未来の社会 その3

by William Morris in 1887
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行している箇所があります)
(注:この翻訳文章は『素朴で平等な社会のために』で、バージョンアップされています)

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  ■芸術と文学は、感覚的で同時に人間的となる
 さて、視力の問題を長々と語ってきたが、それは、先に批判してきたように、この問題が文明社会が太鼓腹の「知的人間」の段階へと進行している最大の兆候だと思うからだ。

 それに、未来の芸術や文学については、特別な要求は必要ではないからでもある。健康な身体と健やかで全面的な感覚の発達、さらに、いっさいの奴隷制を破壊することによって獲得されたあたりまえの社会的モラルとが合わされば、どういう芸術や文学かはともかく、自然にしかるべき芸術と文学がもたらされるにちがいない。

 ただ、ほんの少し予言させてもらえるなら、芸術も文学も、とくに芸術は、過去の芸術がそうであったように感覚に直接訴えるものとなるだろう。

 もはや、中流階級のカップルが悩み、社会的には無用としか表現のしようのない「苦闘」を演じる様子を描いた小説は存在しない。そういう文学的宝物の材料はなくなってしまうからだ。

 他方、本物の歴史の物語りはなおも存在するだろうし、現在よりもっと陽気な調子で語られることだろう。
 
 それに、健康に成長した人間の感覚には、芸術がとても魅力的なものとしてアピールするに違いない。だから、文明以前の時代にそうであったように、建築やそれに関連する芸術[注2]が人々のあいだでふたたび花開くだろう。

 文明はこれらの芸術を不可能にした。なぜなら、文明社会の政治と倫理が、薄汚れて混乱した住み心地の悪い世界にわれわれを住まわせ、事あるごとに感覚を痛めつけるからだ。そのために、われわれは無意識に感覚を鈍らせざるを得ない。

 今日、ものの形に着目する人間が南ランカシャーやロンドンに住んでいれば、延々と続く怒りと苦闘のなかで生活しなければならない。知覚能力を鈍くしなければ、気が狂うか、誰か醜悪な人間を殺して絞首刑になってしまうことだろう。そして、そうなればもちろん、しだいにそういう不便な知覚能力を持たない人々が生まれるようになる。

 だが、この不合理な衝動が取り除かれるようになれば、感覚はふたたびあたりまえでまともな豊かさに満ちて発達し、感覚を使って得られる喜びを表現しようとするだろう。芸術と文学は感覚的で同時に人間的なものとなる。

[注2]モリスにとって建築は絵画や彫刻に勝るとも劣らぬ重要な芸術であり、それに不可欠な装飾芸術をこよなく愛しその質を高めたいと願っていた。装飾芸術とは家を建てる技術から、塗装、建具指物、大工、鍛冶屋の仕事、陶芸、ガラス工芸、織物、その他多くの技術を含む。『小芸術』参照

  ■未来社会は、素朴な人間的暮らしを求める社会だ
 さて、話題があちこちに及んだが、これをまとめあげ、私が生まれ変わって住みたいような社会の全体像について、簡潔に述べることにしよう。

 その社会では、金持ちや貧乏、あるいは所有の権利、法または適法性、国籍ということばは意味を持たない。統治されるという意識がまったくない社会だ。そこでは条件の平等は当然のこととなり、共同体に奉仕したからといって、誰もその見返りに社会を傷つけるような権力を与えられることはない。

 それは、素朴な暮らしを営む願いを自覚した社会である。人間的で、機械中心でないために、これまでに勝ちとった自然をコントロールするすべを意識的に少々あきらめた。そして、その目的達成のために、喜んで何かを犠牲にする社会である。

 ここは小さなコミュニティに分かれている。そのコミュニティは、適当な社会的倫理の範囲で大いに多様だが、「神聖な人種」などという考えは毛嫌いしており、相互対立とも無縁である。

 自由に生きようと固く決意している人々は、暮らしがシンプルで、かつての奴隷所有者の暮らしほど洗練されていなくても満足しており、基本的に分業は避ける。男性も、もちろん女性も、自分のことは自分でおこない、誰かに代行させたりせずに仕事を楽しんでいる。

 社会的な絆は本能的に習慣として感じており、それを常に決まり切ったな形で表現する必要などない。血縁の家族関係は、共同体や人間同士の関係のなかに溶け込んでしまう。

 こういう社会の幸せは、健康な動物である人間が、感性や情熱を自由に発揮することを基礎にして築かれるだろう。もちろん、その発揮が他の人を傷つけたり社会的団結をそこなったりしないことが前提である。誰も人間であることを恥ずかしく思ったりせず、人間らしく成長していくことしか望んでいない。

 この自由な健やかさから、知的成長という喜びが生み出されることだろう。まことに愚かにも、文明下の人間はそれを感覚的な暮らしから切り離そうとした。感性を押し殺して、知的発達を美化してきた。

 新しい社会では、知識と美がそれ自体として創造され、奴隷として他人に捧げるために創造されるわけではない。そして、知らぬ間に、必要な仕事が自分自身の手で趣きを増し美しくなっていくのを見て報われることだろう。

 夏の夜にイグサで作られた丘の小屋で羊たちとともに横たわる喜びは、壮麗なアーチや柱や丸天井や狭間飾り[注3]を持つ立派なコミュニティ・ホールを愛でる喜びとくらべても、なんの遜色もない。あるいは、釣り舟の舵を取り、寄せる波や風が奏でる音に耳を澄ます者は、人間が作った音楽の美しさにも無感覚ではいられない。本物の活き活きした芸術を創れるのは空論家ではなく、働く人だけなのだ。

 そしてこの楽しい労働とそれにともなう休息のただなかで、過去の奴隷制の名残りはすべて地球上から消え失せるだろう。死ぬほどの不安や恐怖に駆り立てられることがなくなれば、地球をあさましい汚物で汚さないようするためにはどうするかと考える時間ができるだろう。

 地球本来のものではない醜さも、たんなる奇怪なあまのじゃくの誕生としか思えなかった現象とともに消え失せるだろう。カーライル[注4]も評したように、「この世はロンドンっ子の悪夢だ」という下劣な教義など、もはや知る人もない。

[注3] ゴシック建築における窓の飾り格子、トレサリー
[注4] トーマス・カーライル(1795〜1881) 歴史家・評論家。フランス革命を研究し、イギリス社会を鋭く分析した

  ■素朴で幸せな社会など「停滞」だと言う人たちの真意は…
 だが、おそらくみなさんは、こんなに社会が幸せで平和なら、それを実現するのに成功しても、ふたたび腐敗につながるのではないかと考えるかもしれない。たしかに、油断を怠り勇敢さもなくせば、そうなる可能性はある。

 だがわれわれは、人間が自由となるというところから始めた。自由な人間には責任感があるものだ。そして責任感があれば、注意深く勇敢であるだろう。とはいえ、人の世は人の世だ。それを否定するつもりはない。だが、私が考えてきたような人間なら、現在のような権威の氾濫や無意識の反抗のなかに住む人より、きっと困難に立ち向かう力を持っているにちがいない。

 それでもなかには、こういう状況はたしかに幸福を招くが沈滞にもつながるのではないか、と考える人もいるかもしれない。しかし、幸せとは能力を気持ちよく発揮することによって生まれる状態だという私の規定に賛成なら、幸せが沈滞につながると見るのは明らかに矛盾することになる。

 それに、仮に最悪の場合を考えてみても、こんなにも多くの問題があったあとに世界が休憩したとしても、なにか差し支えがあるだろうか。以前、病気が治ったあとのことを覚えているが、痛みや熱もなくベッドに横たわっているのはどんなに心地良いものだったことか。私は何もせずに、ただ陽の光りを眺め、外から聞こえる暮らしの音に耳を傾けたものだ。

 それに、不正のまっただなかで、無我夢中で生死を分かつ闘いを闘い抜き、そこから抜け出した人間世界が、熱病的状態のあとにしばし休息してもいいではないか。しかもそれでも以前よりはましだなんて、偉大なことではないか。

 いずれにしても、熱狂状態は、何があとに来るにせよ脱した方がいいにちがいないと、私は思う。そして、これまで話してきた素朴な暮らし、それを停滞と言う人もいるかもしれないが、それが人類の大多数に真実の暮らしをもたらし、少なくとも彼らにとっては幸せの泉となるにちがいないと確信している。

 それはただちに彼らの生活水準を上げ、世界の人口がふたたび多くなるまでは上がり続けることだろう。人口が増えたとしても、それはありきたりの人々ではなく、自尊心もあり、他人の人格をも尊重する正直な庶民だ。優越性を意識しすぎた今日の「知的」人物とは違う。なぜならその人々は、自分たちが役に立っており幸せだと感じているからだ。しかもその感覚は、日々の生きた感覚なのだ。

 それでも、「優れた人々」はそういう世界をものたらないと言うのかもしれないが、それはお生憎さまだ。それなら、聞いてみようではないか。それよりもひどい今日の世界でいったいどうしてうまく折り合いをつけているのだ。「世界がひどいから好きなのだ。自分たちは比較的優遇されているから好きなのだ」――彼らは、そう答えざるを得ないのではないか。

 ああ、友よ、こういう馬鹿者が現在われわれの主人なのだ。ということは、それに仕えている者も馬鹿だって? そうだ、そういうことなのだ。

 だから、もう馬鹿であることは止めにしよう。そうなれば彼らも主人ではなくなる。結果がどうなろうと、これはまさに試してみる値打ちがあるではないか。

 未来がどうなるかについての私の夢の、最後の言葉はこうだ。われわれがもはや馬鹿でなくなるかどうかは、支配者を持つことを拒否するかどうかにかかっている。
                                     (完)


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