意義ある労働と無意味な労苦 その2

by William Morris in 1884
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました)
(注:この翻訳文章は『素朴で平等な社会のために』で、バージョンアップされています)

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  ■みずからの資源を無駄にする文明
 文明国家での労働の在りようについて要約しよう。文明国家は三つの階級から成り立っている。労働しているふりすらしない階級、労働しているかのようにふるまっているが何も生産しない階級、そして労働する階級だ。この労働する階級は、他の二階級から労働を強制されているが、それはしばしば非生産的な労働だ。

 したがって、文明はみずからの資源を無駄にしている。現在の体制が続くかぎり、その無駄は続く。冷たい言葉だが、これがわれわれを痛めつけている圧制なのだ。冷たいと思うなら、どうか、その意味を考えてみてほしい。

 世界には、ある程度の天然資源と自然力がある。また、そこに住む人間の身体にも一定の労働力が内在している。人間は何千年ものあいだ、必要に迫られ欲望に刺激されて自然の力を征服し資源を自分たちに役立たせようと労働してきた。未来が見えないわれわれの眼には、自然との闘いはほとんど終わり、人類はほぼ完璧に勝利したかに映る。歴史が始まったときから見れば、この200年の勝利はこれまでのどの時代よりもテンポが早く、その進展は驚くほどだ。

 だから、現代人は、以前のどの時代の人に比べてもずっと裕福なはずだ。自然を克服して手にした良きものにゆったりと囲まれ、一人残らず豊かなはずだ。

 だが、事実はどうか?文明人の大多数が貧困のなかにあることを否定できる人など、どこにいるだろう。あまりにも貧しすぎるから、「彼らの方が祖先より少しは豊かなのではないか」などとわざわざ議論するのが子供じみてみえるほどだ。

 大多数の人々は貧しい。彼らの貧しさは、資源のない未開人の貧困と比べることはできない。なぜなら未開人は、その貧困以外には何も知らないのだ。空腹で寒さに震え住む家もなく不潔で無知であったとしても、それは未開人にとっては自分の皮膚と同じくらいに自然なことだ。しかし、ほとんどのわれわれ現代人は、文明によって欲望を呼び覚まされているのだ。

 それでいて、文明はその欲望を満足させてくれない。文明はしみったれであるだけでなく、拷問的ですらある。

 このように、自然は克服されたにもかかわらず、その実りは奪われ、われわれの手中にはない。自然がわれわれの内部に作り出した衝動――休息し獲得し、楽しむという希望に満ちた労働の衝動――は変質させられた。ただ生きながらえる――それも働くためだけに生きる――という衝動に変えられてしまったのだ!

 では、いったいどうすべきか? これを改めることができるのか?

 もう一度思いを馳せてほしい。自然との闘いに勝利したのは、はるかな祖先ではない。わが父親たちだ。いや、われわれ自身ではないか。そのわれわれが、希望を失い頼るすべもなく座りこんでしまうのは、本当に奇妙で馬鹿げたことだ。これは絶対に正せるはずだ。そういう確信を持とう。そのために最初に何をなすべきか?

 現代社会が二つの階級に分かたれ、一方の階級が他の階級の労働によって維持されるという特権を持つことを、これまで見てきた。

 つまり、その階級は他の階級に労働を強い、この下級の階級から奪えるものはすべて奪う。そして、その奪った富を使って優越した地位を維持し、自分たちをより高い存在にしようとする。他の階級よりも長生きし、より美しく、より敬われ、より洗練された存在にしようとする。

 その階級は本当に長生きし美しく洗練された存在でありたいと気にかけているわけではない。ただ、劣等な階級と比較すればそうなると彼らが言っているだけだ。また彼らは下層階級の労働力を真の富の生産のために公平に使うことができず、その労働力はすべてがらくたの生産のために無駄にされる。

 この少数者による強奪と浪費こそが、多数を貧窮のなかに閉じ込めているのだ。社会の維持のためにはこれを甘受すべきだというなら、もはや言うべきことはほとんどない。絶望した多数の者が、そのうちいつかは社会を破壊してしまうだろうと指摘するのみだ。

 いずれにせよ、明らかになってきている事態は正反対だ。たとえば(いわゆる)協同組合のような不完全な実験的取り組みにおいてすら、富の生産のために特権階級はまったく必要でないことが示されている。特権階級は、富を生産する労働者の「統治」のために存在しているだけだ。すなわち、特権階級は特権の維持のために存在している。

  ■生産せずに消費する特権階級の廃止を
 したがって、なによりもまずやるべきことは、特権階級の廃止だ。人間としての義務を回避して、自分が拒絶する労働を他人に強制する、そういう特権階級の廃止だ。

 すべての人間は能力に応じて働き、自分が消費するものは自分で生産しなければならない。誰でも働けるあいだは暮らしていくために働くべきだ。そのかわり、その暮らしは保証されなければならない。つまり、その人は社会が個々の構成員に与えるすべての恩恵に浴すべきだ。

 そうすれば、真の社会の基礎がついに据えられる。その社会は条件の平等という土台の上に成り立つ。誰も他人の便宜のために苦しめられることはない。いや、誰一人として、社会の都合で苦しめられることもない。そもそも、一人ひとりの利益が守られない体制は、社会と呼ぶことはできない。

 現在、多くの人間がまったく生産せず多くの労働が浪費されているなかで、人々がひどい暮らしをしているわけだ。だから、全員が生産し、どんな労働も無駄にしないという条件のもとなら、きっと、みんなが自分の労働にふさわしい富を共有する希望を持って働けるはずだ。それだけではなく、それにふさわしい休息も共有することができるはずだ。

 ここでは、さきに述べた意義ある労働の三つの本質的要素のうちの二つまでが労働者に約束されている。階級的強奪が廃止されれば、すべての人間が自分の労働の果実を手にすることができ、そして適切な休息(これが余暇だ)も得られる。

 ところで、社会主義者のなかにはこれ以上求める必要がないという人もいるだろう。つまり、労働者が自らの労働の生産物を完璧に獲得でき休息もたっぷり取れるならそれで十分だという社会主義者もいるかもしれない。

 確かに人間による圧制への衝動はこれで廃止できるかもしれない。それでも私は、自然が強いた衝動の見返りを求めたい。労働が嫌悪感を抱かせるようなものであるかぎり、それは日々の重荷となる。たとえ労働時間が短くなったとしても、それでは生活が損なわれる。

 われわれが実現したいのは、喜びを減少させることなく富を増やすということなのだ。労働が生活の楽しみの一部にならないかぎり、自然を最終的に攻略したことにならない。

 人々を不必要な労働の強制から解き放つための第一歩は、少なくともこの楽しい結末を視野に据えて、まず踏み出すことだろう。そうして初めて、楽しい労働を実現する時間も機会も持つことができるだろう。

 現在のように、労働力がまったくの怠惰で浪費されたり非生産的な労働で浪費されている状況からいえば、文明世界をじっさいに支えているのはほんの少数の人々なのは明らかだ。

 もしすべての人が自分を支えるために役立てば、そして、われわれの生活水準をいまの富裕層や洗練された層が望ましいと思うレベルの基礎的な程度におさめれば、各人が分け合わなければならない労働は少なくなる。そうすれば、余分の労働力が生まれ、満足できる程度に豊かになるし、暮らしも楽になるだろう。

 現在の体制下では、朝目覚めて「生活が楽になった」と感じたとしても、感じたそのとたんに、体制はわれわれに労働を強い、生活はまた厳しくなる。それを「能力の開発」とかなんとか、りっぱなフレーズで呼びたければ呼べばいい。われわれの時代では、労働の増殖は必然的で、これが続くかぎりは、どんなに巧みな機械が発明されても本当にわれわれのためにはならない。

 新しい機械はみな、産業をかき乱しそこで働く者を悲惨な状態に落とし入れる。非常に多くの者が熟練労働者から非熟練労働者へと引きずり下ろされ、そのあと次第に事態はおきまりのところに収まり、すべての労働者が表面的にはまたスムースに労働するようになる。これだけで革命が起こるというわけではないが、もっと多くの者がその「素晴らしい新発明」の前にどんどん引きずり出されていくにつれ、事態はそう進むかもしれない。

■豊かになった労働力をどう使うか
 革命が実現し「生活が楽に」なり、すべての人が仲よく協働して、労働者の時間、つまり生活そのものを奪う人は誰もいない――そういう未来では、自分が欲しいと思わないようなものや無に等しいものを無理に作らせられることもない。

 そうすれば、ゆっくり落ち着いて、豊かな労働力をどう使うかを熟考できるようになる。私自身の考えを言えば、その富や自由を使って、なによりもまず、もっとも必要でまったくありきたりな労働も含めて、すべての労働を誰にとっても気持ちの良いものにするべきだと思う。というのも、いろいろ考えてみて私はこう思うのだ。人生には事件や悩みがつきものだが、それでも暮らしの細部すべてに楽しい興味を持てるなら、確実に幸せに生きることができると。

 ひょっとして、この主張はあまりにもありきたりで、わざわざ言う必要などないと思う人もいるかもしれない。でもそれなら、現代文明ではそれがいかに許されていないかを思い浮かべてみてほしい。貧乏人の生活はなんとみすぼらしく、恐ろしい状況に置かれていることか。金持ちは金持ちで、なんと機械的で空ろな生活を強いられていることか。

 そしてなんと少ない休日しかないことか。こんなに休日が少なくては、誰も自然の一部だと感じるゆとりなど持てない。人の暮らしはいろんな小さな出来事が連鎖して紡がれ、他人の生活とつながって偉大な人類全体の生活を築いていくわけだが、そういう自分の暮らしについてゆったりと思いにふけり、その幸せな気持ちでその移ろいを心に暖めてみたりすることもできない。

 だが、われわれがすべての労働を道理にかなった心地よいものにつくりあげようと決心すれば、生活全体がそういう休暇となることだろう。もっとも、そうするためには、本当に断固とした意志を持たねばならない。ここでは中間的妥協策はなんの役にも立たない。

 なぜなら、すでに述べたように、現在のわれわれの索漠とした労働や、追われる動物のように不安と恐れでいっぱいの生活は、特権階級の利益創出のために現体制によって強制されたものだからだ。これがどういう意味かを説明しよう。

 現在の賃金と資本の制度のもとでは、「製造者」(manufacturerとは、まったく馬鹿げた呼び名だ。それは本来、自分の手を使ってものを製造する人という意味のはずなのに)は生産手段を独占し、すべての人間の身体に内在する労働力は、その生産手段とともに生産のために使用される。

 製造者はそういう特権を持ち、持たない人のご主人様というわけだ。彼らだけがその労働力を利用することができる。他面から言えば、資本家にとって労働力とは、資本(過去の労働を蓄積して作り出されたもの)を生産的たらしめる唯一の商品だ。したがって資本家は、資本を持たず労働力を売ることによってしか生きられない人々から労働力を買うわけだ。

 資本家が交換する目的は資本を増加させること、増殖させることである。だから、労働者たちが生産したものすべての価値を労働者に支払っていては目的が達せられない。資本家はすべての生産的労働の手段を独占しているので、自分に有利で労働者にとっては不利な取り引きを強いることができる。

 その取り引きとはこうだ。生産されたもののうち、労働者が反抗せず穏やかに服従する程度に見積もられた生計費を引いたあとの残りの部分(しかも、それは実際かなり大きい部分だ)は、資本家のものとなる。好きなように処分できる資本家の財産であり、使おうが乱用しようが思いのままだ。

 そして、われわれがみんな知っているように、その財産は陸軍や海軍、警察や刑務所によって、つまり大量の物質力によって油断なく守られているわけだ。しかも、無産大衆の側の迷信や習慣や餓死への恐怖、一言で言えば彼らの無知によって、有産階級がこの大量の物質力を奴隷服従に使えるようになっているのだ。

■現体制下では魅力的な労働は獲得できない
 別の機会があれば、この体制の他の問題点について語ろう。だが、私がいま指摘したいのは、現体制下では魅力的な労働を獲得することは不可能だということだ。そして繰り返して強調したいが、この略奪(これ以外に表現のしようがない)こそが、文明社会に与えられた労働力を無駄にし、多くの人間に何もさせず、そしてもっともっと多くの人になんの役にも立たないことを強制し、本当に必要な労働をしている人間には耐え難い過労を強いているということだ。

  今こそ分かってほしい。他人から盗んだ労働力を手段として生産する「製造者」の基本的目的は、品物の生産ではなく利益の生産なのだ。利益とは、労働者の生計や機械の減価償却費をはるかに越えて生産される富のことだ。「製造者」は、この「富」が本物かまがいものかなどにはなんの関心もない。それが売れて「利益」を生めばそれでいいのだ。

 さきに述べたように、一方には、適当に使うことすら無理なほどの大金を持つ人がいて、彼らがまがいものの富を買うから無駄が作られる。他方には、作るに値する良品など買えない貧困層がいて、彼らのために無駄な粗悪品が作られる。だから、資本家が「供給」する「需要」はみせかけの需要だ。資本家が売買する市場は、賃労働と資本の強奪的体制がつくりだした悲惨な不平等によって「装備」されている。

 したがって、すべての人のために楽しく意義ある労働を獲得しようとするなら、取り除かなければならないのはこの体制なのだ。

 労働を魅力あるものにする最初の一歩は、労働を実りあるようにする方策を取ることだ。土地や機械や工場などを含めた資本を共同体のものにし、それがすべての人のために平等に使われるようにすることだ。そうすれば、われわれはみな、一人ひとりの本当の「需要」に「供給する」ために働くことができる。市場利益向けの需要に応じるために働くのではなく、また利益のために働くのでもなく、生活のために働くことができる。利益とは、意志に反して他人を無理に働かせる力なのだ。

 この一歩が踏み出され、すべての人間が働かなければ自然はわれわれを餓死させることを人々が理解し始めたとき、人々がもはや盗みの一形態を許すような馬鹿でなくなったとき、そういう幸せなときが訪れたら、われわれはこうした無駄の悩みから解き放たれることだろう。

 そうすれば、さきにも述べたように、人間は大量の労働力を見い出し、道理にかなう範囲で楽しく生きることが可能となるだろう。現代文明社会に生きる多くの人々には、未開人が感じたのと変わらないくらいの飢餓の恐怖がとりついているが、もはや、そういう恐怖に駆り立てられて慌ただしく働くこともなくなるだろう。労働力が少しも無駄にされない共同体においては、基本的必需品をみんなに与えるのはまことに簡単だ。だからわれわれはあたりを見回して、エネルギーを酷使することなく手に入る本当に欲しいものを考える時間ができるだろう。

 人々はしばしば、現在の上下関係による強制力がなくなれば人はみな怠け者になるのではないかと恐れるが、そういう観念は、実は、現在われわれのほとんどが耐え忍ばなければならない過剰労働・ぞっとするような労働の重荷ゆえにつくりだされた恐怖でしかないのだ。

 もう一度言おう。のんびりした時間を犠牲にしても惜しくない、そう感じるために一番必要なことは労働そのものを魅力的にすることだ。

 この目的達成には少しは辛抱がいるだろうが、そんなに長期にわたって辛抱することはないだろう。というのも、闘いと革命の時期を切り抜けてきた人々が、実用主義一点張りの生活を長いあいだ我慢したりするはずがないと思うからだ。もっとも、ときどき無知な人は、社会主義者がそういう実用一点張りの生活をめざしているかのように非難するけれども。

 ただ、現代生活における装飾の分野はすでに芯まで腐ってしまっているために、ものごとの新しい仕組みが実現する前に、いったん完全に拭い去ってしまわなければならないということは言える。もはや現代装飾には何も残っていないのだ。商業主義の圧制から解き放たれた人間の向上心を満足させるようなものは、現代装飾からはまったく生まれてこない。

■すべての労働がいそいそと陽気におこなえる社会
 われわれは、生活における装飾をもう一度構築しはじめなければならない。それは暮らしの喜びであり、心身の全体で味わうものだ。そして科学的にも、芸術的にも、社会的にも、個人的にも味わえるものだ。

 これは、いそいそと陽気におこなわれる労働を基礎にし、その労働で自分も隣人も恩恵を受けていると意識するなかで構築される。もちろん、生きるために絶対必要な労働が最優先にはなるだろうが、一日に占める時間は短くなりそんなにわずらわしいものではなくなる。

 とはいえ、それは毎日繰り返される仕事なので、少なくとも耐えられる程度になっていないと日々の喜びが損なわれる。だから、われわれはすべての労働を――たとえもっとも平凡な労働でも――魅力的なものにしなければならない

 これはどうすれば実現できるだろうか? この問題に答えるのが、この論文の残りの課題だ。

 考えを示唆するにあたってことわっておきたい。提案の多くは社会主義者がみな賛同するだろうが、なかには、ちょっと奇妙で冒険的すぎると思うことがらもあるだろう。私はそれを教義のようにドグマ化するつもりはまったくなく、個人的意見を述べているだけなので、それを念頭に置いておいてほしい。

 これまで述べてきたことから言えるのは、労働が魅力的であるためには、はっきり役立つと分かる目的に沿うものでなければならない。ただし、余暇の娯楽として個人が自由におこなう場合は別だ。

 この「誰にも役立つと分かる」という要素は、退屈な仕事を心地よくする大変重要なポイントだ。なぜなら、新しい社会のなかでは、これまでのような宗教的道徳心や抽象的理想に対する責任感ではなく、社会的倫理、人間生活に対する責任感が取って代わるからだ。

 次のポイントは、労働時間の短さだ。これは強く主張する必要もないだろう。労働の無駄がなくなれば、労働時間を短縮できることは明らかだ。現在は苦痛な労働でも、それをおこなう時間が大幅に削減されれば、楽に耐えられるものになることは明らかだ。   (その3に続く)


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