意義ある労働と無意味な労苦 その3
by William Morris in 1884
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました)
(注:この翻訳文章は『素朴で平等な社会のために』で、バージョンアップされています)
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■変化に富んだ労働を |
さらにその次に問題になるのは労働の多様性であり、これが一番大切だ。 逃れたり変えたりする望みもないままに同じ仕事を毎日強制されるのは、監獄生活の拷問のようなものだ。こんなことが必要なのは、儲けを搾り出すための圧制だけだ。 机に向かっての作業から屋外作業を含めて、人間は最低三つの技能を簡単に学び実践することができると思う。屋外の作業は身体のエネルギーもかなり必要だが、頭脳はもっと使わないといけない。たとえば、土地を耕すことはもっとも必要で楽しい仕事だが、これを生活の一部にしたいと望まない人など、ほとんどいないだろう。 このように多様な労働を可能にするには、社会的な仕組みが整えられた共同体での教育が必要である。 現在の教育はすべて、商業主義の階級序列のなかに人間を雇用主や労働者として組み込んでいくためにおこなわれている。雇用主のための教育は労働者の教育と比べてお飾り程度だが、やはり営利目的だ。古くからの伝統ある大学ですら、長期的に元が取れるのでない限り、学ぶということにほとんど関心を払わない。 来るべき教育の眼目はこれとはまったく違う。異なる一人ひとりが何に向いているかを見つけ、人々が進みたい道を歩んでいけるように手助けする。だから、然るべく組織化された社会では、教育の一環として青少年に好みの手工芸が教えられるだろうし、心身の鍛錬も課題となる。 教育のあらゆる目的のなかでも、個人の能力の発達がもっとも大きい目的だ。だから、子どもたちは、心身の鍛錬である教育の一環として自分たちの好きな手工芸を習う。成人も同じように学校で学ぶ機会が与えられる。すべての能力が自分やご主人様の「金儲け」という偉大な目的のために従属させられている現在と違って、教育が目指すのは基本的にそれぞれの能力の発達なのだ。今日の体制下では、多くの才能ある人や天才すらもが押しつぶされ搾り上げられてしまっているが、未来社会では人々の才能が引き出されるから、日々の労働が楽でしかも楽しいものになるだろう。 この多様性というテーマに関連して、ある産業について述べておきたい。その産業は、あまりにも多大に商業主義の被害をこうむってしまったため、ほとんど存在しないほどだ。そして、われわれの時代ではあまりにも異質になってしまったので、この問題について述べても理解がむつかしい人もいるのではないかと思う。だが、これは本当に重大なテーマなので、そういう人がいるとしても語っておきたい。 私が言わんとしているのは、ふつうの労働者がふつうの労働をしているときに実現されているし、されるべきである芸術の分野だ。だから、それを民衆の芸術と呼ぶ。 繰り返しになるが、この芸術は商業主義に殺されてしまって今では存在しない。だが、人間が自然に向かい合い始めた原始から現在の資本主義が勃興するまでは健在で、たいてい栄えていた。その頃は人間が作ったものにはすべて装飾があった。ちょうど自然が作ったものが母なる自然によって飾られていたようなものだ。 職人が自らの手でものをかたち作るとき、とても自然に、まったく無意識に飾りを加えるので、どこまでが実用的で、どこからが装飾かを見分けるのがむつかしいほどだ。 だから、この芸術の起源は、労働者が自分の仕事に変化が欲しいと思ったことにある。変化をつけたいと思って生産された美は、それ自体が世界への素敵な贈り物だ。でもさらに大事なのは、労働のなかで変化と喜びが獲得されたということだ。これによって、すべての労働に喜びという刻印が押された。 だがこれらはすべて、文明社会の労働からは消えうせてしまった。もし装飾が欲しければ、特別にそのために支払わなければならず、労働者は他の商品と同様に装飾品の生産を強要させられる。労働者は人間の手で美を生み出すために、無理に仕事が楽しいかのようにふるまわされる。 かって労働の慰めだったことが、現在は余分な重荷となる。装飾はいまや愚劣で無意味な苦役だ。足かせのなかではもっとも楽だとすら言えない。 |
■気持ちの良い環境で働けること |
さて、短い労働時間、労働の有意義さの自覚、さらに多様性のほかに、労働を魅力的にするために必要なことがらがある。それは、快適な環境だ。 工業生産に必要だと称して、文明社会は惨めで汚い環境を悦に入って受け入れているが、必要だというなら、社会一般だけではなく金持ちの家も同様に汚れていていいではないか。ところが、金持ちが石炭の燃え殻を応接室一面にばらまいたり、食堂の四隅に便器を置かせたりしていたらどうなる。埃をばらまき、元は美しかった庭に塵の山を作ったり、シーツを一度も洗わずテーブルクロスも換えず、家族五人をひとつのベッドに寝かせたりしたら[注6]、その男はまちがいなく「狂気」と見なされ、精神病棟へ引きずり込む手が伸びることだろうに。 だが、こういう悲惨で愚劣なことが必要とみなされ、日常的に強制されているのがわれわれの社会なのだ。これこそ狂気以外のなにものでもない。もう一刻の猶予もできない。ただちに、それは狂気だと文明に宣告してほしい。 人口過剰の町、唖然とするような工場建屋はすべて、ただただ儲け優先ゆえにもたらされた。資本制工業、資本制土地所有、資本主義の交換システムによって人々は大都市に吸い込まれるが、それも人々を操って利益を得るためなのだ。この同じ圧政が工場のスペースを極端に縮小する。だから、ごりっぱな織屋も、内部にはあきれ返るほど機械と人が詰め込まれ、身の毛がよだつ。 こんな状態にする必要がどこにある。人の命から利益を搾り出そうと思うから、こうなる。酷使する奴隷に使わせ(服従させ)るために安い商品を生産しようと思うから、こうなるのだ。もっとも、まだすべての労働が工場へと駆り集められているわけではない。残虐なほどの儲け主義で発想しなければ、工場に集める必要などほとんどない。こういう労働に従事している人が、密集した都会の一角に無理やり豚のように集められなければならない理由など、まったくないのだ。 静かな田舎の家や、集団作業場や、小さな町など、それぞれが一番幸せに暮らせるところで職業を追求してはいけない理由はどこにもないのだ。 大規模に共同作業をした方がいい労働について考えても、一定の道理にかなった状況下でこの工場システムを取るとしたら(私にはそれでもまだ問題があると思えるが)、少なくとも、いろんな楽しみに取り囲まれ、充実し熱意にあふれた社会生活の機会が与えられるべきだ。 工場は、知的活動の中心でもありうるだろうし、そこでの労働は変化に満ちたものであるべきだ。機械を使う必要があっても、一日の労働のわずかな時間とする。その他の仕事は、周りの田舎での食糧の栽培から、芸術と科学の学習と実践まで、多様にする。 もちろん、そういう仕事に就く人々は自分の生活の主人公なのだから、先見の明の欠如のために、あるいは急を要するからといって、不潔で無秩序な狭い場所に押し込まれたりしてはならない。科学が適切に適用されて塵埃は取り除かれ、現在複雑な機械を使うときの不便さ(煙、悪臭、雑音など)も、完全ではないとしても最小限に抑えられるべきだ。 人々が働いたり、暮らしたりする建物も、美しい地球の上の醜いしみのような状態で辛抱する必要はなくなる。人々は、工場、建物、納屋を自分たちの家と同じように、まずはまともで使いやすいものにする。そして、悪くもないし不快でもないという状態からさらに改善して、美しい場所にまでするだろう[注7]。そして、商業的強欲さに殺されて久しい建築という光栄の芸術がふたたび生まれ、花開くことだろう。 そういうわけで、然るべく組織された共同体においては、労働は実用性を意識し知的興味を持って遂行され、多様性があり、良い環境でおこなわれるので、魅力的なものとなると、私は主張してきた。同時に、みんなも思っているように、うんざりするほど労働時間が長くてはならないとも主張した。 だが、「最後の主張点である時間短縮は他の4点とどう両立するのか。労働がそれほど洗練されていたら、できた品物は(時間がかかって)とても贅沢な物になるのではないか?」という疑問が出るかもしれない。 [注6]現代のわたしたちには、ここに描写された部屋の様子は、まるであくどい戯画のように思えるかもしれないが、当時は、これが実際に多くの労働者の部屋の現状だった。ひとつのベッドに何人も寝るために頭と足をたがいちがいにしたという。 [注7]モリスの主催する講演会でよく講演したアナーキストのピュートル・クロポトキン(1842-1921)も、『田園、工場、仕事場』という著作で、これと似通った牧歌的な工場のイメージを理想として描いている。 |
■実用主義的な過渡期も、平等と自然の美があれば |
確かに、先にも述べたように、労働を魅力あるものにするためには、他の面では一定の我慢が必要なことは認めざるを得ない。 時間短縮について言えば、将来の自由な共同体においても現在のように不潔であわただしく無秩序で心のこもらない労働で満足するなら、(あらゆる種類の労働を総合して言えば)想定時間より大幅に削減できるかもしれない。しかし、それでは、いくら新しく自由を獲得しても、(現在のように不安には満ちていないとしても)生活は落ち着かない惨めなものになる。それでは意味がないのではないか。 だから、共同体全体が求める望ましい水準にまで生活条件を上げるためには、必要な我慢はすべきではないか。いや、もっと言えば、生活水準を上るために、一人ひとりが負けじ魂を発揮して、自分の意志で時間と休息を犠牲にしていいと思う。 こうして、個人や同好の士が、仕事を愛し生産する物を愛して、皆に役立つ生活装飾品を生産する。それは、創造の喜びに突き動かされておこなう労働であり、現在のように買収されて少数の金持ちのためだけに生産する(あるいは生産しているふりをする)のとは異なっている。 文明社会が始まって以来、まったく芸術や文学ぬきの暮らしが試みられたことはないけれども、あまりにも腐敗退廃した文明の灰の中から生まれた未来社会は、芸術や文学の喜びを味わっていられないかもしれない。もしそうなら、実用主義一点張りの時代でも、過渡期として、将来あるべき芸術の基礎として受け入れようではないか。 街から体の不自由な人や飢えて痩せこけた人がいなくなるなら、地球がすべてをみな等しく養ってくれるなら、太陽がわれわれすべてをみな等しく照らしてくれるなら、そして昼も夜も夏も冬も地球が壮麗なドラマを繰り広げ、一人ひとりに地球を理解させ愛させてくれるなら、少しのあいだくらいは耐えて待てることだろう。そしてそのうち、人類は恥ずべき過去の腐敗から清められる。そして、奴隷の恐怖や強奪の恥辱から解放された人々のなかから、ふたたび芸術が勃興するだろう。 いずれにしても、そうするあいだもおこなわれる洗練された労働、深い思想に富み綿密に熟考された労働は、きっと骨折りがいがあるものにちがいないし、長時間強制されるものでも決してない。 ここで、機械の問題が出てくる。昔の人間にとってはとっぴな夢のように思える機械が現代では発明された。だが、このような機械をわれわれはまだ使いこなしていない。 これらの機械は、期待をこめて省力機械とふつう呼ばれるが、期待どおりになっていない。そういう機械が実際にしていることは、熟練労働者を不熟練労働者の位置に切り下げ、「労働予備軍」の数を増やしているだけだ。つまり、労働者の生活をより不安定にし、(まるで主人に仕える奴隷のように)機械に仕える労働者の労働を強化する。 つけくわえていえば、雇用者はそれらすべてを利益を山と積み上げるためにおこなっている。激烈な商業戦での利益拡大に労働者を動員するためにおこなっている。 真実の社会で初めて、奇跡の発明は、魅力的でない労働の時間を最小限にするために使われるだろう。非常に時間短縮されるので、個人の負担はとても軽くなる。しかも、個人的に「元が取れる」かどうかではなく、共同体に恩恵を与えるかどうかで判断されるとなれば、機械はもっと改良されるようになるにちがいない。 それが機械のあたりまえの使い方になる。そしてしばらく経てば、人々はひたすら生活の糧を思いわずらう必要がないことを知り、自分の手を使って働く手工芸に興味と楽しみを見出すようになるだろう。そうなれば、機械の使用はあるていど限られてくる。思慮と熟考のもとになされた手工業は、機械労働よりももっと魅力的となるだろう。 もう一度言おう。毎日の飢餓の恐怖から解放されれば、人々は本当に何が欲しいのかを見つけだし、自分自身の必要性以外の何ものにも左右されないだろう。 現代で贅沢品と称されるただの空虚な品や、安いといわれる害毒のような商品やガラクタを作ることを拒否するだろう。召使い用のビロードの半ズボンも、それを着る召使いがいなくなれば誰も作らない。本物のバターが買えない貧困状態を強制されなくなれば、誰もマーガリンを作って時間を無駄にすることもないだろう。粗悪品法は、強盗たちのいる社会でのみ必要だが、そういう強盗社会では、法律も死文にすぎない。 |
■未来社会では危険で嫌な仕事はどうするか |
よく聞かれる問題に、社会主義者は危険な仕事や人が嫌がるような仕事を新しい条件下でどう扱うかという議論がある。 こういう質問に完璧に公式に答えるのは、古い社会を原料にして新社会プランを作成するようなもので、不可能に近い。その古い社会の素材のうちの何が消え失せ、一大変革を経た進化のあとで何が生き残るのかを知るまでは、それに答えるのは不可能だ。 とはいえ、どういう条件が取り決められるべきかを想定してみるのは、そうむつかしいことではない。 まず、もっとも危険な仕事を最短期間だけに留めることだ。ここでも、多様で変化のある労働が必要だと述べたことがまたあてはまる。果てしなく続く不快極まりない仕事に絶望しながら人生のすべてを費やすなどは、神学者が描いた地獄にはぴったりだろうが、それ以外の社会形態にはまったくふさわしくない。 それにもう一点、その危険な仕事が特殊なものであれば、それに挑戦するボランティアを特別に募集することも可能だ。奴隷であったときに持っていた人間らしい輝きを、自由を得た人々が失っているなどとは思えないから、そういうボランティアは必ず名乗り出てくるだろう。 とはいえ、私はこうも思う。どう改善しても気分の悪くなるような仕事でしかなかったら、どうするか。つまり、期間を短くして繰り返す間隔をあけても、あるいは、自由意志で取り組むボランティアが育む特別で独特な貢献の実感(したがって名誉)でもってしても改善できないとしたら、どうするか。どうしても労働者にとって拷問以外のなにものでもない労働なら、どうするのか? それなら止めればいいではないか。やらなければ天が落ちてくるかどうかを見てみればいい。しなくてすめばその方がいいに決まっている。それに、そういう労働の生産物が苦労に値するはずがない。 さてわれわれは、「いかなる条件下でもすべての労働は神の祝福だ」というなかば神学的な教条が、偽善的で間違いだということを見てきた。これは他面から言えば、休息と喜びへの正当な希望が伴うなら労働は良いものだということだ。 われわれは文明社会の労働を秤にかけ、ほとんどの場合、それには希望が欠けており不十分だと見い出してきた。そして、文明が人類への恐ろしい呪いを産み出したことを知った。しかし同時に、もし労働が愚劣さと圧制によって、あるいは敵対階級の絶え間ない争いによって無駄にされなければ、世界中の労働は希望と喜びに満ちておこなわれるかもしれないことも見てきた。 |
■心に抱いた未来の平和が、 混迷と悩みに満ちた人生を照らしてくれる |
したがって、われわれが希望を持ち喜びに満ちて生活し労働するために必要なのは、平和である。人々はよく平和を熱望すると言葉では言ってきたが、実際には、これまで必ずずっとそれを裏切る行動がおこなわれてきた。現代のわれわれこそは、心から平和を念じ、どんな犠牲が伴おうともそれを勝ち取ろうではないか。 だが、果たしてどういう犠牲を払わなければならないのだろう。それは誰にもわからない。平和を平和的に勝ち取れるだろうか。いったいどうしたら、そんなことが可能だろう! われわれは不正と愚劣さにこんなにも厚く取り巻かれており、どういう形であろうと、つねにそれと闘っていなければならない。 おそらく、われわれ自身は、生きているあいだにこの闘いの結末を見ることはないだろう。出口の明かりをはっきり見ることすら、たぶんないだろう。おそらく、闘争が日に日に鋭く激しくなり、ついには、「平和的」な商業という緩慢で残酷な方法に代わって、公然と人間を殺害する本当の戦闘が勃発する時代を見るのがせいぜいではないか。 それを目の当たりにするまで生きるなら、かなりのことを見たことになる。なぜならそれは、富裕階級が自分たちの不正と強奪を自覚して意識的に公然たる暴力で防衛しだしたということであり、結末が近づいていることを示すのだから。 いずれにせよ、平和のためのわれわれの闘いが現実にどういうものになろうとも、それだけを一心に確実に目的として据え、いつも見失わないようにしよう。そうすれば、心に映った未来の平和は、混迷と悩みに満ちた人生を照らしてくれることだろう。その悩みが些細に思える場合にも、あるいは明らかに悲劇的な場合でも、道を示してくれることだろう。 そしてわれわれは、少なくとも、希望のなかで人間らしい人生を送るのだ。この現代世界において、これほどやりがいのあることはほかにありえない。 (完) |
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