り離して検討するのは、難しいとは思うが。

 単色の彩色から離れる第1歩は、同色の濃淡のパターンで切り分ける方法だ。最良でもっとも自然なやり方である。色の問題でこれについて述べることはほとんどないが、多くの重要なデザインがこの方法で扱われている。そのように模様を織り出したものを私は緞子と呼んでいるが、それについて、気づいたことが1つある。主な赤青緑のうち、赤の場合は、添える他の色調はできるだけ近いものでなくてはならない。そうでないと効果は貧弱で弱くなる。青の場合は、かなりの違いがあっても色の効果を失わない。緑はこの2色の中間である。

 次に、色合い(白色を混ぜて出した濃淡の色調)だけでなく同時に、あるいは色合いの代わりに濃さで、2つの異なった色調を得ようとするなら、かなりモノクロームから抜け出せるが、その2色をうまく合わせるには相当難しいだろう。たとえば、明るい緑がかった青を深く赤みがかった青に重ねる、つまりターコイズブルーをサファイア色に重ねるのは、技能の限りを尽くさなければならない。ペルシャ人はこの妙技を実践していたが、しばしば第3色を加えていた。それで、次の段階に進もう。じっさい、このように色調や濃さを変えることでパターンに変化を与えるやり方は、主に、かなり地味な色――黄金色や灰色――を扱う際に使われる。もっと強烈な色を扱う場合は、一般的に、少なくとももう1色、第3色を加える必要がある。ということで、次の段階に進もう。

 つまり、1色以上を使ってパターンに変化をつけるわけだが、すべての色は暗い背景の上に明るい色となる。これは何よりも、使える色に何かしらの限界がある場合に非常に役立つ。たとえば、模様を付ける布が機械で織られなければならない場合や、背景を含めて3色か4色しか用意ができない場合だ。

 パターンに変化をつけるには、この方法は難しくはないと思うだろう。野心に走りすぎて、重ね合わせる様々な色が他の色と比べて際立たせようと強烈にしすぎたり、あるいは、微妙にしすぎて混ざり合って不明瞭になったりしないようにすればいいだけのことだ。こういう作品の良さは、鮮明でありながらも形を柔らかく浮き出しており、色合いがそれそれに美しく、美しいが目立ち過ぎない背景の色の上で他の色と調和を保っていることだ。堅さは作品を壊すし、色使いに臆病になりすぎて混乱した形は、見た目にうるさく、落ち着かない。そして、色が足りないようでは、そもそもパターンの存在理由がなくなってしまう。だから、結局、パターンづくりはデザイナーには重い作業だ。それでも、このやり方は完璧なパターンデザインにおけるもっとも簡単な方法だ。

 暗めの背景に明るいパターンを置くデザインを述べてきた。私が考える、充分に発達した形のデザインにおいては、しばしばそう思われているように、パターンのなかには1つ平面だけではない。厳密に1平面しかないパターンでは、こういうデザイン方法において完ぺきな領域に達したとはいえない。色と形が同時に――ただし、形が主要素だ――完全なレベルに達したといえない。

 このタイプのデザイン全盛期の例は残されていないわけではない。12世紀、13世紀、14世紀のコリント(ギリシャ)、パレルモやルッカ(イタリア)の織機は、模様をつけた絹織物を産出した。これは非常に人気があったので、今でもその見本は、イーストアングリア式教会の14世紀の模様入り間仕切りや、ヴァン・アイク(訳注:15世紀のフランドルの画家)の絵の背景に見ることができる。実物を収集したもっとも重要なコレクションの1つは、ダンツィヒ(訳注:現在のグダニスク、ポーランド)にあるメアリー教会の宝物のなかに保存されている。
 また、サウスケンジントン博物館(現ビクトリア&アルバート博物館)にもこれらの優れたコレクションがあるが、もっと公開されてしかるべきだと思わずにはいられない。しかし、これらは博物館の関係部署が発行したロック博士の素晴らしいカタログによって、見つけることができる。博物館のスペースがもっと広くなって、見るのが簡単になるように望んでいる。

 要約しよう。このパターンデザイン方法は、西洋の方法、文明的方法と考えられるべきだろう。常に絵画を見ており、形について明確な考えを持っている工芸職人が使う方法だ。その作業に色は欠くことができず、職人は色彩を愛し理解しているが、常に形を優先する。

  ■明るい背景に暗い模様を置く

 次に論じるのは、明るい背景に暗い模様を置くことによって浮き出す方法だ。この方法はしばしば最初の方法の逆でしかなく、バラエティーに欠き、色や色調の遊びの余地も少ないので、そう役には立たない。多くの場合、先に述べた方法から色に色を重ねたやり方への移行段階と見なすべきだろう。そのため、これには何か不完全なところがある。可能な1色のシルエットや版のほかにも、もっと色が欲しいと思わざるをえない。それは新しい方法を求める気持ちとなり、境界線を使うという特徴を持つ方法へと、しだいに導かれていった。この方法が、私が最後に皆さんに話したい方法であり、色に色を重ねるやり方である。

 この方法では、様々な色は違う色の線によって区別される必要がある。それは単に形を示すだけではなく、色そのものを完璧にする。輪郭はグラデーションの目的を果たすと同時に、もっと自然な方法は濃淡をつけるやり方だが、デザインをかなり平面的にして、そこからそこにあるは1平面だけではないと思わせる。

 このパターンデザインの扱いは他のやり方よりずっと難しく、それ自体が芸術であり、区別して学ぶ必要がある。暗い背景に明るい色を措いて浮き上がらせる方法を西洋的文明的方法と呼ぶなら、この方法は東洋的であり、ある意味で非文明的と呼べるだろう。

 だが、これは広範囲に存在し、形にはほとんど重要性がなく、色の境界を示すためだけに存在する作品から、形が深く研究され精緻で愛らしく、形は従で色が主だとはほとんど言えないものまである。他方、色合いがとても素晴らしく、創造的で、間違いなく調和しているので、それ抜きの形などまったく考えられない。両者は深く結びついている。

 こうした例は、私の知るかぎりでは、最盛期のペルシャ芸術にしか見いだせない。単なるパターンデザインの技を究極の完成まで極めたもので、これを非文明的とはなぜか呼べない気がする。その魂そのものを賭けて、人々が呼ぶところの補助的芸術の創造に尽くしたのだ。そうして作られた絨毯は、そこに描かれている絵画より重要だ。いや、もっと適切に言うなら、それが絵画なのだ。
 そして、そのような芸術には未来の変化が前途に待っているわけではない。あるのは死という変化だけで、それは確かに東洋芸術に訪れている。他方、西洋文明に属す、もっと性急で意欲的で、感覚的でない芸術は、多くの変化に耐え、完全に絶えることはないだろう。いや、しばらくのあいだは知性だけで生き延び、醜さに満ちた恐ろしい時代を犠牲的精神で耐えるだろう。科学を狭隘にひけらかす学者も、金権政治の贅沢な独裁者も同時に??責する。変化が春を取り戻すまで、そして再び喜びに花開くまでのあいだ。そうあってほしい。

 それと同時に、色のためだけの色は、決して私たちの文明の芸術としては、副次的芸術としてすら根付くことはないだろう。模倣と見せかけという衝動が私たちのあいだで息づいていると人々は勘違いするかもしれないが、そういうごまかしは長続きしない。意図を持ち、他人にそれを感じ理解させることは、絶対に私たち西洋芸術の目標であり目的でなければならない。

 パターンにおける色彩というテーマを終える前に、ドットを打つ、線影を付ける、背景を線で描くなど、変化を付けるための機械的な仕掛けの乱用について警告しておきたい。こういうやり方は、往々にして創意の欠如を導く源泉になる。非常に注意して使わない限り、パターンを完全に俗なものにする。
 たとえば、私が述べたシシリアやその他の絹と、17世紀末や18世紀初頭にリヨンやベニスやジェノバの織り場で作られた(他のどこにでもある)紋織とを比べてみてほしい。前者は、手織りでまったくシンプルで、デザインの美と自然な織目で揺らぐきらめきを完全に頼みにしている。後者は、その虚弱な派手さを、点々や畝や長い浮き糸(訳注:いくつかの織り目を越えて織り込まれる糸)で辛うじて覆い、あらゆる種類の意味もない織りで、布を苛んでいる。こんなものからは警告以外何も学べない。

 ■デザインにおける秩序と意味――まず、秩序について

 パターンデザインにおける色彩についてはそういうことだ。さて、これからしばらく、他の必要な点について検討しよう。それは、原理的道徳的質とも呼びたいことで、結局のところ2点に絞られる。秩序と意味である。

 秩序がなければ、作品は存在することすらできない。意味がなければ、存在しない方がいい。

 秩序が必要なことから、私たちの仕事にある程度の制限ができる。それは一部には芸術そのものの性質から生まれ、一部には私たちが作業する材質から来るものだ。このような制限の受容を拒否する派や個人がいるなら、それはまったくの無能の証明である。まるで詩人が韻律や脚韻を踏んで書くことに不満を言うようなものだ。そもそも、それを楽しく受け入れて、制限を特別なものに変えるべきなのだ。

 私たちの工芸において、芸術の本質から生まれる主な制限とは、装飾家の芸術は画家の芸術が限定された範囲においてすら模倣的であってはならないということだ。

 これは、何百回となく聞いてきただろうし、理論的にはどこでも受け入れられているから、多くを語る必要はないだろう。これが基本だし、かつ、だからといって、一部の人が考えるような自然の観察を怠ることや、描画を怠けることの言い訳にはならない。それどころか、様式化しようとしている自然の形について豊かな知識を持たない限り、それについてどう考えているかを人々に満足いく印象を与えることは不可能だ。むしろ、自分の無知に妨げられて、装飾的形を様式化することもできないだろう。空間をふさわしく埋めることもなければ、簡潔で鮮明に見えることもなく、実現しようと努力しているどんな目的にもそぐわないだろう。

 これから言えるのは、自分の表現方法は独自のものであるべきで、過去の時代や他人から借りたものでであってはならないことだ。あるいは、少なくとも、自分が扱っているものの性質や技を完全に理解して自分のものにしていなければならない。これに耳を貸さないなら、花や鳥や獣の自然な形に依拠して詳しく描き、その姿を壁に留めるなど、どうしてできるというのか。まったく、それでは装飾にならず、面倒なことになるだけだ。そして、この明確な真理を、怠けるためや創造力欠如の隠れ蓑にするなら、あらゆる芸術を傷つけ、人々をその誠の真理から遠ざけることになる。

 模倣と過剰と同じように、制限もまた、パターンが果たすべき役割から私たちに課せられたことだ。繰り返しがちな小さく補助的なパターンは、より重要でスペースも自由なものよりも、自然さに欠けるものだ。そして、パターンの幾何学的構成がより明らかであればあるほど、構成部分は自然さが薄くなるものだ。これは、芸術の萌芽期からずっと最近まで、パターンデザインが健全な伝統に則ってきた時代には、十分理解されてきた。だが、現在では一般的に相当無視されている。

 作業対象の材質から来る限界については、どんな材質も一定の克服すべき困難、最大限に活用すべき余地を持つことを覚えておくべきだ。ある程度までは自分が使う素材に対して精通した支配者だが、いわば、それを苛立たせるほどに支配者になってはいけない。素材を奴隷にすべきではない。そんなことをすればあなたもまた奴隷になる。素材の意味を表現するかぎりで精通し支配し、美という点で目的にふさわしく仕えるべきだ。
 その一点を、自分自身の楽しみと喜びのために越えて、それでも正しいこともあるかもしれない。しかし、自分は難しい素材も上手に使いこなせると、人に目を見張らせたいためだけにそうするなら、それは芸術を忘れ、素材が何であるかを忘れたことになる。それは芸術作品ではなく、ただの玩具だ。それではあなたは芸術家ではなく、曲芸師だ。
 芸術の歴史においてはこういう例が多数あり、警告となっている。最初は、明確で安定した原理の時代だが、しだいに危険をもてあそび、ついには罠に陥り、健やかな時代とはまったく明確に異なる時代となり、衰退し、芸術は病んでしまう。

 1つ、モザイクという高貴な芸術における例を上げさせてほしい。ここで克服すべき困難は、ほとんど四角の小さなガラスや大理石片を使って、ずんぐりしていず、均質で本物のしなやかなラインを出すことだ。その素晴らしさは、耐久性、組み込まれた色合いの可愛さ、輝く切子面が醸し出す光、柔らかさのなかにある鮮やかさだ。そして、その形は、最盛期にはふんだんに使われた輝く金によって変化が付けられていた。しかも、使われている色がいかに明るくとも、全面に広がるテッセラ(四角いはめ石)の周りの無数のグレーの目地と合わさって、見事な色合いになっている。

 初期の最良の時代に、この芸術/技術の難しさは克服され、その素晴らしい特徴を際立たせるために丁寧な努力が重ねられた。長いあいだ、絵筆を使った絵画を真似しようと素材に無理をさせることはなかった。色のパワーにおいても、グラデーションの微妙さにおいても、主題を扱う複雑さにおいても、そうだった。もっと言えば、テッセラの繋ぎの目地を最小限にするのは簡単なことだっただろうが、そういう試みもなされなかった。

 しかし、時が経つにつれて、人はこの芸術の厳かな単純さに飽き始め、複雑さを増す絵画と同一歩調を取ろうとしだした。まだ美しくはあったが、モザイクは形がよくならないままに色彩を失っていった。その時点から(1460年頃だろう)、モザイク芸術は次第に質を落とし、ついには、単にモザイクが油絵を模倣するのに細工しやすい材料だから使われるようになってしまった。この頃には、もっとも厳粛な建物の最高の美、名人の芸術から、単なる職人に我慢を強いる技となり、芸術など気にしない人々の玩具になった。こういう歴史は、特別な素材を扱う芸術全体に言えるだろう。

 秩序というタイトルの下では、パターンの構造について何か語るべきだろう。しかし、このような複雑な問題を扱う時間は明らかにない。それで、これだけを言っておくことにする。繰り返しパターンは幾何学的ベースで作られるべきとは言われているが、それ以外の方法で作ることは明らかに不可能だということだ。ある程度、構造を覆い隠すことができるだけで、それも、デザイナーによっては非常な努力が必要だろう。

 これがいつも必ず必要だとは思わない。パターンが非常に小規模で、ほとんど注目を引くものではなかったらそうかもしれない。しかし、ときには、逆で、大きくて重要なパターンが望ましい。そして私が思うには、すべての気品あるパターンは、すくなくとも大きく見えるべきだ。もっとも素晴らしく快いパターンの幾つかは、幾何学構造を明確に見せている。そのラインが力強く、かつ優雅に流れていれば、その構造を努力して隠そうとしていないことが、絶対に貢献している。

 同時に、目を楽しませ心を満足させようとするすべてのパターンにおいては、ある種の神秘性が必要だ。すべてのことを一度に読み切れたり、読みたいと思わせたりするようではいけない。パターンがどう作られているかを発見しようと、ラインの流れを次々と追いたい気持ちに駆らせるようでは駄目だ。明確な幾何学的秩序の存在は、あるとすれば(あるべきだが)美しく、美の目的にかなうもので、私たちの気持ちがパターンを見て落ち着かなくなってはいけない。

 パターンのすべての線は、当然にも発展があり、その始まりからあとをたどれるべきだ。このことはきっと以前に聞いたことがあるだろうが、間違いなく、最良のパターン作りに欠かせない。同様に、どんな茎も、元となる株から離れすぎて弱々しくぐらついているように見えてはいけない。本物の自然な秩序には、相互の支えあいと絶え間ない進展があり、それがないのは、模倣や杓子定規な恣意的独善だ。

 パターン・デザインを実践した者は誰でも、地塗り面を均等に豊かにカバーする必要は知っている。これが、じっさい、先に述べた神秘性を満たすための大きな秘密であり、まさにデザイナーの能力を試すものだ。

 最後に、パターンでカーブを描くときには、どんなに繊細にしてもし過ぎではないし、主要な線はその最初からどんなに注意を払っても払い過ぎということはない。細部の美というものは、後からその欠点を直すことができないからだ。1つのパターンは、いいか悪いかしかないということを覚えておくように。絵画ではありうるかもしれないが、失敗は許されない。もっとも、絵画には別の卓越した質がある。パターンは砦のようなものだ。弱い環があれば、そこから破れる。繰り返し目を傷めつけるような失敗があれば、たとえどんな示唆や意図があっても、見る人の心は喜んでそれを受け入れることができない。
 

 ■デザインにおける秩序と意味――意味について

 デザインにおける第2の原理的/道徳的質――意味――についていうと、これには、その他のすべての芸術同様にこの芸術の魂である、創意と想像力を含めている。秩序と結びついて打ち出されれば、意味は実体を持ち、目に見える存在となる。

 これについては、秩序よりも語ることは少ないと思うだろう。なぜなら、形は教えられるが、それをとおして息づく精神は教えられない。だからこれらの質については、以下のことを言うだけで良しとするしかない――デザイナーはパターンにおいてあらゆる種類の奇妙さを詰め込んで人を驚かせるかもしれないが、美を損なってまでそうしてはならない。こういう仕事において、醜さや乱暴さが、不毛の結果でもなく、創造力が多すぎるからでもないと見つけることはないだろう。
 多産で資質のある者は、創造力に悩むことはない。ただ、美と表現のシンプルさを考えればいい。仕事は、美しい木が育つようにどんどん成長し、次から次へと導かれていくだろう。他方、苦労して他を真似て切り取ってくるような者は、変わったことを求めて、あちらにはこれ、こちらにはこれと貼り付けて、平凡につなげようとする。そうしてみたところで、出来上がった変わったものは、通常より創造的でもなければ、優雅でもなんでもない。

 なんらかの意味を持たないパターンはありえない。もちろん、その意味は伝統的に受け継がれてきたもので、私たち自身が編み出したものではないかもしれない。それでも、それを心から理解していなければ、それを受けとめることも、後から来る者に伝えることもできない。ただ従順に真似ているだけでは、生命の証しである変化がなく、もはや伝統とはいえない。もっとも目に優しく愛らしいパターンであっても、それが発展する余地がまるでないと思われたとたんに、そういうパターンをずっと称賛してきた者にすら飽きられてしまう。ご存知のように、すべての芸術は努力、失敗、希望から成り立っているからだ。私たちが不安でいっぱいになりながら、より良いものが生まれるのではないかと見ているとき、どこかこの先には完成形があると考えずにはいられない。

 さらに言うと、パターンにおいて自分が何かを意味するだけではなく、その意味を他人に理解させなければならない。天才と狂人の違いは、天才が1人か2人は信じさせることができるが、可哀そうな狂人は自分以外に誰もいないと、人は言う。私たちのデザインという技において、人々になんとか理解させる唯一の方法は、しっかり自然に倣うことだ。そうでなければ、いったいどうして人々に注意を向けさせられるのか。それ以外にすべての人が理解できる何があるというのか。すべての人、つまり、語りかける値打ちのある人ということで、感じ考えることの出来るすべての人だ。

 さて、創造と想像の質についての話は、過去のデザイナーを思い返し感謝して終えることにしよう。工芸を実践している者なら、装飾工芸に表現された彼らの思いをふんだんに読み取ることができるはずだ。それが誇り高き知性によって圧し潰されてしまい、その多くが失われてしまったとしたら、なんて残念なことだろう。誇り高き知性は、自分たちの王様や偉人が作ったのでない限り、かがみこんで美を見てみようとしない。
 おそらく、このような芸術を生み出せる人の思想は、もっと壮麗な形やもっと明確な形では表現できなかっただろう。少なくとも、表現されてはいない。したがって、このような人たち――名前はとうの昔に忘れられたが、その作品はいまだに驚嘆されている人々――の暮らしがどんなに有益であったかと讃えるとき、私は決して自分の楽しみだけを考えているのではなく、多くの人々の喜びを考えているのだ。
 ペルシャの人々は独特の方法で、ダマスカスの庭では花がどのように育っていたのかを教えてくれる。あるいは、ケルマン平原ではどのように狩りがなされていたか、ペルシャ中部の谷までは、チューリップは草々のなかでどのように輝いていたのかを教えてくれる。そして、それを見て人々はみなどんなに心が嬉しさに満ちたか、暮らしにどんな喜びを感じていたかを教えてくれる。彼らが伝えたいことは、私たちのなかにははっきりと分かる。


その1に戻るその2に戻るその4に進むリストのページに戻るトップページに戻る

※この翻訳文の著作権は城下真知子に帰します
翻訳文を引用したい方は、ご連絡ください