古代建築保存協会(SPAB)第12回総会講演 その2

by William Morris in 1889
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行している箇所があります)

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  ■この劇的変化をわれわれは自覚しているのか

 このように、我々の時代の劇的に変化の規模が、どうも理解されていないのではないかと思うことがしばしばある。

 さきほど、職人たちのあいだで伝統は死んでしまったと言ったが、それだけでは、文明国で職人がおかれている状況を表現しきれない。親方のもとで働く職人たちについて言えば、もはや職人技は完全に死んだというべきだろう。現在、なんであれ技術が残されているのは、自分自身の手を使い、直接一般顧客に仕えている職人たちのあいだだけだ。つまり、画家、銅版画家、機械の発明家、実験者または科学者、それに外科医だ。

 今日ではいい家など建てることはできないが、もし足を切り落としてもらいたいなら(!)素敵にうまくやってもらえる。冗談を言っているのではない。外科医はまさにりっぱな職人の一種だと私は思う。

 昔の職人の仕事は、現代の最高の工芸職人と同様に、工夫に富み独創的で繊細だった。だが、自分の落ち度ではなく生まれた時代の環境のゆえにそういう質をまったく失った者は、過去の職人技も感性も取り戻すことはできない。

 なによりも、祖先が持っていた優れた伝統、つまり美しく繊細で独創性に満ち、工夫に富んだ仕事をするようにつきうごかす伝統に支えられていない現代の職人には、それは無理なのだ。そんな伝統は消えてしまった。

 現代の労働者を取り巻く環境と、14世紀の労働者の環境のはかりしれない相違をちょっと考えてみてほしい。

 14世紀のロンドンはどうだったか。端から端まで美しい小さめの町。低く連なる白壁の家々の通りの中央には、大きなゴシック教会が立っている。壁に囲まれた町には、大聖堂や大小の修道院があり、教会の塔や尖塔が森のようにそびえている。すべての家には、いや納屋にまで、独特で誠実で純然たる芸術がそれなりに備わっている。

 その時代と今日のロンドンの違いを考えてほしい。ロンドンの家々は、そもそも装飾しようとか建築を楽しもうという気がないし、あればあったで、ない方がよかったのにと後悔させるようなしろものだ。そして少なくとも芸術品がある場合でも、その芸術は一尺あたりいくらで買われたもので、社会すべてを支配する法則にのっとって契約条件の一部としてだけ手に入れたものだ。

 だが昔は、装飾は仕事のなかから自然に芽生えた。現代のような労働条件も昔はまったく存在しなかった。とはいえ、こうした14世紀と19世紀の町の違いだけでは、それぞれの時代の労働者の違いを言い表したことにならない。問題はそれよりずっと大きい。

 14世紀のイングランドを考えてみてほしい。人口は、少し違うかもしれないが、まあ約400万人としておこう。そしてこの400万人が建てた美しく凛々(りり)しい建物の量を考えてみてほしい。しかも400万人のなかには、もちろん女性も、子供も、働かない人たちも一定含まれているのだ。

 イングランドの教区から教区へと歩けば、それぞれに美しい教会、少なくともかっては美しかった教会を目にし、すべての町で、しばしば巨大で最高に手のこんだ重要な建物を目にする。そういう建物を見ると、われわれはそれを生み出した技術と忍耐力にたいするある種の畏敬の念でいっぱいになる。

  ■美しい古代建築は、日常的に芸術家として働く人々なしにはできなかった
    だが現代社会は労働者を機械に変えてしまった

 だが、さらに言えば、われわれが目にするこれらの教会や家々だけではなく、すでに破壊されてしまった建物や美しい修道院すべてをも考える必要がある。それらはほんのわずかな遺跡としてしか残っていない。コベットが正しくも言ったように、宗教改革の時代には、イングランドは残虐な侵略に荒らされた国のように見えたにちがいない。こうした建物には張り布をした椅子やクッションはほとんどなかったが、芸術品は多くあった。絵画、金属細工、彫刻、つづれ織りその他、途方もなく大量の芸術品がほんのわずかな人数によって形づくられていたのだ。それを想像してみてほしい。

 だから、これらの建物を中味も含めて再生するように頼まれたとしたら(われわれにその能力があるとしてだが)、こう答えなければならないだろう――「わが国にはそんな金はない。そんなことをしたらわが国の資本家はことごとく破産する」と。

 でもこれは変ではないか。なにか理由があるはずだ。考えてみればはっきりすることだが、これらの建物は、努力しなくてもそういうやり方で建築する習慣がある人々、つまり、一人残らず、多かれ少なかれ日常的に芸術家として働く人々がいなければ、けっして建築されなかったのだ。

 いったい今どこに、平凡な日常の仕事をこなす芸術家の労働者がいるというのか。彼らの仕事の仕方はどこへ消えたのか。

 壁、切石、粗石などのありふれたことでもそうだ。現在では中世の壁と同じ方法で壁を作ることはできない。会場にもいるかもしれないが、そういうやり方を試みた建築家は誰でも、私の言ったことは正しいと言うだろう。石を無意識に一定のやり方で扱う習慣は、人工的に植えつけることはできない。

 建物の生命は、こういう習慣のなかに宿るのだ。建物が物語を語っていた時代には、そういう習慣こそが物語の言語だった。言葉を破壊してしまったら物語のスタイルを回復することなどできない。残滓としての図面は残るだろう。だが言葉が消え去れば、文学も逝く。

 ひとことで言えば、その時代の芸術はその時代の生活から生まれたものなのだ。今日の生活を考えてみてほしい。昔の労働者の生活とはどんなに隔たっていることか。

 現在では、労働者は生計だけを意識して、見たこともなくたんなる抽象でしかない世界市場のためにひたすら働き、みずからの手を通過する作業そのものにはなんの思いも馳せない。

 かつては、労働者は容器を生産するために、そしてそれによって生計を稼ぐために働いた。彼らの唯一の販売先は身近にあり、よく知っている市場だった。いま労働者が作った製品は、数人の仲買人の手を経る。かつて労働者は、隣人が何を望んでいるかを知り、直接隣人のために働いていたし、中間に誰も介在しなかった。

 当時は違法だった強引な売り込みが、いまや日常的なありさまとなっている。言うまでもないことだが、強引な売り込みにもっとも長けた者が社会の一番の稼ぎ頭となるありさまだ。

  ■現在と過去のあいだの深淵を理解しなければ保存などありえない

 いまでは、人々は絶対的な雇用者の指示のもとに働き、その権限は全面的に対立する労働組合によって制限されている。かつては、労働者は、職人ギルドという媒介をとおして発揮される自分たち自身の共同の意志に従って働いていた。

 いまは、工場労働者や都会人は田舎暮らしとはまったくかけはなれた存在だ。だが、かつては、すべての者が農業に関心を持っており、家のすぐ前に緑の野原が広がるところで暮らしていた。

 要するに、両者の違いはこう表現できる――かつても、厳しい悲劇的事件は起きたかもしれないが、日常の暮らしは全体として心地よいものだった。いまは、日常生活は退屈でつまらなく変化がない。だから、たとえ多少の苦痛や怖さをともなうとしても、刺激が唯一の楽しみになっている。

 建築とはとても呼べない不潔で恥ずかしい惨めさと愚かさの塊り、われわれの町を愚弄し国の歴史を冒涜する建物が労働者を取りまいている。これが、われわれの生活の正確で適切な象徴だ。ちょうど、われわれが保存しようとしている建物や、残念なことにすでに破壊されてしまった建物が、当時の暮らしを体現して美しく人間的であるようなものだ。

 私は現在を罵りたいわけではない。それも歴史の一部であり、その悲劇的な一面にはたいへん惹きつけられる。だが、問題は、いったいどうして、この「新しさ」でもって「古いもの」を接ぎあてることができるのかということだ。そんなことは不可能だし、まったく馬鹿々々しい。原始の時代以来の周知の英知にまったく反するものだ。

 現代のわれわれと、過去の人々とのあいだにある深淵は、こんなにもはっきりしており、驚きおののくほどではないか。われわれがこれらの建物を使うために保存するとしたら、それはわれわれと過去とのあいだに横たわるこの深淵を理解することによってしかなされない。

  ■発作的愚行で破壊するのではなく、古代建築を修繕し保存し
   自然の手によるゆっくりとした腐朽による死を迎えさせよう
   、

 感傷をまったく排して、古代建築を扱う唯一の良識あるやり方を考えるとしたら、すべて取り壊してもう二度とそれについて考えないことにするか、それとも過去の遺跡として扱い、必要ならたとえ便宜を犠牲にしても保存するかのどちらかしかない。

 修復ということについて言えば、そうした建物の修復は不可能だとしっかり納得していただけたことと思う。近代文明によってわれわれが得たすべての知識と自然への支配力をもってしても、現在のシステムが機械に変えてしまった働き手を(そのときだけ)必要不可欠の伝統に導かれた自由な芸術家に変えることはできないのだ。それは両立しない。

 人々は労働者を機械にしてしまい、それによって一定の便宜を得た。それで満足すればいい。機械に人間としての労働を期待してはいけない。それは不可能なのだ。

 したがって、われわれがなすべきことは実に単純だ。まず、私人が「仕事」と利益のためにこうした古代建築を下劣にも破壊するのを防ぐことだ。そして、われわれの祖先が残してくれたこの不幸な遺跡を、修復という名の無責任から防ぐことだ。

 これがわが協会の今日的課題だ。私は他の団体にも属しており、それらの団体は自分たちの方が有益だと思っているかもしれないが、私はわが古代建築保存協会の活動はほんとうに価値があると思っている。

 われわれがこれらの建物の価値について多少間違っている場合があるとしても、つまり、たとえわれわれが思うほど価値がないとしても、それでも保存する値打ちはある。われわれは建物を修繕することができるし、修繕すれば眺めることができる。そして建物は、人間の突然の発作的愚行によってではなく、自然の手になるゆっくりした果てしない腐朽によって死を迎えるだろう。

 これはやる価値のある仕事だ。建物にどれだけ価値があるかの判断は未来にまかせればいいではないか。やりがいがあると思わないか。ほんの少しの手入れと忍耐力で、これらの古い建物はもう500年か600年持つかもしれないのだ。

 そして約束してもいいが、そうこうするあいだも、これから長ければ100年間、わが国では急激な変化が起き、現在の状況もほとんど認識できないようになる。だからこそ、この問題でわれわれが義務だと思うことを遂行しようではないか。

 そして、われわれのあとに続く者に、彼らの分を遂行させよう。それで十分だ。だが私としては、われわれが自分の分担を果たしたことに子孫が感謝するだろうと信じている
                             1889年7月3日

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