地球の美と芸術 その3

by William Morris in 1881
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました) 2018/2/28

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 私たち人間が故意的に破壊することさえ止めれば、人間が居住できる地球上のスペースで、それなりの美しさを持たないところなど少しもない。
 そして、この地球の美の適切な共有こそ、働いてそれを獲得するすべての人間の権利だと言いたい。
 すべての正直で勤勉な家族のための、まともな環境のなかのまともな家――これこそ、芸術の名において私が要求したいことだ。



  ■子どもたちに喜びと希望を与えられないなら、文明などまやかしだ
 
 まあ、聞いてくれたまえ。ハマースミスの川のそばにある私の家で座って仕事をしていると、このごろ新聞でずいぶん取り上げられており、以前からも繰り返し言われてきた、ごろつきのような言動が窓の外からよく聞こえてくる。輝かしいシェークスピアやミルトンを生んだ国の言葉として叫びや悲鳴や乱暴な言葉が投げつけられているのを聞き、野卑で衝動的な顔や風貌が通り過ぎていくのを見ると、私の内部にも野卑や無分別が呼び起こされ、激しい怒りが私をつかんで放さない。

 そして、私はやっと気づくのだ(たいていの場合、そうあってほしい)――私が身分のある金持ちの家に生まれて窓のこちら側で素敵な書物や素晴らしい芸術品に囲まれて座っており、窓の向こう側の空っぽの街角や、酔っぱらいのいる酒屋や、不潔で下劣な下宿に座っていないのは、単なる幸運に過ぎないのだと。いったい、これをどういう言葉で表せばいいのだろう。

 どうかお願いだから、私が誇張でこんなことを言っていると思わないでほしい。私の1つの大きな願いは、この偉大な国がすべての海外や植民地へのもつれた関与を振るい捨てて、立派なお歴々の強力な力、世界がこれまで見たことのない偉大な力を、ああいう貧しい人の子どもたちに人間の喜びと希望を与えるために向けてほしいということだ。

 これは本当に不可能なことなのか? 何の希望も持てないようなことなのか? もしそうなら、文明というものはただの幻想でありまやかしであると言うしかない。そんなものは存在しないし、そこには希望などない。

 だが、私は生きたいし、それも幸せに生きたいから、この願いが不可能だとは思わない。私自身の感情と切望をとおして、これらの人々が何を欲しているか、この最低の奴隷状態から彼らを救うためには何が必要かは分かっている。

 それは、彼らの自尊心を育てて、仲間からの称賛と共感を呼ぶ勤め口であり、楽しく暮らせる住居であり、落ち着きと高揚をもたらす環境であり、納得のいく労働と納得のいく休息である。それらを与えられるものはただ1つしかない。それは芸術だ。

 皆さん方は、この主張を馬鹿げた誇張だと考えるに違いない。しかし、それでも、これは私の固い信念であって、皆さんにはただ覚えておいてほしいと言うしかない――私にとってこれはものを作るすべての人間の労働を適切に組織化することだということ、そして、少なくともそれは人間の自尊心を高め、暮らしに尊厳を加える強力な手段でなければならないということだ。

 もう1度言おう。「ただで手に入るものはないし、1ドルでは大して得られない」のだ。何かを手に入れるときはなんでもそうだが、芸術は対価を払うこと抜きに手に入らない。そして、芸術を気にかけるなら――芸術を理解すれば気にかけるはずだが――必要な犠牲に怖気ついてはならない。

 そもそも、私たちは、偉大なことのために小さなことはあきらめる気質でよく知られた国の人間であり子孫ではないか。犠牲にすべきは、主に金銭、つまり権力と汚れ(dirt)だ。これは確かに深刻な犠牲だろう。だが、先に述べたように、私たちはかつてイングランドでもっと大きなことを成したのではないのか。いや、そもそも、わたしは長期的に見て、汚れ(dirt)の方が芸術(art)よりもっと現金を賭けなくて済むとはとても思えない。

 さあ、では、どちらを取るのだ、芸術(アート)か、汚れ(ダート)か?


  ■汚い都会は人間性にとっての恥だ
 
 そして、私たちが賢明な選択をしたなら、それからどうすればいいか。私たちが住む土地は、現実の広さにおいても風俗・スタイルの規模においてもそんなに大きくはない。だが、私たちは他のどの土地とも同じように、真摯な人間の平和な住居としてふさわしいと感じている。こう感じるのは必ずしも郷土愛のゆえだけではないだろう。

 そうではないと疑う人がいたとしても、私たちの祖先は示してきてくれたではないか。矛盾を恐れず言おう。古い時代のイングランドの家ほど気持ちよく心地よい人間の住処はないと示してくれたではないか。

 私たちの祖先はこの愛しい土地を丁寧に扱ったが、しかし、私たちはひどい扱いをしている。端から端まで美しかった時代があったのに、今では、ぞっとするほどの場所に出くわさないよう、慎重に道を選んで避けなければならないのだ。

 これは恥辱だ。文明にとっての恥辱ではなく、人間性にとっての恥辱だ。汚されていない土地、あるいは部分的にしか汚されていない地域との比較で、どれくらい穢れたところがあるかという統計を目にしたことはないが、しかし、場所によっては、まとまると1つの州全体、あるいは数州をおおうほどに広がっている。しかもそれは恐ろしい割合で、文字通り本格的な速度で増えている。

 これが、チェックされないままなら、いや、嘆かれることもなく進むなら、芸術について語るなんてまったく虚しいことだ。こんなことをしている限り、あるいは、やらせている限り、こっそり芸術を否定しているようなものだ。それなら、公然と否定する方がまだ誠実で良心的というものだ。
 芸術を受け入れるなら、これまでしてきたことの埋め合わせをし、対価を払わなければならない。この土地を、作業場のすすけた裏庭から庭園へと変えなくてはならない。皆さん方のなかに、それは困難だとか、いや、不可能だとかと思う人がいたとしても、しかたがない。ただ、私には、それが必要だと分かっているということだ。

 不可能だという点に関して言えば、私はそうは考えない。私たちの世代の者たちは、ほんの少し前に不可能だと思われていたことすら成し遂げてきたではないか。その気で第1歩を踏み出したからこそ、困難を克服してきたのだ。一度できたことなら、またできるはずだ。

 いや、あの巨大な犠牲について心を決めさえすれば、現在と未来の敵を殺したり不具にしたりするための道具に費やす資金や科学を、良識ある暮らしを進めるための十分な蓄えにすることができるではないか。


 ■「地球の美と芸術を守る」目標を持てば
        手段は各自が見つけられる
 
 しかしながら、私は決してお金さえあればいろんなことができるとか、そもそも何ごとかをなしうるとか言っているのではない。成し遂げるのは意志なのだ。意志がいかに行動として表現されるかについては、私が言うまでもないだろう。もちろん、他の人たちと同じように、私はその道を進むのにどんな方法が一番良いかについての考えを持っている。しかし、その考えは皆さん方には受け入れられないだろうし、むしろ、皆さん自身がその目標をめざそうと確信すれば、自分で到達する方法を見つけるに違いない。

 その手段が何であるかは大した問題ではない。皆さんが、国の形態的側面(注1)はすべての人のものであり、誰であれその財産を意図的に傷つける者は民衆の敵だという根本原理を受け入れれば、その運動は勝利へと向かうだろう。

 そして、私を今日ここに立たせてくれた1つの事実を考えると、私は勇気づけられる。たくさんの煙を出しながら陶器を産出する地域において、汚れ(訳注:原語のdirtには土という意味もある)の問題について私が主張してきたことを語れるなんて、これは、この課題に対してどう感じるかという点で最近目に見える主張がなされてきて、しかも間違いなくかなり大きくなりつつあるからだろう。

 私が頭のおかしい夢想家だとしても(まあそうかもしれないが)、それでも、カール家(注2)や共有地保存協会(注3)に属する多くのメンバーや支持者がいるではないか。彼らには夢見ている時間などはなかったし、狂気が彼らをとらえていたとしても、その狂気はただちに全国で共感されたではないか。

注1:このexternal aspectという表現でモリスが何を指しているのかは定かではないが、おそらく文化などの内面的要素との比較で政治社会体制を指していると思われる。

注2:「ロスの男」として知られたジョン・カール、17〜18世紀の慈善家など

注3:ジョン・スチュアート・ミルやモリスも参加した団体。ナショナル・フットパス・ソサエティと合流し、のちにナショナル・トラストとなった。


 ■いったん暗くなっても、希望はある
 
 長時間にわたって辛抱強く聞いていただいたことに感謝申し上げる。あとほんの数語で私の話は終わる。その数語とは希望の言葉だ。何か希望のないことを言ったように皆さんが思われるとしたら、それは、まったく、せっかちな男がしばしばとらわれる苦しみによるものだ。せっかちな男が、心に決めた運動を進めるために自分の手だけでできることはなんと少ないのかと思ったときに感じる苦さだ。

 もちろん、その運動は最後に勝利することは分かっている。なぜなら、世の中が残虐な時代に戻ることはできないだろうし、前進する行進のなかで芸術はその仲間であるに違いないという信念が私にはあるからだ。進歩がどういう道を進むかを予言するのは私の役目でないことは十分承知している。こんにち、道を阻み立ちふさがっているように見える多くのこと、進歩を毒する多くのものは、あるいは進歩を促進することもあり、薬であることもあると、私は思う。それは、明白な良きことをもたらす前に、恐ろしいことを経験させる運命なのかもしれない。

 そうだとしても私は、さきほど述べた信念に駆られ、自分の知識に基づいて語らざるを得ない。たとえ、その知識は弱々しく、言葉はせっかちに響いたとしても、そうするしかない。目的を心に抱く人は誰でも、いかに自分は無価値かを自覚していようと、それを実現できるのはまるで自分一人しかいないかのように語るものだ。こうして、単なる意見のなかから行動が生まれるのだ。

 最後に、私はこの講演中ずっと、皆さんが私に友として語るよう求めてくれたこと、そして、友だちや仲間の工芸職人に対しては、恐れず心を開いて語る以外にはないことを思いながら語ってきたと、申し添えておきたい。


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※この翻訳文の著作権は城下真知子に帰します
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