小芸術(装飾芸術) その2

by William Morris in 1877
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました)  2017/2/15改訂

その3を読むその1に戻る要旨と目次のページに戻るリストのページに戻るトップページに戻る

 ■空白のあとに何が?

 とはいえ、現実世界がこの問いにどう答えるのかは誰にもわからない。人間の一生は短く、先を読める範囲は限られている。しかし、これまで私が生きてきたあいだでも、目を見張るような思いがけないことが起こっている。だから、私たちを取り巻く現実は承知の上で、なおもまだ、希望はあると言っておきたい

 想像力あふれる芸術が滅亡したあとに、予想もつかない新しいものが人の暮らしを穴埋めするかもしれないが、私にはそんな未来は喜べないし、人類が、芸術の喪失を未来永劫も耐え忍ぶとは思えない。だが、芸術の現状や、現代生活や進歩への対処を見ていると、少なくとも現象としては、その方向に向かっているように見える。

 世界は長いあいだ、芸術以外のことであたふたしてきており、芸術を無頓着に貶(おとし)めてきた。そしてついには、多くの教養ある人々が、芸術の過去には無知なままに、またその将来への希望も持たないままに、ひたすら軽蔑のまなざしで芸術を見るようになってしまった。

 こんなにもあわただしく忙しい地球は、そのうち厄介ごとや混乱のすべてに我慢できなくなり、癇癪を起こしてテーブルをひっくり返し、きれいにすべて放り出してしまうことだろう。


 そして、それから? それからどうなるのか?

 いま、汚らしいロンドンの真っただなかにいても、想像するのは大変難しい。きっと、建築、彫刻、絵画は、それに属する多くの小芸術とともに、また音楽、詩とともに、死に絶え忘れられるだろう。もはや、まったく人々をワクワクさせたり楽しませたりしなくなるだろう。

 なぜなら――もう一度言おう、自分たちをごまかし続けるわけにはいかないのだ――なぜなら、一つの芸術の死は、芸術すべての死なのだ。

 違いといえば、芸術のなかでも最も幸運なものは、最後に食われるというだけだ。果たしてそれは幸運なのか、不運なのか。ともかく、美と関係するものすべて――人類の創造力も工夫する力も――袋小路に入ってしまう。

 そしてそのあいだもずっと、自然は永遠の美しい変化を繰り返す、春夏秋冬、陽の照る日、雨の日、雪の日、嵐や穏やかな好天、夜明け、真昼、夕暮れ。昼も夜も、すべての変化のなかで、人類が、美ではなく醜さをあえて選んだこと、この最強の生きものが、みすぼらしさと虚無のなかで生きていくありさまを、自然は見続けるのだ。


 さあ、どうだろう、みなさん。なかなかそうは想像できないことだろう。おそらく、われわれの祖先がいまのロンドンを想像できないのと同じだ。昔、ロンドンのわが祖先たちは、ていねいに白塗りされた可愛い家に住んでおり、村人に馴染みの教会には、大きな尖塔がそびえていた。人々はよく手入れされた庭を通り抜けて、広々とした川へと行ったり来たりしながら暮らしていた。

 そういう先祖たちは、まさか自分たちの土地一帯が、あるいはそれ以上の地域が、いつの日か、大中小のぞっとするようなあばら家が建ち並ぶ、ロンドンと呼ばれる土地になろうとは、思いもよらなかっただろう。


 私が恐れてやまない芸術の死の空白など、きっと、まだ想像しがたいことだろう。もちろん、今は予測できないなんらかの状況変化が起こって、そうならないこともありうる。

 だが、芸術に死が訪れるとしたら、それでも、それはただしばらくのことで、野原をもっと肥沃にするために、寄せ集めた雑草を燃やすようなものに違いない。しばらくすれば人々は目を覚まし、あたりを見回して、その単調さに耐えられず、かつてそうであったように、再び工夫し、模倣し、想像するようになるに違いない。


 そう信じることで、私は元気がでる。そして落ち着いて、こう言うことができる。人類に空白の時期が訪れなければならないなら、訪れさせればいい。その暗黒のただなかで、新しい種がきっと芽を出すだろう。

 これまでも、ずっとそうだった。まず誕生がある。ほとんど自分を自覚していない希望だ。それから花が咲き、熟練の実が実り、はっきり自分を意識した希望となる。そして、爛熟のあとの腐敗のように、傲慢へと移ろいゆく。そして、それから、再びの新生へ…


 その間にも、芸術を真剣に考えるすべて者の義務は、明らかだ。無知と愚かさの結果(よく言えば喪失だ)から、世界を救うために、全力を尽くすことだ。

 芸術の喪失の後に、変化のなかでも最も情けない変化が生まれないように、つまり、絶滅した野蛮が新しい野蛮に置きかわるなどとならないように、努力するべきだ。

 たとえ、芸術を心から願う者がほとんどいなくて弱体で、ほかには何もできないとしても、少なくとも伝統の一部、過去の記憶の一部を生かし続けることだ。そうすれば、新しい息吹が生まれたとき、それを無駄にせず、必要最小限で、新しい精神のためにまったく新しい形を創造することができる。

 ■無意識の英知――古代芸術に学べ

 では、その任務のために、私たちは何に頼るべきか。世界の偉大な芸術の恩恵を真に理解し、それなしには平和な良き生活も確実に失われると考える私たちは、いったい何に依拠すべきなのか。

 それには古代の芸術から始めなければならない。無意識の英知が生んだと言われる芸術だ。その起源は特定できないが、少なくとも、先日、漂積物の中から出土したマンモスの骨などに刻まれた、風変わりで優れた模様が作られた時代にまでさかのぼる。

 この無意識の英知による芸術は、もはやすべて死に絶えてしまった。残っているものはほとんどなく、半文明社会に残っているなごりも、年々、粗雑で()弱くなり、知性に欠けていっている。いや、そのほとんどは、ヨーロッパからの染料が少し届いたとか、また欧州商人からの注文が少しついたとかいう商業上の偶然に左右され、翻弄されている。

 芸術を尊ぶ者はこのことを認識しておくべきだ。喪失が、意識的で知性的な新生芸術で満たされるように、現在の、いや過去のどの芸術が生み出したよりも、賢明で素朴で自由な暮らしが営まれる日を、やがて目にすることがあるようにと、願おうではないか。

「やがて目にする」と私は言った。だがこれは、私たち自身がこの目で見るという意味ではない。遠い将来かもしれない。人によっては、遠すぎると感じるために、ほとんど考える値打ちもないと思うかもしれない。だが、希望がたとえ(かす)かだからといって、壁に向かって、何もせずにのんべんだらりと過ごすことができない者もいるのだ。

 こんにちの芸術は腐敗の最終段階にあり、そのあとには必然的に、あらゆる邪悪がともなう――こういう兆候は、あまりにも明白だ。だが同時に、(これまで述べた)訪れるであろう芸術の夜、その夜の向こうに、夜明けの兆しがまったくないというわけではない。

 その兆しとは、基本的に、現状に心底から不満で、何かより良きものを、あるいはその見通しだけでも見たいと切望している者が、少数であっても存在していることだ。これは最高の兆しではないか。

 いつの時代でも、もし数人の者が、自然と調和するなんらかのことを実現しようと、真剣に心を決めてかかれば、それはいつかは実現するものだ。数人の心に、同時にある考えが浮かぶのは、偶然ではない。それらの者は、世界の心臓部で渦巻く何かに押され、声を出し行動せずにはいられなくなっているのだ。そうでなければ、表現されないままになってしまう何かだ。


 さて、芸術の改革を渇望する者は、では、どのような手段を取るべきなのか。また、美しいものを持ちたいという熱望、さらには美を創造する能力を発達させたいという願望を、いったい誰の胸に燃え立たせるべきなのだろうか。
 
 人は、私によく言う。「もし、自分の芸術を成功させ繫盛させたいなら、上流社会の流行にしなければならない」と。正直なところ、私はこの表現にはうんざりだ。なぜなら、それは、自分の仕事に費やすのは1日だけにして、金持ちや指導者気どりの者を納得させるために、倍の日数を働け、ということではないか。そういう者は、芸術など本当はまったく気にもかけていないのに、まるで大いに関心があるかのようにふるまっている者だ。こうして、「長い物には巻かれよ」という諺(ことわざ)のとおりに、付和雷同していくのだ。

 事態がしばらくこのまま続くのに満足なら、そういう進言をする人たちも正しいだろう。あっという間に閉まるドアに鼻をはさまれないように気をつけて、少々の金を稼いでいるあいだは、いいだろう。だが、事態に満足でない者にとっては、これは間違っている。

 進言する彼らが念頭に置いている、(上流の)人々は、気が多すぎて、うまくいかないことは簡単にあきらめる。だから、その気まぐれに従っておいたほうが安全だ、ということになるのだ。もっとも、簡単にあきらめるのも彼らのせいではない。しかたがないのだ。そもそも、彼らは、なんらかの実用的芸術を知るに足る時間を費やす機会など、持っていない。ただ、利益のためにあれこれの流行を生み出そうとしている人々に、どうしようもなく振り回されているだけなのだ。

 ■先導するのは実践者――工芸職人だ

 皆さん、このように、儲けのために芸術を弄(もてあそ)ぶ人々、そして唯々諾々とそれに従っている人々からは救済策は生まれない。

 装飾芸術を救う唯一の道は、それを実践している者からしか生まれない。そして、そういう人たちは、誰かに従うのでなく、自らを導かなければならない。


 自分の手を使って芸術作品を作るろうとするあなたたちは、すべて芸術家でなければならない。それも、立派な芸術家であるべきだ。世の人々がこれらの芸術に本当の興味を示すようになるのは、それからだ。

 そして、皆さんがそうなれば、流行を創りだすのは間違いなく皆さんだ。流行は、あなたがたの手が作り出したものに、おとなしくついてくる。


 これが、英知にあふれた民衆の芸術を生み出す唯一の道だ。だいたい、現在、芸術家とか呼ばれている二、三人の者に、いったいどんな仕事ができるのか。いわゆる商業(だが実際は金儲けの欲望でしかないが)に抗して、何ができるというのか。

 滑稽にも製造者(マニュファクチャー)と呼ばれる連中に囲まれて、心細い思いで働くしかないではないか。彼らは製造者、つまり工芸職人と呼ばれているが、実際には、これまでの人生で、ほとんど手を動かして物を作るなどしたことがなく、資本家かセールスマンでしかない。

 年々、恐ろしいほど大量の「装飾芸術」と称する物が生産されるなかで、砂粒のような者に何ができるというのか。そんな装飾は、売り込もうとするセールスマン以外は、誰も気にかけないようなしろものだ。綺麗だからではなく、新しいから欲しがる世間の欲求を満たそうと、必死で売り込むのだ。
 
 繰り返して言うが、もしやる気があるなら治療法は明白だ。芸術が分離したときに芸術家に置き去りにされた工芸職人が、芸術家に追いつかなければならない。芸術家と肩を並べて仕事しなければならない。

 偉大な師匠と学徒という違い、あるいは元々からの気質の違い以外には、狭い意味での装飾関係の仕事に取り組む者のあいだに、差があってはならない。生来の傾向によっては、模倣を主とする人もいれば、建築芸術家、または装飾芸術家となる人もいる。そして、この問題に取り組む芸術家団体は、物づくりをする人々すべてが、製作物の使途と必要性に応じて、芸術家となるように速やかに促さなければならない。


 この実現を阻む途方もない困難、社会的経済的な困難が待ち受けていることは、承知している。

 それでも、そう見かけほど困難ではない、と私は思う。それに、確かなことは、これが不可能なら、真実の生きた装飾芸術などありえないということだ。


 これは決して不可能ではない。それどころか、芸術の促進を心から望んでいるなら、必ず実現できる。

 世の中がそんなに騒いでいる物事(私には、そのほとんどが、骨を折る値打ちがあるとは思えないが)を、美と品位のために少し犠牲にするなら、芸術は必ずまた育っていく。先に述べたような困難のいくつかは、人間の相対的状況が着実に変われば、氷解していくだろう。残りは、理性があれば、そして自然の法則――それは芸術の法則でもあるが――に揺らがぬ関心を注げば、しだいに解決されていくだろう。

 もう一度言おう。意志がありさえすれば、求める道はすぐそこにある。

 もっとも、たとえ意志があり、道はすでに眼前に伸びているとしても、それは、一見して荒野への旅かもしれないから、それで挫(くじ)けてはいけない。荒野どころか、しばらくのあいだ、事態はより悪くなるように見えるかもしれない。改革すべき邪悪というものは、最初はより醜く見えるのが普通なのだ。生命と知恵が新しいものを築くかたわらで、愚かさと死は古いものにしがみつくものだから。


 すべての物事がそうであるように、ここでも、事態が正されるまでには時間が必要だ。そして、やるべきことなら、小さなことでも厭わない忍耐力と勇気が必要なのだ。また、土台が十分築かれる前に壁を造ったりしないように、配慮と警戒心もいる。いつも何ごとに対しても、失敗を簡単に放り出さないで、教えを乞い、常に学ぶ謙虚さも必要だ。

 ■自然と歴史に学べ

 その場合、教師となるのは自然と歴史だ。自然については、それに学ぶべきだということはあまりにも明らかだから、ここでくわしく説明する必要はないだろう。あとからこの点について詳述するときには、自然から学ぶ方法について触れることにしよう。

 後者の歴史についてだが、最高レベルの天才は別にして、こんにちでは、古代芸術をしっかり学ばなければ誰も何もできないだろう。またそういう天才でも、古代芸術を学んでいなければ支障が出る。

 ところで、私が古代芸術の死について述べたことや、芸術は現代的特色を持つべきだを示唆したことと、これは矛盾すると思う人もいるかもしれない。そうだとしたら、私はこう言うしかない――こんにちのように、知識は氾濫しているが実行がともなわない時代には、古代の作品から直接学ばなければ、周りにあふれている貧弱な仕事に影響されてしまう。古代芸術を理解しないままに、比較的ましな模倣作品を真似てしまうことになる。これでは、知性あふれた芸術を生み出すことなどまったくできない。

 だから、古代の芸術から賢く学ぼう。そこから教えを受け、情熱を得ようではないか。しかも、その模倣や繰り返しはしないという決意を常にしっかり持とう。まったく芸術なしでいくか、それとも私たち自身の芸術を創り出すか、二つに一つなのだ。


 とはいえ、ここはロンドンであり、ロンドンがどんな状況にあるかを考えると、みなさんに芸術の歴史と自然から学ぼうと訴えるのは、身動きならない事態にはまり込むようなものだ。

 このおぞましい通りを日々行き来している労働者たちに、どうして美に関心を持ってほしいなどと頼むことができるだろう。もしこれが政治なら、関心を持つに違いない。あるいは科学なら、自分の状況などあまり気にせずに、事実の研究に没頭することもできるに違いない。でも美はそうはいかない!

 ここまで言えば、長いあいだ芸術が無視されてきたために――これは同時に理性の無視でもあるのだが――芸術がどんな恐ろしい困難にとりつかれているかが見えてきたのではないだろうか。

 それほど深刻な問題なのだ。いったいどんな努力をもってすれば、どんなに必死の力を出せば、この困難をふりはらうことができるのだろう。あまりにも深刻な問題なので、私は、いったん、この問題を脇に置かざるを得ない。そして歴史とその賜物から学ぶことが、皆さんをなんとか助けるようにと願わざるを得ない。

 偉大な芸術的時代の作品や、その時代そのものによって、皆さんが本当に心を満たすことができるなら、先に述べたような醜い環境を、ある程度見抜くことができるようになり、現在の粗暴さやいいかげんさに不満を感じるようになると思う。そしてついには、ひどい状況に我慢しきれなくなるのではないか。複雑な文明をこんなにも辱めている汚らしさ、近視眼的で見境のない蛮行ともいうべき汚らしさを、これ以上は我慢しない、と決意するのではないか。そう、私は願っている。


 まあ少なくとも、ロンドンはいろんな博物館があって、この点では恵まれている。私は博物館が週6日ではなく、毎日開館してほしいと心から願っている。あるいは、忙しい庶民、博物館を支える納税者の一人が、基本的に静かに見学できる唯一の日(注1)に、せめて開館してほしいと思う。芸術に魅かれる天性を持つ者なら誰でも、間違いなく、博物館に足繁く通えば大いに勉強になるだろう。

 もちろん、国が保有する莫大な芸術的宝物から、すべての良さを可能な限り吸収しようと思えば、予備的な研修を受ける必要がある。断片的な見方でしか見られない人もいるだろう。それに、大事に保管された欠片(かけら)から、暴行や破壊やなおざりにされてきた過去が読み取れるから、博物館にはどこか陰鬱なところがあることも否定できない。

注1:おそらくモリスは日曜日を指しているだろう。キリスト教では日曜日は安息日なので、働きづめの労働者でも、日曜日なら少し自由になる時間がある。
                                        (その3に続く)

その3を読むその1に戻る要旨と目次のページに戻るリストのページに戻るトップページに戻る

※この翻訳文の著作権は城下真知子に帰します
翻訳文を引用したい方は、ご連絡ください