古代建築保存協会(SPAB)第12回総会講演 その1

by William Morris in 1889
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行している箇所があります)

歴史的な建物が次々と破壊されることに危機感を持ち、建築家フィリップ・ウェブなどとともに1877年に結成したSPAB。
その12回総会でモリスは、現在において過去を見い出す力の重要性と、19世紀現代の労働者の労働について触れている。

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  ■美しい古代建築の破壊は恥だ――美とロマンスの無視は、進歩ではない

 わが古代建築保存協会の仕事には二側面あるが、どうもこれらの任務は必ずしも正当な評価を得ていないようだ。

 第一の任務は、芸術的で歴史的に貴重なモニュメントが商業的観点から安易に破壊されるのを防ぐ取り組みだ。
 この第一の任務からただちに派生するのが第二の任務で、無知ゆえの間違った保存の試みを防ぐことである。無知は、結果として害をもたらすものだ。

 これらの二つの任務は矛盾しているようにみえるかもしれない。だが、話しを聞けばそうではないと分かっていただけるだろう。

 われわれが保存を願っている古い建築の重要性については、ほとんど語る必要もないだろう。ここに集まっている者は皆その価値を十分承知している。古い建物が破壊されると、痛いほどの悲しみを感じる者もいるだろう。感じるのは痛みだけではなく、恥辱も含まれている。

 われわれの時代は文明社会(私はあまりこのことばは好きでないが)と呼ばれたりするぐらいだから、長い経験を経てきた人類はかなり賢くなっているだろうと当然にも期待する。だが、その文明社会で、破壊しなくてすむものや社会の役に立つ存在が壊されているのだから、恥ずかしい話だ。この痛みと恥辱ゆえに、思いをこめて感情を表現せずにはいられなくなるときがある。

 これからみなさんに、まったく何も知らない人に言うようなかたちで話ししたいと思う。まず念頭に置いてほしいのは、世間のほとんどの人は古い建物のことを爪の先ほども考えていないということだ。古代建築の歴史など考えたこともない。このようなまったく無知の人に対してわれわれの任務を分かってもらうのは非常にむつかしい。だが、ものごとに挑戦しないようではわれわれのような組織は無いに等しいのだから、もっとも無知な人をも納得させるようやってみなければならない。

 そして、そのためには彼らの立場に立って考える習慣をつけるべきだ。そういう意味で、なぜ古い建物を壊すべきではないのかについてあまりにも当然と思える理由を皆さんにお話しすることになるが、どうか承知しておいていただきたい。

 古い建物の取り壊しに反対するのは、必ずしも歴史と芸術について明確な知識を持っている人ばかりではない。そういう知識はなくても、古い建物が綺麗でロマンティックだと感じて破壊に反対する人たちもかなりいる。でも人がそう言うと、ポドスナップ[注1]のような俗物は笑い飛ばす。政治屋ポドスナップも社交家ポドスナップも科学者ポドスナップもだ。

 だが、単純に綺麗でロマンティックだから古い建物が大切だと考える人たちは、けっきょくのところまったく正しい。ポドスナップは、ただ声が大きいだけの馬鹿者で、人間の気持ちを理解していないのだ。

 人間らしさを失っていない人間には、三つの人生の喜びがある。皆を幸福にしたいという燃えるような思いが達成されること、これは、すべての喜びのなかでも最高の喜びだ。二番目の大きな喜びは、親しい人々と織りなす関係のなかで生まれる感情だ。

 だが、それだけではない。三番目の要素は、日常普通の生活のなかで美とロマンスを見い出せる能力・習慣だ。すべての他愛もない喜びのなかで、とくにこれは最高に近いと私は思う。もっとも、美味しいものを食べすぎてあとで胃が苦しくなるという楽しみを別にしたら、の話だが。

 だから、ポドスナップには感傷的だと笑わせておけばいい。そして、私自身について言えば、私は人生のあらゆることがらに関して感傷的であり、センチメンタリストと呼ばれることを誇りに思っている[注2]

[注1]チャールズ・ディケンズの小説『Our Mutual Friend』(邦題:『互いの友』、あるいは『我らが共通の友』)の人物。典型的な上位中流階級の独善的な人間として描かれており、自分が「社会」の価値観を代表していると思い込んでいる。

[注2]モリスが芸術家出身だったため、彼はしばしば「正統派」社会主義者からは「センチメンタリスト」だと揶揄された。典型的な例は、ロンドンで国際共産主義運動を指導していたフレードリッヒ・エンゲルスの言葉。マルクスの長女夫妻に宛てた手紙で「モリスは頑固な感傷的社会主義者」で、指導している余裕などないと評している(1886年9月)。モリスは自分への評価を承知の上で、それに挑戦しているのではないか。

  ■美しくロマンティックな建物を破壊するなら、強力な公けの理由が必要だ

 だから建物が綺麗でロマンティックなら(つまり、その建物が見た目に美しく、かつ過去の生活への興味を呼び起こすなら)、その建物を破壊するにはみんなが納得する強力な理由がなければならない。どんな理由であれ、個人的な理由ではとても十分とは言えない。

 ところで社会が納得する理由という点について言えば、これまでの人生のなかで、美しい建物を破壊しても仕方ないと思える、真面目で嘘のない公共のための理由など、私は一度も出くわしたことはない。

 もちろん、破壊の私的な理由は山ほどある。たとえば年にもう五百ポンド私腹を肥やしたいとか、利害のある企業の配当金を二シリング六ペンス増やしたいとかだ。だがこのような理由は、美しくロマンティックな建物の破壊の理由としては十分ではない。

 そもそも、美を見い出す能力は芸術的能力である。美を見い出すことのできない国民は、美を生み出すことができない。仮にエリートによってほんのわずかな美が生み出されるとしても、そういう国民は全体としてはその美を認識することができない。

 どの国であれ、詩人や作家を生み出そうと思えば、自分では詩や小説を書けないが作品は理解できるという読者層が必要だ。これは視覚で成り立つ芸術の場合も同じことだ。

 芸術に関心を持たない人々のなかでは芸術家は生存することができない。そういう空気のなかでは芸術は死んでしまう。思い起こしてほしいが、芸術が偉大なのは日常生活のなかに存在しているからであり、歴史的建築物が体現しているものこそ、これだ。道理を心得た思慮深い人なら目にし愛でることのできる熟練の技や建物の楽しさ。この楽しさは、病んだときも悲しいときも、どんなときでも心を満たしてくれるものだ。

 ロマンスについて言えば、いったいロマンスとはなんなのか。ロマンティックという言葉はよくまちがって使われるが、ロマンスとは、歴史を正確に掴み取る能力であり、現在のなかに過去を見い出す力だ。

 そもそも、人類が知的能力を発揮できるのは疑いもなく幸せなことだが、なかでも、現在に過去を見る力は非常に重要な要素だと思う。

 だから、これら二つ―美とロマンス―を無視するのはけっして進歩的でも現実的でもなく、堕落なのだ。人間の生活を幸せにするこの力強い手助けを、気まぐれや一時の強欲のために破壊するのは前進ではなく、退廃だ。

  ■われわれは未来の人々のための管財人

 これらの古い建物はわれわれだけのものではないということは、わが協会の総会でも本当に真剣に語られてきた。こういう古代建築物は祖先のものであったし、われわれが裏切らないかぎり子孫のものとなる。われわれが勝手に扱っていい所有物ではないのだ。

 われわれは未来の人々のために任されている管財人にすぎない。だから、絶対に必要だという理由がないかぎり、古い建物の破壊を合理化することはできない。そして、現代ではそういう必要性など存在したことはない。

 たとえばナポリで、スラムを取り壊し再建するという意図のもとに家屋破壊が進行しているということを聞いたことがあるだろう。これは現代生活全体にかかわる広範な問題を投げかけるもので、ここで全面的に論じることはできない。だが少なくともこれは言える。

 ナポリであれロンドンであれ、祖先が建てた建築物の存在がスラムの原因ではない。むしろ原因は運命論的で怠惰な無責任さにある。そして、これこそ古い建築物を破壊してきた原因でもあるのだ。まさにこの怠惰と責任回避が合わさって、破壊すべきでないものが簡単に気まぐれで破壊され、われわれの周りに日常的に繰り広げられるべき生活――適切で当たり前の幸せな生活への転換を妨げているのだ。

 芸術作品と歴史的モニュメントの勝手気ままな破壊という問題について、これ以上論じる必要もないだろう。ひとつだけつけくわえれば十分だ。ジョン・ラスキンにならってこう言おう。恥じることは何もない――文明国のいかなる古い建物にも、それが拠って立つ土地と同じ価値があるのだ。

 イングランドに住むわれわれが、美とロマンスの記念碑を支えている土地の一角を買う喜びすら許されないとしたら、それだけの豊かさもないとしら、なんとまあ貧しい国民であることか。

  ■「保存」の名のもと、破壊につながる無知な試みが横行する

 さて、第二の任務に課題を移そう。古代建築物を保存すると称して行われる無知で無駄な試み、多かれ少なかれ破壊につながる試みにどう立ち向かうかである。

 一見すると、これは野蛮な破壊に抵抗するよりも複雑に見えるかも知れない。だが、この点でもわが協会の見解は、当然にも古代建築物保存という願いに沿ったものだ。

 そもそも建物を保存したいなら、ちょっとした気まぐれはひかえるし、おそらく一時的不便を我慢することも建物への愛ゆえに当然の義務だと思うことだろう。この世界においては絶対的で確実な成果などほとんどない。ほぼすべての成果は、なんらかの犠牲を伴っている。はっきりした知的成果を得るために必要なら、われわれは少しの時間や不便さを我慢することを広く呼びかけるだろう。

 だがその場合、成果は本物でなければならない。古い建物の場合、我慢しても救いたいと思える価値は何だろう。それは、建築物の由来に関する推測や噂などではありえない。建物それ自身だ。どんな建物なのか、われわれに何を訴えているか、ということだ。

 これらの建物の価値は一つにとどまらない。多くの要素があり、ある要素は他の要素より大切だなどと区別することは不可能だ。いったい、どの要素、どの部分を保存したいのかと問われても、唯一の保存の道は、建物を全体としてあるがままに保存することでしかないと答えざるをえない。

 つまり、建物に残っている美のすべて、ロマンスのすべてを保存するということだ。それ以下であれば、芸術作品・歴史的モニュメントそのものを伝えることにならず、一時の気まぐれが刻印された建物、われわれが見たいと思ったものを子孫に押しつけることになる。

 さて、こうした総合的な保存を考慮する場合に出てくるのが、これらの建物を時代に応じてどう使うかという問題だ。現代における使用や、日常に必要な施設としての機能をどうするのかと問題を立てれば、人々は言い出すだろう――歴史、歴史と言うが、われわれも歴史の一部だ。こういう古い建築物の歴史とわれわれはつながっているじゃないか、と。

 もちろんつながっている。そうでなければ、われわれは歴史の遺物をまるで自分のもののように大事だと感じたりしないだろう。ただその場合、歴史は贋物ではなく本物でなければならないのだ。

 軽率な人は、ここで落とし穴に落ちる。人々は言うだろう―たとえばエディントン[注3]やウィッカム[注4]のような人は、その時代の必要性や便宜性に応じて建物を扱っている。彼らは建物を修復し、広げ、改造した。われわれもそうしてどこが悪い?

 たしかに彼らは手を加えた。まあ、ノルマン式建築が垂直様式に改造されたことだけは残念だが、全体として彼らがしたことは当然だと感じずにいられない。でも、なぜ、そう感じるのだろう。それは、彼らは何かを取り去った場合かならず代わりに命ある何かを残してくれている、これがはっきり意識できるからだ。

[注3]ウィリアム・エディントン(〜1366)ウィンチェスター大主教。ウィンチェスター大聖堂やエディントン修道院建設にかかわる。

[注4]ウィッカムのウィリアム。(ウィリアム・ウィッカムとも呼ぶ。1320または1324〜1404)ウィンチェスター大主教、オックスフォード大学ニューカレッジ創始者。ウィンザー城の建設にもかかわる。

  ■かつて伝統は具体的に生きていた――いまは生活から切り離されている

 これらの建築物の生命は、世代から世代へと受け継がれてきた人類の伝統のなかに存在する。そして、中世後期の建築家たちが彼らの時代の伝統につきうごかされて働いてきたところに存在する。伝統につきうごかされ石工や大工は、彼ら自身の伝統にもとづいて建物に働きかける。

 だがわれわれの場合にはそれは不可能だ。わが時代の伝統は、そんな振る舞いを許さないし、無意識に過去を真似て作業することもできない。

 曇りなき良心でもってそうすることができないのだ。昔の親方のふりでもしないとできない。それにしても、まるでウィリアム・ウィッカムであるかのようにふるまうことは歴史の継続を認めることではなく、むしろ無視することだ。

 彼らの時代には、伝統は広く世の中で実践されていただけではない。まさに具体的な形で生きていた。古い建物を扱う人々、生きた工芸職人として体現されていた。だが今日では伝統は完全に死に、職人のあいだに存在しない。したがって歴史を継続していくには、過去について本物の知識を獲得する、あるいは注意深く過去を学ぶしかない。そして現に存在する公共精神を自覚して行動するしかない。

 過去と現在のあいだに自動的なつながりがあるかのように空想してはいけない。そんなものは存在しないのだ。ヴィクトリア女王がアルフレッド大王とは異なるように、トルコのシャーのナスレディーンとノーシバーンが違うように、現在の芸術は、昔あった当たり前の生活から切り離されてしまった。現在のシティの企業がギルドの名を使っているからといっても、昔の職人ギルドとはまったく異なるようなものだ。

 つまり、われわれは事態を直視すべきなのだ。自分を騙すわけにはいかない。感傷は持とう。だが、間違った感傷ではいけない。

 古代建築が今日存在する本質的な意義こそ、過去の芸術や過去の暮らし方についての情報を伝える遺跡だということにある。改造したりまがい物にしたりしないで使えるなら、ちょうどわれわれがいまこの建物で会議をしているように、宗教的、市民的、家庭的な目的のために使えばいい。これが古い建築を保存する最善の方法だ。

 だが繰り返すが、それを現在の本質的第一義的目的だとは思わないでほしい。そうではない。それは第二義にすぎない。どんな使用法があるとしても、建築そのものがそれとは比較にならないほどの価値を持っているのだ。たんなるレンガやモルタルとしてなら、別にそういう建築でなくてもいいのだ。金を出せばいくらでも便利な建物を建てることができるだろう。

 そんなことは簡単にできる。だが、古い建物を破壊し、その建物が持つ歴史の継続性も壊してしまえば、いったいどこでもう一度それを手に入れるのか。どこでも絶対手に入らない!もう誰の力も及ばない。

 したがって、歴史の継続という概念はあるていどの面白味はあるとはいえ、無理に適用するのは学者ぶった考えだ。まったく退屈で馬鹿げた論議というわけではないが、誤解をもとにしたものであり、古代建築の保存をめざすわが協会からいえば、建物破壊と歪曲につながりかねない。

 そういうまちがった歴史の継続性という考えにとらわれている人々は、「そんなことは無理だ。もう消えてしまった」という決定的な言葉を絶対認めようとはしない。彼らは、われわれが祖先と同じ精神で似たような仕事ができると信じている。だが、よかれ悪しかれわれわれは完全に変わってしまっており、祖先がやったような仕事はできないのだ。

 継続する歴史とはすべて、けっきょくのところ絶え間ない変化で繋がっているが、現代のわれわれは恐ろしく変わってしまった。明らかにわれわれは、そういうかたちでの歴史の担い手として自らを確立してしまったのだ。
                            (その2に続く)

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