現在の暮らし方か、違う暮らし方か その3

by William Morris in 1885
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行しています)

  ■必要な労働は納得のいくかたちで
 さて、余暇があるから怠け漫然とするようになったなんて言われるといけないから、次に、しかるべき労働について展開しておこう。私にとって、これほど大事な要求はほかにないから、ぜひ時間をいただきたい。

 私に余暇ができたら、おそらく、かなりの時間を現在は仕事と呼ばれていることに費やすだろう。だが、社会主義コミュニティの一員だったら、もちろん、それより骨の折れる仕事も担わなければならないのは確かだ。といっても、それは、私の力量でできる仕事をしかるべく分担するということであって、画一的に強制されるわけではない。

 そもそも、シンプルな社会的生活を維持するために不可欠な仕事といっても(それ以外に何があるかは別にして)、それは納得できる仕事でなければならない。つまり、良き市民が必要性を理解して分担できるということだ。コミュニティの一員として「それならやろう」と賛成できる労働だ。

 そうではない極端な例を二つ挙げよう。たとえば、真っ赤な軍服に着飾って、納得できない揉め事のためにフランスやドイツやアラブの友人に鉄砲を向けて行進せよと言われても、私は従わない。そんなことがあれば、すぐに抵抗する。

 あるいは、馬鹿者しか欲しがらないようなつまらない玩具(おもちゃ)を作るために時間とエネルギーを浪費するつもりはない。そんなことになれば直ちに反逆するだろう。

 もちろん、未来の社会的な秩序のもとでは、そういう不合理なことに反抗する必要は生じてこないから、大丈夫だ。私はただ、未来の暮らしを語る場合にも現在通用している考え方を使わざるをえないから、そう言っただけだ。

  ■機械をどう扱うか
 さて、本当に必要な仕事が機械的な仕事の場合にどうするかについて、もう一度触れておこう。それには機械の力を借りればいい。それで仕事を安っぽくするのではなく、労働時間をできるだけ少なくできるからだ。機械を見ながら、ほかのことを考える時間もできるかもしれない。

 皆さんももちろん、とくにきつくて疲れる労働の場合には交代して順番に行なうべきだと思うだろう。たとえば、炭鉱の底で労働しっぱなしなんということはあってはならない。こういう仕事は、広く希望者を募り、交代で行なわれなければならない。

 ところで、きつい仕事と言う場合、私は汚れ仕事も含んでいる。健康で頑丈な男なら、そういう厳しい仕事にも喜んで取り組むだろう。そうでないようなら、大した男だと思えない。もちろん、さきほど述べたような条件は前提だ。つまり、必要性を実感でき(したがってそれを遂行することが名誉でもあり)、展望もなく続けなければならないこともなく、まったくの自由意志で選べることだ。

 労働について最後に注文したいことは、労働する環境だ。必要な仕事の大半は田畑で行なわれるが、その田畑が心地良いのとまったく同様に、工場も作業場も心地良くなければならない。

 儲け主義に凝り固まっていなければ、労働環境を心地良く整えるのは、まったく簡単なことだ。商品が安いのは、不健康で騒音があふれる汚い巣穴のようなところに詰め込んで働かせる代償だ。労働者の生き血を吸って安くなっているのだ。

 以上が、必要不可欠な労働、コミュニティに対する貢献についてである。未来の社会的なシステムを維持していく力量が増していくにしたがって、人々も、今私たちが考えるどんな暮らしよりもずっと費用がかからないことに気づくだろう。

 そして、しばらく経てば、労働を避けるというより、むしろ見つけるのに必死になっていくだろう。労働する時間は、老若男女の楽しいパーティのようになってくる。現在は、ほとんどの人が仕事は疲れると愚痴っているが、新しい社会では仕事を楽しむようになる。

 そうすれば、さかんに語られてきたが現実には長らく抑えられてきた芸術も、いよいよ新生のときを迎えるだろう。人間は労働の中で感じる湧き立つ喜びを表さずにはいられなくなる。具体的に、しかもそれなりに残る形で表現したいと常に願うようになる。作業場は、ふたたび芸術の学校となり、すべての人に影響を与えることだろう。

  ■生活を取りまく環境を心地良く
 芸術を語ると、おのずと最後の要求に行きつく。生活をとりまく物質的環境が、心地良く、ものも豊富で、美しいことだ。これが大変なことは分かっている。しかし、これが満たされないようなら、すべての文明社会で市民一人ひとりがこれを得られないようなら、そんな世の中はいらない。人類の存在自体が不幸だったということになる。

 現在の状況では、この点をいくら強調しても通じないかもしれない。だが、未来の人々が私たちの社会を信じられない日がきっと来ると思う。こんなにも財産や金があり外なる自然もコントロールしているにもかかわらず、なおも、下品でみすぼらしく汚い生活に甘んじている社会があったなんて。

 もう一度はっきり言おう。利潤を追い求めるからこそ、そんな社会に追い込まれるのだ。たとえば町を考えてみてほしい。コントロール不可能な巨大な集合体に人間を引き寄せるのは、利潤だ。庭もオープンスペースもない一角に人間を密集させるのは、利潤だ。まるで地獄からたなびくような煙が立ちこめる地域、これを丸ごと包み込むという当たり前の対策すら取ろうとしないのは、利潤だ。

 そのせいで、美しい川は不潔な下水に成り果てる。金のない者はみな、ましな場合でも馬鹿馬鹿しいほど窮屈な住いに押し込められ、ひどい場合には、家とも呼べない惨めな場所で生活させられているのだ。

 こんな下卑た愚行を我慢しなければならないなんて、信じられないほどだ。こんなことに絶対耐えていてはいけない。労働者が自分の頭で考えるようになれば、自分は利潤搾取者の付属物だとか、利潤が増せば雇用も増え賃金も上がるとかいう考えに、耳を傾けなくなる。

 信じられないような汚さや無秩序、現代文明の退廃すべてが、繁栄のしるしだなんて、とんでもない話だ。それどころか、それは奴隷制のあかしなのだ。

 奴隷でなくなれば、すべての市民・家族がゆったりとした住まいに住めるよう、どの子も両親の家の近くの庭で遊べるよう、当然のこととして要求することだろう。そして、どんな住居も自然を損なうことなく、はっきりと品位に満ちた整った建物で、自然に彩りを添えるものであるべきだと要求するだろう。適当な品位や状態に整えられた建物は、まちがいなく美しくなる。

 もちろん、これらはみな、人々が(すなわち社会が)、それにふさわしく組織されているということを意味する。つまり、生産手段は個人の所有ではなく人々の手にあり、必要な時にはいつでも誰もが使うことができるということだ。そういう条件でなければ、実現できない。それ以外だと、人は私的に富を蓄積しようとなりかねず、そうすると、現在のようにコミュニティの生産品が浪費され、絶え間ない階級への分裂が始まり、ついには、永遠の戦争と浪費につながる。

 さて、このような社会システムのもとに暮らす人たちはどのていどの共同生活を必要とするか、あるいは望ましいと思うかという点だが、これは、どういう友だちづきあいを好むかによって、かなりの違いがあるだろう。

 私自身としては、いっしょに働く仲間と食事を共にするのが嫌だという意見は理解できない。貴重な本や絵画を備えた壮麗な設備の建設など、共同にした方がやりやすいことはたくさんある。ベイズウォーターなどの高級住宅街で、金持ちが自分たちのために建てたしみったれた養兎場のような馬鹿げた建物にうんざりしたとき、私は、よく未来の建物を心に描いて自分を慰めたものだ。

 惜しげもなく良い材料を使い、ふさわしい飾りが存分に施されている堂々とした市民の共同の建物。そこでは過去と現代の気高い思想が生きており、人間的で自由な人しか生み出せない最高の芸術が具現化されている。こういう住いは、美しさとふさわしさの点において、個人ではとても造れない。集団の知恵と共同生活こそ、美への憧憬を育み、実際に創り出すための技や余裕を与える。

 そういう場所で本を読んだり友と会ったりするのは、嫌どころか、私ならうれしくてたまらない。自分の好みではない絨毯やクッションであふれる趣味の悪い漆喰塗りの家に住むよりずっといい。自分の持ち家だからというだけで、そんな家に住まなければならないとしたら、心身ともに落ち込んで参ってしまうことだろう。

 こういうことを言うのは初めてではないが、あえて繰り返した。というのも、ホームこそ、共感し愛する人々と出会う場所だと考えているからだ。

 もちろん、これは中流階級である私の意見だ。労働者が、いま述べた宮殿のような場を共有するより自分たち家族の粗末な小部屋を選ぶどうかは、本人の判断にまかせる。そして、中流階級には、その想像力にまかせよう。彼らは、せいぜい洗濯日などには、労働者は窮屈で落ち着かない暮らしをしているのだなあと気がついたりするようだから。

  ■機械の将来について
 この生活環境の問題を締めくくる前に、考えられる反対意見について触れておきたい。

 さきほど私は、機械を自由に使って、必要ではあっても不快で機械的な仕事から人々を解放すべきだと述べた。教養のある人々、芸術的志向のある人々のなかには、機械などまったく悪趣味だと考える向きがあり、機械に囲まれている限りは気持ちのよい環境などありえないと言いがちだ。

 だが、私は決してそうは思わない。現在、機械が暮らしの美を損なっているのは、私たちが機械の主人ではなく、機械が主人になっているからだ。いわば、機械は恐るべき罪の象徴なのだ。自然をコントロールする力を人々の隷属のために使い、その生活からどれだけ幸せを奪っているかなど、まるで気にもしていないという、恐ろしい罪だ。

 だが、機械反対の芸術家の気を休めるために、少し付け加えよう。新しい社会状況のもとでは、人々は、社会をひとつにするため必要な労働をやりとげるのに必死なので、おそらく、まずは機械を本当に有効な形で一大進化させるために努力するだろう。

 しかし、しばらくすれば、思ったほど仕事量がないことに気づき、ことがら全体を再検討する余裕も出てくる。そして、特定の仕事は、機械を使うより自分たちの手を使う方が作る側にも心地良く、製品を作るにも効果的だと思えてくる。

 そうなれば、間違いなく人々は機械を使うのをやめるだろう。現在では不可能だが、未来社会ではやめることも可能なのだから。現在は、そんなことができるはずはない。私たちはいま自ら生み出した怪物の奴隷なのだ。

 でも、私にはひとつ希望がある。社会の目的が現在のように労働増殖ではなく、気持ちの良い生活を続けることとなれば、そういう未来の社会では、機械の精巧化によってきっと暮らしはシンプルになると思う。そうすれば、機械はふたたび限定的に使用されるだろう。

  ■こうした暮らしを実現できない文明社会なら
   人類は幸福になれないということだ
 人間らしいまともな暮らしについての私の要求は、これですべて明らかにした。簡単にまとめてみよう。第一に健やかな身体、第二には、過去・現在・未来に共鳴できる生き生きした精神、第三には、そうした心身にふさわしい仕事、第四には、住むにふさわしい美しい世界だ。

 これこそ、世代を問わず洗練された人間なら、何にもまして得たいと望む生活条件だ。ただ、求めても挫けることがあまりに多いため、つい、過去に目を向け、文明以前の時代を恋しく思ってしまう。その時代は、人間の唯一の仕事は日々の食糧を得ることであり、希望というものはまだ人の胸で眠っていたか、あるいは、あったとしても少なくとも表現されることがなかった。

 まったく、こういう条件を獲得したいという希望を文明社会が(多くの人が考えているように)許さないなら、人類は幸福になるのを禁じられているということだ。

 もしそうなら、進歩に切実な望みを賭けたりするのはやめたほうがいい。それどころか、人間どうしの思いやりや情愛などすべての感情も押し殺した方がいい。そして、馬鹿者どもが悪党を太らせるために作り出した富の山から、奪えるだけ奪えばいいのだ。いや、それより、人間らしく死ぬための方法を出来るだけ早く見つける方がましかもしれない。どうせ私たちは、人間らしく生きることを禁じられているのだから。

 でも、そんな捨て鉢なことをせずに、勇気を奮い起こして信じよう。現代に生きる私たちは苦難や混乱にさいなまれているとはいえ、それでも、先祖が残してくれた素晴らしい遺産に囲まれて育ってきたではないか。そして、人間を人間らしく組織する夜明けは近づいている。じっさいに新しい社会システムを築き上げるのは私たちではないし、私たちの仕事の大半は、すでに歴史的過去に為されてきた。

 私たちにできるのは、目を見開いて時代の合図に気づくことだ。良き暮らしのための条件は、獲得すべく眼前にある。やるべきことは、手を伸ばしてそれをつかむことだ。

 では、そうするために、どうするか。基本的には、自分には人間としての能力があることを感覚してもらうよう、人々を教育することだと思う。そうすれば、彼らは、すでに急速に手に入れつつある政治的パワーを自分自身のために使えるようになる。

 私的利害のために労働が組織されてきた古い体制はもはやコントロール不能になりつつあることを、分かってもらおう。そして、今や、すべての人が選択を迫られていることを知らせよう――崩れゆく旧体制から生じる混乱を選ぶのか、それとも、利潤のために組織されている労働を断乎としてすべてこの手に握り、コミュニティの暮らしのために生かすのか、と。

 利益をむさぼる者たちは労働のために必要なわけでは決してなく、むしろその妨害物である。彼らは、常に労働の恩恵に寄りかかっているから妨害物だというだけではなく(もちろん、その通りだが)、むしろ、階級としての彼らの存在自体が無駄を不可避にしているのだ。

 これらをすべて、私たちは自ら学び、そして人々に伝えなければならない。確かに、こういう仕事は時間がかかるし、面倒だ。最初に述べたように、人々は深層心理での飢餓の恐怖から変化を恐れている。だから、もっとも不遇な人ですら事態に鈍感で、動かすのは大変だ。

 そういう困難な仕事ではあるが、その結果得られるものは疑いもなく大きい。小規模とはいえ一団の人間が社会主義を呼びかけるため連帯し集まっているという事実そのものが、変化が進みつつあることを示している。

 社会の真の有機的構成部分である労働者階級は、これらの考え方を受け入れれば希望が湧いてきて、社会の変革を求めるようになるだろう。たしかに、彼らの多くは直接自分を解放する運動に参加できないだろう。なぜなら、必要な知識――平等という条件についての知識――を欠いたままだからだ。それでも、これは腐った偽物社会の分解に間接的に役立つ。

 そして、平等という叫びは止むことなく呼びかけられ、大きくなり、耳を傾けざるをえなくなる。そして、境界を越えるには、ほんのもう一歩となり、ついに文明社会は社会化される。

 そのときになって振り返れば、私たちはみな、なんと長きにわたって現在のような暮らしに甘んじていたのかと、あらためて驚くに違いない。                  (完)


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