小芸術(装飾芸術) その4

by William Morris in 1877
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました)  2017/2/15改訂

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 ■解決するのは工芸職人だ


 まがいものが氾濫する責任はすべての階級にある、と私は述べた。だが問題の解決は、工芸職人にこそかかっっている、と強調しておきたい。

 工芸職人は、世間の人のように事態に無知ではない。また製造業者や仲買人のように強欲である必要もなければ、孤立もしていない。だから、世間を教育する義務も栄誉も彼らにかかっている。しかも彼らには、結社や組織の芽生えがあり、これが任務達成をたやすくすることだろう。

 工芸職人は、いったい、いつ、この問題を引き受けるだろうか。人間のふるまいというこの重大な問題について、いつ、声を上げ、私たちが一人前の人間になるのを助けてくれるだろうか。

 いつになったら、適切な値段で楽しく品物を買う喜び、さらには正当な値段で、良い出来栄えに誇りを持って品物を売る喜び、拙速にではなくまっとうに働いて、誇れる物を作る喜びで、生活を彩ることができるようにしてくれるだろうか。ちなみに、これら三つの喜びのなかで最も大きいのは3番目のもので、こんな喜びは、世の中にほかにないと私は思っている。

 こういう人間のふるまいの問題は、テーマの枠外だと言わないでほしい。これは基本的に問題の一部で、しかも、最も重要な点だ。芸術を私たちの時代で絶えさせないために、皆さんに芸術家であってほしいと、私はお願いしているのだ。芸術家が、何があろうとも素晴らしい仕事をしようと決意している労働者でないとしたら、いったい何なのだろう。

 あるいは、こう言いかえてもいい。職人が、作ったものを装飾するのは、労働を成し遂げる人間の喜びを表わさずにはいられないからではないのか。もし仕事がうまくいかずろくでもない物しかできないなら、いったいどこに喜びがある? そんなものを装飾するだろうか。そして、労働がいつも納得いかないものだとしたら、いったい、どうして耐えていけるだろう。

 ズルをしても利益を稼ぎたいという欲望、自分の働き以上に稼ぎたいという欲望を持つと、私たちは道を誤って、まずい仕事やごまかしの仕事をしてしまう。すべての激情と同様に欲は自己増殖するが、そういう欲で積み重ねられた大小の(かね)の山は、不幸なことに、私たちを支配する見せかけの優越性を持ってしまった。そして、贅沢と見栄を好むという障壁を、芸術のなかに築いてしまった。障害のなかでもこれは明らかに最悪だ。上流階級や教養ある階級も、その俗悪さと無縁ではないし、下層階級もその見せかけにとらわれている。

 これを治すために、覚えておいてほしいことがある。私の主張をより正確に言うことにもなるのだが、そもそも、役に立たない芸術作品などというものは存在しえない。役に立たないとは、精神がしっかり統率する肉体の、必要性を満たさないということであり、健康な身体に宿る精神を楽しませリラックスさせ高めることができない、ということだ。

 この原則を適用すれば、あたかも芸術品であるかのように装った、どうしようもないガラクタが、ロンドンの家々から何トンも取り除かれることだろう。もっとも、この原則が理解され、それに基づいた行動が取られたらの話だが! 

 台所は別として、金持ちの家には、何かの役に立つと思える物は、ほんのわずかしかない。いわゆる飾り物は、それが好きだからではなく、見せびらかすために置かれている。繰り返すが、この馬鹿げた事態は、社会のあらゆる層にはびこっている。貴族の応接室の絹のカーテンは、召し使いの鬘に振る髪粉と同じていどの美的関心しか、持たれていない。他方、田舎の農家の台所は、たいてい最も気持ちのよい家庭的な場所だ。ただ、居間は陰鬱で使いものにならない。


 ■そんなに金を儲ける必要があるのか


 だから、心から良き芸術の新生を求めているなら、素朴に暮らし、簡素さを愛でるセンス、つまり心地よく気高いものへの愛を育てることが、何にもまして必要だ。田舎家でも宮殿でも、あらゆる所で簡素さが求められる。

 さらに付け加えれば、田舎家でも宮殿でも、すべての場所に清潔さと品位が必要だ。それがないのは、人間のふるまいという点で大きな問題であり、正すべきだ。清潔さと品位の欠如、さらに、人生におけるあらゆる不公平、その不公平を生み出した何世紀にもわたる無分別と無秩序、これらは改められるべきだ。

 にもかかわらず、これを最大限の範囲にわたって考えはじめた人間は、ほんの少ししかいない。都市に焦点を絞って見てみよう。商業がもたらしたあの大都市の醜悪さを、いったい、誰が気に留めているだろう。誰が、その汚さと醜悪さを抑制しようとしているだろう。思慮もなく、無責任があるだけではないか。何かを為すにはあまりにも人生は短いと無気力になっている人々、そして仕事を始めるに必要な雄々しさも洞察力もなく、次の世代に、そのまま引き渡す人々がいるだけではないか。

 いったい、
そんなに金を儲ける必要があるのか? ロンドンのわずかな泥土で得られる金のために、家並みのあいだに生える気持ちのよい木々を切り倒し、古い尊い建物を取り壊す。川を汚し、太陽を曇らせ、煙やもっと有害なもので大気を汚染する。それでも、誰も、それに心を配り改めるのは自分の責任だと考えていない。これこそ、すべて、作業場を考えない金の亡者、現代の商取引がもたらしたことだ。


 ■利己主義と贅沢のもとでは、芸術は病気になる


 ところで、科学はどうか。私たちは科学をこよなく愛し、それに勤勉に従ってきた。科学は何をしてくれるのか? 残念ながら科学は、銀行屋に、そして練兵係の軍曹に雇われてしまって忙しく、いまのところほかには何もしようとしない。

 でも、やろうと思えば、科学には簡単にできることがあるはずだ。たとえば、マンチェスターに町の煙をどうなくすかを教えるとか、黒い染料の残りを川に流さずに取り除く術を、リーズの町に教えるとかだ。最高純度のアヘンの作り方や、役立たずの大型銃兵器の生産方法を考えるのにずいぶん関心が払われているが、それと同じくらい、関心が払われてもいいことではないか。

 どのようになされるにせよ、世界をおぞましい場所にせずにビジネスをおこなおう、と発想するようにならないかぎり、人々が芸術のことなど考えるはずがあるだろうか。これらをたとえわずかでも改善しようと思えば、大変な時間と資金がかかることは分かっている。

 だが、自分のためにも人のためにも、愉快に暮らし、それを誇れるようにすることほど、良い時間と金の使い方があると思えない。そして、町々の品位を高めるために真剣に取り組めば、その結果もたらされるより良き生活は、国全体にとって、金銭に代えがたい値打ちがあるではないか。たとえ、結果として、芸術がそれで特別な恩恵を受けなくても、これは価値あることだ。

 そうなるかどうかはわからないが、人々がこれに注意を向けるようになれば、希望が持てる。繰り返すが、人々がそうならないかぎり、芸術の向上に、なんらかの希望を持って取り組むことなどできない。

 少なくとも、すべての人々が、自宅や隣人の家に、何か目を喜ばせ心を和ませる物を持つようにならないかぎり、あるいは、人間の住む街が動物の棲む野原よりみすぼらしい状態がなくならないかぎり、芸術の実践は、少数の教養人の手にほぼ独占されることになる。

 そういう少数の人たちは、頻繁に綺麗な所に出向くことができ、教育のおかげで、世界の過去の栄光を偲ぶこともでき、大多数の庶民が陥った日常生活の惨めさに目を閉じていられる人たちだ。

 だが、芸術は陽気な自由さや心の広さ、そして現実に共鳴して鳴り響くものなのだ。だから、こんな利己主義と贅沢のもとでは、病気になる。こんな排他的で孤立したかたちでは、芸術は生きていけない。

 いや、もっとはっきり言おう。私は、芸術がこんな状態で生きていてほしくないのだ。自分だけが芸術に囲まれて楽しむなどというのは、包囲下の砦で兵士たちが飢えているのに、金持ちがぬくぬくとおいしいご馳走を食べているようなものであって、まっとうな芸術家にとっては耐えられない。


 ■金持ちだけの芸術なら、いったん一掃されるほうがいい


 私は、少数のための芸術など望まない。それは、少数のための教育や、少数のための自由を望まないのと同じだ。

 いや、少数の特権階級のあいだで、貧相で薄っぺらに芸術が続くくらいなら、むしろ、すべての芸術が、しばらくのあいだ世界から一掃されるほうがいい。そういう少数の人々は、自分たちの責任であるにもかかわらず、下にある者たちの無知を嫌い、変えるために闘いもしないで、彼らが野蛮だと嫌っているのだ。

 先に述べたように、芸術が死ぬ可能性はある。だが、守銭奴の穀倉で朽ち果てるより、小麦は大地に還ったほうがいい。そうすれば、少なくとも、暗闇の土中で再び成長するチャンスがあるかもしれないのだ。

 それでも、私は、ある意味でこうも信じている――すべての芸術が清算される事態は起こらないかもしれない、と。人々がより賢明になり、もっと学ぶようになるかもしれない。私たちは多くの生活上の複雑さを、新しいからとか改善されたからとかいって、必要以上に自慢に思っているが、そういう複雑さは、そのうち役目を果たし終わり、もはや役に立たないと投げ捨てられるかもしれない。

 また私は、戦争――商業戦争も、弾丸と銃剣の戦争も――が、なくなってほしいと願っている。思慮分別を曇らせるような知識から解放されること、とりわけ、金銭欲から解き放たれること、そして、いま金がもたらしている圧倒的な優越性への執着から解放されることを願っている。

 私たちはいま、部分的であれ、自由を実現したのだから、いつの日か平等をも実現することだろう。それはまさに友愛を意味するのだから、そうなれば、貧困や、貧困から生まれるすべての呪縛と惨めさから解放されることだろう。


 ■解放された芸術は、街を林のように美しくする


 こういうすべてのことがらから無縁になれば、一新されたシンプルな暮らしのなかで、信頼できる日々の友である労働について、考える余裕ができるだろう。そして、もはや、誰も呪われた労働などと罵らなくなる。

 なぜなら、もうそのときには、人間は楽しく労働し、すべての人が、それぞれの居場所を見つけ、他人を羨まなくなっているからだ。誰も他人の召使いになれと言われることはなく、誰かを支配しているご主人様だと嘲笑されることもない。そうなれば、人々は間違いなく、幸せに仕事し、その幸せは、きっと気高い民衆の装飾芸術をもたらす。

 それは、私たちの街を林のように美しくし、山々のように元気づける。それは喜びであり休息であって、広がる田園から町に入ったときに感じるような重苦しさではない。誰の家も清らかで品位があり、住む人の心を和らげ、仕事をしやすくする。

 私たちを取りまく品々、私たちが使う品々は、すべて自然と調和し、道理にかなっており、美しい。すべて簡素でいて(きら)めきを持っており、子供っぽくもないし、鬱陶(うっとう)しくもない。どの公けの建物も、人間の精神と手腕が達成できる美しさに満ちて、荘厳であり、どの住居からも、無駄や虚飾や横柄さを示すものは消え、
すべての人が最高のものを共有している。


 ■この夢、この希望の実現に力を

 そんなことは夢だ、いままでそんなことはなかったし、これからもない、と皆さんは言うかもしれない。確かに、いままでは存在しなかった。だからこそ、世界は生きて動いているなかで、いつかそういう日が来るようにと、私は望まずにはいられない。

 そうだ、これは夢だ。だがこれまでも夢が現実となっている。素晴らしくて必要なものが、現にもたらされているではないか。かつては、それなしに暮らしており、欲しいとすら望まなかったことなのに、こんにちは、それをまるで日の光のように当たり前に思っているものがあるではないか。


 夢であるとしても、どうか、あなたがたの前に、この夢を示すことを許していただきたい。

 なぜなら、これは、装飾芸術における私の仕事すべての根底にあり、この思いが私の心を離れることはないからだ。

 そして、この夢、この希望の実現を手伝ってほしい、とお願いするためにこそ、私は今晩ここに立っている。

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