現状の下で、最善をめざすために           
――デザインとインテリアのいくつかの基本
   その4

by William Morris in 1879
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました) 2021/4/17

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習得のための職人ギルドと、バーミンガム芸術家協会のへの講演
  ■暖炉、移動できる家具、ダイニングルーム、その他

 しかし、まったくのところ、それもそれ以外のことがらも、私たちの間に合わせの住居から、装飾すべき部屋から、はるかに遠くなってしまった。さて、それから、暖炉の検討が残っている。

 これまでの家を考えるとき、この暖炉ほど新旧の違いが大きい構造物はない。古い暖炉は、素朴で落ち着けて気持ちがいい。あるいは、気品がありとても意味のある芸術品で飾られていたりする。だが、新しい暖炉は、みすぼらしく哀れで居心地が悪く、粗末な偽物装飾品、見掛け倒しの鋳鉄に、真鍮や磨いた鋼鉄などなどで、塞がれている。見るのもゾッとするし、掃除するのもやりにくい。しかも全体が、灰受け皿やストーブ囲いやラグなどのガラクタに取り囲まれている。暖炉前の床は暖かい家庭という意味にも使われるくらいだが、そのうち、始終防錆すべきだと言われる(攻められているのかどうかは別にして)暖炉前の床は、すぐに単なる言葉の彩になり、博学の文献学者でも意味が分からなくなるだろう。

 これらすべてを、あるいはできるだけ多くを取り除くよう、真剣に助言する。そうしても暮らしの見通しが完全に破壊されることなどない。それに、暖炉をどう装飾していいかわからなかったとしても、すくなくとも壁に都合の良い形の穴があり、火に耐え、かつ掃除しやすいように煉瓦かタイルで表面が覆われていればよい。それからそのなかになにがしかの鉄の籠を入れる。そうすれば、きれいにしやすい煉瓦かタイルのほんもののhearthが現れる。それなら見ても恥ずかしいこともないし、ストーブ囲いなどの防護がほとんどなくても安全だ。まずはそれで十分だ。あとは、暖炉まわりに木製品を使っているなら、それはいいことなのだが、タイルといっしょに混ぜ合わせないことだ。木の部分は壁の一部に見えるようにして、タイルは煙突の一部に見えるようにすること。

 移動できる家具については、語る時間があったとしても、大きな課題なので――あるいは大変ささいな課題といえるかもしれないが――これだけを言っておこう。あまり多くを持たないこと。単に美しいからというだけで、あるいは習慣を満足させるために所有しないこと。これはまさに自明の理ではないだろうか。しかし、そんなことをまったく考えたことのない人たちもいるようだ。一部の部屋をほとんど動けなくなるほど物であふれさせ、他の部屋は極端にむきだしにしておくのが、ほとんど全般的な習慣になっている。しかし、すべての部屋はそこに人が住んでいる趣きを持ち、訪れた人に、いわば、いつでも温かく迎えるようになっているべきだ。

 ダイニングルームは、まるで歯医者の診察室に歯を抜きに行って手術が終わったら出てくるように、食事のためだけに行くところという雰囲気ではいけない。客間は、骨折ったと言うよりも退屈するほどの、ある程度の装飾がなされたように見えるべきだ。書斎は、もちろん本があるべきだが、戦利品だけが飾ってあるようではいけない。まるで、サッカレー(19世紀英国の小説家。中流階級の風俗を描いた。代表作『虚栄の市』)が描いた俗物田舎紳士の家のようにならないように。もちろん、これは多かれ少なかれどの部屋にも言えることだ。また、すべての部屋はきちんとしているべきだが、かなり整頓されているとしても、あまりにも整然と見えるべきではない。

 さらに言うと、金持ちのどんな部屋も、素朴な人間が入ってたじろぐほど豪勢に見えるべきではない。あるいは、考え深い人間が入って恥ずかしく思うほど、贅沢ではいけない。芸術が家庭にあるとしたら、そうはならない。なぜなら、傲慢と無駄ほど芸術に反するものはないからだ。じっさい、現在の金持ちの家の装飾は、ほとんど、豪華さと贅沢を意図して作られているのではないか。そして芸術はそれに服従させられ恥じ入ってきた。それを考えると、嘆いても嘆き足りない。
 芸術は宮殿では生まれない。むしろ、そこでは病気になる。病んだ芸術を癒すには、金持ちの家ではなく、ピリッとした空気が必要だ。芸術がもう一度人類を助けられるほど健康になるには、素朴な場所で体力を回復しなければならない。つまり、農夫が野辺や丘から戻ってきたときに、風雨を避ける避難所。職人が、ちらかった機や鍛冶場や作業台から引き上げて、戻って来れるよく整えられたスペース。本の海のなかで学者が一息つける島。カンバスの林のなかの芸術家の空き地。芸術が再び家屋とは違う種類の建物でも栄冠を得るとしたら、そういうところから生み出されてくる。
 家屋と異なるその建物を、どういう名前で――教会とか理性の殿堂などなど――呼ぶかはともかく、そういうものは常に必要だ。つまり、人々が集まって、仲間や未来への大きな希望のために、つかの間の個人的悩みや家族の問題を忘れるところだ。そして、都市に住む者にとっては、一定程度、野原や川や山がないことを埋め合わせてくれるところだ。

 そういう2種類の建物が、真剣に考えなければならないものだと思う。あわせて、どんなものであれ、納屋や作業場その他が必要だろう。それ以外のものは、なんであれ静かに砕け散っていくに違いない。ただし、昔は、金持ちはなんと奇妙な醜く心地悪い建物に住んでいたのかを子孫に見せるために、歴史的観点から大都市に残しておく必要があると考えた場合は別だ。

  ■労働者とは

 今は、金持ちは芸術を求めず、貧しい者は芸術を手にできない時代だが、それでもなおかつ、芸術への何か盲目的渇望や、どこかで何かが欠けているという心の中の何らかの落ち着かなさがある。そのために、善意の人々が安い芸術はないだろうかと求める。

 だが、それはどういうことなのだろうか。金持ちの芸術、それとは別の貧しい人向けの芸術? いや、そんなことは通用しない。芸術は、社会における正義や宗教のように融通はきかないし、そんなことはしてくれない。

 では、どうなるのか。確かに芸術が安く扱われ、工芸職人がろくに食べられない時代はあった。だが、人々が言っているのはそういう意味ではない。それに、もしそうしたとしても、もはや、以前あったようなものを得るチャンスはないのだ。それなのに、なんらかの形で芸術が、いわば操作できると考えている。私はむしろこう考える。ペックスニフ(訳注:ディケンズの小説に出てくる偽善者)のように、とても才能があってじっくり教育を受けた人物は、目を凝らして書類を眺め考える。それに基づいて、食べ物もたっぷり与えられ満足した無数の操作係(彼らは労働者という呼び方を恥じて、こう呼ぶ)が、1日10時間機械のハンドルを回させ、持って生まれた才能や教育は、別な機会に取っておくようにと命じるのだ。何に取っておくのか、「余暇のために」と言おうと思ったが、じっさいのところ私には理解できない。もし、私が嫌でたまらない仕事に1日10時間も働くとしたら、余暇は政治的アジテーションに使うべきだろうが、いや、残念ながら酒を飲んで過ごすだろう。だから、その操作係は、持って生まれた才能や教育は夢見るときに使うしかないと言える。
 このシステムからは三重の神の恵みが生まれる。操作係の職工には、衣食と貧しめの住いとわずかな余暇を。それを貸し出す資本家には莫大な富と、書類を点検する管理者にはそれなりの富を。最後に、決定的に最後に、ハンドル操作係の職工が買うための溢れかえる安っぽい芸術だ。ただし、買うのは夢の中だが。

 このように実現できない矛盾をできるかのようにいう、善意で経済的な企ては、ほかにもたくさんある。爪に火を点すとか、獣脂と膠を取るために蚤をゆでるとかだ。そして、この安い芸術も、それと同様の道を辿るのだろう。

 しかし、私のなかでは、芸術はふさわしい対価を払っても安いものだと思う。対価とは、つまり、創造する作品のなかに自身の知性と情熱を注ぎ込む、工芸職人に必要なものを供給するということだ。分業――労働者がつねに仕事の細かな部分だけをして、決してほかのことを考えることが許されないことを指す専門用語だ――とはまったく異なって、工芸職人は作っている品や、似たような他の品との関係を、すべて知っているはずだ。must。仕事に対する自然な意欲がとても強く、どんな教育で無理強いしても、その人特有の好みから引き離すことはできない。自分がしていることを考える余裕が必要だし、状況や自分の気分が変われば、やり方を変えることも許される。自分が取りかかった仕事を常により良いものにするために、ずっと努力しているに違いない。誰の要望であっても、たとえ悪いものでなくても、関心が持てない仕事だと分かったら、断るはずだ。世間がどんなに望んでいたり、望んでいるつもりであったりしても、そうだ。すべてをとおして、聞くにふさわしい声を持っているに違いない。

 私はそういう人を、操作係ではなく労働者と呼ぶ。なんなら、芸術家と呼んでもいい。そもそも、私が知るかぎりの芸術家の質を述べてきたわけだから。しかし、資本家は、「面倒な奴」、急進派/ラディカルのなかの急進派/ラディカルと呼びがちだ。じっさい、面倒かもしれない――金を絞り出す機械の回転盤に挟まったただの砂粒であり、摩擦だ。

 そうなのだ、こういう人間はおそらく、機械を止めるだろう。しかし、あなたが本当に欲しいなら、そういう人を通してのみ、芸術――健やかな文明――を得ることができるのだ。だから、本当に望むなら、労働者にふさわしい対価をちゃんと払うことを、考えてみてほしい。

 ■芸術を望むのか、それともその不在を望むのか

 では、当然支払うべき価格とは何か。あなたから受け取ることができて、あなたが望むような人間たり得るものとは何か。自分や家族が欠乏や零落を恐れることのない、充分なお金。家計のための仕事(たとえそれが楽しめる仕事であっても)から離れて、読書したり考えたり、自分の命を偉大な世界の生命と結びつけるための、充分な余暇。先に述べたようなたぐいの十分な仕事と、それに対する称賛と、さらには、仲間たちとの友好を感じられる十分な激励。そして、最後に(だが、これこそがこの契約の肝心の部分だ)、芸術を当然にも共有することだ。その主要部分は住居で、そして住居に美が欠けるようではだめだ。へそ曲がりで、自然を部屋から追い出さない限り、自然は存分に美をあたえてくれるのだから。

 そういう仕事と賃金こそが、結ぶべき契約だ。世の中が仕事を望み、喜んで賃金を支払うなら、労働者はもはや不足はなくなるだろう。

 だが、世の中――つまり、現代の文明社会だ――が、そういう労働者を求めないのが確かなら、ここに私が現に息をしているくらい確かだが、芸術は死滅するだろう。なおもくすぶっている火屑(ほくず)は、もう一度炎と甦ることはなく、湿って消えてしまうだろう。まったく、恐怖のなかでよく思うのだが、「芸術の代わりに見るのはこれなのか!」。いったい、現代文明社会が、先に述べたような契約を結ぶことができるなんて、誰が言えるのか。非常に難しいということを、私はよく分かっている。それが分からない人間などいるだろうか。

 世の中は賢すぎて、「生活のためには、生きるための道理は捨て去れ」というわけだ。そして、おそらく、生活条件が複雑になればなるほど、もっともっと賢くなるのだろう。破滅を避けるための競争は、常に目前に迫って人を圧倒しているが、どんどん速くなり、ますます恐ろしくなる。だが、もし私たちが恐怖を捨てて、これらすべてに立ち向かったら、どうなるだろう。そして、私たち一人ひとりのための、生きる道理を、断固として要求するのだ。そうしたとしても、おそらく、天が落ちてくることはないだろう。

 いずれにせよ、芸術を望むのか、それともその不在を望むのか、決断しなければならない。芸術を望むなら、多くのことをあきらめ、生活状況を多くの形で変えなければならないと心づもりをしなければならない。おそらく、こう言えば分かってくれる人もいると思うが、必要な変化によって、金持ちの生活は貧しくなり、洗練された人々の暮らしは粗野になり、才能のある人々には退屈になるかもしれない――しばらくのあいだは。私たちのなかでもっとも善良で賢明な者たちが常に友人ではなく、しばらくのあいだは敵として闘わなければならない、そういう形態すらとるかもしれない。それでも、太陽が輝くように、芸術が下から登ってくるという兆しが目に見える日が訪れたら、そうすれば、もはや、金持ちの気まぐれや、いわゆる教育を受けた者の習慣的怠惰を当然にも嫌うことはなくなる。そうではなく、労働は必要なものとして、すべての人間に必要なものとして、渇望され始める。その日には、すべての問題は忘れ去られ、すべての愚かさは、私たち自身の愚かさも含めて、許されるだろう!

 一歩一歩、その日は来るに違いない。忍耐と慎重さは欠いてはいけないが、勇気はもっと大事だ。ギデオン(訳注:困難に立ち向かったヘブライ人の民衆の指導者のこと。聖書にも描かれている)の一団となろう。「恐れを抱いている者は誰でも、ギレアデ山からすぐに立ち去らせて、家に帰らせよ」だ。そして、一団のなかには、なんの幻想もないようにするのだ。勇気づけるための偽りや、正餐後の馬鹿げたおしゃべりは語り尽くされてしまった。夜明けはまだ遠いように見えるが、人は奴隷であったときですら、自由を求めていたことを忘れないでおこう。剣が毎日鍛えられたのは、人々が平和と秩序を考え始め、それを勝ち取るために努力しようとし始めたときなのだ。

 自然が私たちの前に繰り広げてくれる饗宴を思い、かつ、楽しめる者たちにとって、生活の楽しみを無駄にする奴隷制――彼ら自身の失敗からではないが、無分別となって喜びも知らない人々が、包まれてしまっている世の中――に対して抵抗するのは、権利であり義務ではないか。この反乱には勝利の希望があると、私たちは心から言える。なぜなら、暮らしに十分な芸術があるからだ。その芸術は自己満足のためでなく、私たちにさらに芸術を渇望させ、そしてその渇望によって、芸術と芸術への切望を広めようとせざるを得ない。だから、芸術が私たちと共にあるように、私たちが獲得した人たちとも共にあるだろう。だから希望せずにいられない――少しずつ、それは効果を表し、ついには、非常に多くの人々が、なんと不十分にしか芸術を持たないのかと分かるくらいに芸術を理解するようになる。そして、すべての人間が当然持つべき芸術を手にできるようになれば、暮らしはどれだけよくなることだろう。当然持つべき芸術とは、すなわち、公平な機会によって与えられたら、使えるだけの芸術ということだ。

 いったい、これは贅沢すぎる希望だろうか。今まで、多くの大義がどのようになっていったか聞いたことがあるか。最初は、聞く人はほとんどいなかった。次には、ほとんどの人が軽蔑した。最後に、すべての人が受け入れた。そして大義は実現されたのだ。         (了)
 


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