城下のひとりごと
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モリスを翻訳していて感じたこと、背景となる19世紀のことなど、
翻訳文には盛り込めない訳者の思いを、ときどきつぶやきます


 「労働環境格差」は広がっている…                              2014年6月2日
 毎日新聞の日曜版6月1日付に気になる記事が載っていた。日本医大特任教授の海原純子さんのエッセイ『新・心のサプリ 進む労働環境格差』だ。

 医療現場での経験にふまえて、彼女は「今の時代にこんな勤務と労働条件があるのだろうか、と思うような話をきくことが最近多くなった」と言う。休みがほとんどない勤務に疲れ果て、それでもそれに苦情を言うと仕事を失うのではないか、失えば次の勤め先が無いのではないかと不安で問題にできず、心身を痛める働き盛りが増えているのだそうだ。しかも、小さな会社だと休めば『弱いダメな人』というレッテルを貼られてしまう。

 貧富の差が拡大していることは十分感じていたが、「経済格差と同様に労働環境格差も進行しているのでは」という彼女の指摘は新鮮だ。これは、ある意味では、労働条件の全体としての悪化より手ごわい問題だと思う。一方では、「労働条件や環境のいい職場」で「福利厚生もしっかりしている」企業があるが、他方には以前より環境が悪化している「多くの『その他の職場』がある」のだ。彼女は「一部の人にとって景気はいいのかもしれないが、医療だけでは治せない疲労による病が進行している危機感を感じている」と結んでいる。

 現代の労働の過酷さは、いわゆる3K職場だけにとどまらない。むしろ見かけはおしゃれで近代的なオフィスで、多くのオフィスワーカーが疲労を回復できないほどの激務を強いられ、それがいつ終わるかの展望も持てず、それを相談する相手もいない――若者たちがこういう状況に追い込まれていると思うと、胸が痛む。

 それにしても、こういう状態は、モリスが人生を賭けて警告した19世紀の労働者の状況と本質的にどう違うのだろうか。食べていくために長時間労働を強制され、それを拒否したら「雇用」の口を失うのではないかと恐れ、逆らうことも出来ずに、楽しくもない労働を続けた19世紀の労働者。私たちはそれからどれほど、進歩したのだろう。

 おまけに日本の現政権は、超勤手当を払わなくてもいい方法を提案しようとしているという!

 モリスは、『金の支配のもとでの芸術』のなかで、「平均」値などで自分たちを慰めないでほしい。金持ちの富も富裕層の快適さも、恐ろしいことに、報われることもなく、尊厳を奪われ、空しいだけの困窮を味わう大量の人々の上に成り立っているのだ。しかも最近では、その惨めな状態について、ほんのわずかしか語られなくなっている」と書いている(その4参照)

 モリスのこの問題への提案は、「労働者の連帯」であり、中産階級に対しては「教養と人間性を持っているなら」労働者の側に立てと呼びかけることだった。 じっさい、彼はオックスフォード大学の講演で、孤立を顧みずそう呼びかけた。さて、21世紀の私たちは、どうする……?


 無駄を大量生産する社会                                   2013年5月7日
 政府は原発を輸出すると言う。福島原発の問題もまだ解決していないのに。「教訓を共有する」と語っているが、教訓どころか今でもまだ汚染水を漏らし続け、それを根本的にどう解決するかも見えていないではないか。そういう危うい商品を海外に売りつけても平気な先進国日本、「そんなにまでして儲ける必要があるのだろうか…」と、思わず、モリスの嘆きの一節が口をついてしまう。

 そもそも、安全がさだかでない発電システムになぜそんなに固執するのだろうか。そして、そんなシステムで出来たエネルギーを使って大量生産し大量消費しつづけ必要があるのだろうか。原発には、現代社会の問題が集約されているように思える。

 「先進国」には、とても買い切れないほどありとあらゆる種類の商品があふれているが、地球上には、それにはとても手が届かない人が大勢いる国がたくさんある。いや、その「先進国」内ですら、ますます多くの人が節約しないと暮らしていけない状況になりつつある。それでも品物は大量に生産され、消費があおられる。買われなかった物は、次の消費のスペースを作るために、廃棄されていく。こんなにいらないモノであふれかえる地球は、そのうちどうなるのだろうか…。

 そう思いながらモリスの論文を読み返していると、『意義ある労働と無意味な労苦』に次のようなくだりがあった:
 「製造者」の基本的目的は、品物の生産ではなく利益の生産だ。生産した品が本物かまがいものかなどには、なんの関心もない。それが売れて利益を生めばそれでいいのだ。一方には適切に使うことすらできないほどの金を持つ金持ちがいて、彼らがまがいものの富を買うから無駄が出る。そして他方には貧しい人々がいて、彼らは値打のある良い物など買えないから無駄がある。だから、資本家が「供給」する「需要」はみせかけの需要だ。市場は、賃労働と資本の強奪的体制がつくりだした悲惨な不平等によって「装備」されている。

 19世紀末に書かれた文章なのに、妙に、身につまされるのはなぜだろう。最近の日本では、大半の人々はちまちまと生活費を切り詰めて暮らしている。サラリーマンなどでは、1個100円のバーガーを2個買って公園で昼食を済ます人までいるという。それで栄養やエネルギーが十分取れるとはとても思えないし、彼らの休息も「質の良い充分な休息」とはほど遠いことだろう。ところが他方では、デパートで高価な贅沢品を迷わず現金で買っていく人々も増えているという。庶民には一生かかっても買えないし、飾る場所もないような物を買う人たちは、その品を愛でたいから買うのだろうか、それとも投資の対象なのだろうか。
 
 日本で急速に広がっている貧富の差。その溝をものともせず、それぞれに見合うはずだと個々の資本家が考える品物がどんどん作り出されていく。そして買わせるための商戦が繰り広げられる。モリスは同じ論文で、「過大広告は驚くべき勢いで氾濫し、生産に使う経費よりも販売に使う費用のほうがはるかに大きい商品がたくさんあるほどだ」とも書いている。

 なんども言うが、これは19世紀末に指摘されたことだ。今では、そういう商品は「たくさんある」どころか、ほとんどがそうではないか。一人ひとりの資本家が自分の商品を売り込むために競争しあうのが、この世の習わしになっているから、必要かどうかにかかわらず、いろんな商品が無駄に市場に出る。以前と違う物が売れるかもしれないし、売れなければ売れ筋を真似して作ったら売れるかもしれない――いずれにしても、他会社ではなく自分の会社の製品を売らなければ!

 こういうやり方ではなく、人々が人々の必要や楽しみのためだけに生産するしくみが作り出せていたら、どれだけの無駄が省けていることだろう。そのためには小規模で、しかも共同作業で生産する必要があるだろうが、もしそうなれば、地球上の人すべてがそれなりにまともな暮らしが出来るくらいの生産力を現在のわれわれは持っているのではないだろうか。

 それを思うにつけ、無駄をなくし、人間が自然の一部として溶けこみ多様な労働を楽しみながら暮らす社会を夢見たモリスの主張は、現代にも十分通用すると感じざるを得ない。モリスは言う――利益のための生産というシステムを止め、すべての人間が平等に生産的な労働を楽しむようになったら、「そのときわれわれはこうした無駄の悩みから解き放たれるだろう。そうすれば、人間は大量の労働力を見い出し、道理にかなう範囲で楽しく生きることが可能となるだろう

 今回『意義ある労働と無意味な労苦』を加筆訂正しました。ぜひ、ご一読を!

 翻訳というもの                                       2012年10月18日
 翻訳というのは難しいものです。英語と日本語に限らず、言葉は文化ですから、その表現を違う国の・違う時代の言葉に変えるのは並大抵のことではありません。これまで読んだ翻訳ものの小説などは、なかなかすらすら読めないものが多くありました。日本語らしくない日本語になっていたのです。とくに哲学書・思想書の場合はそうでした。もともと原文自体が一つの文章も長く関係代名詞などで掛かってくるものが多いということもありますが、翻訳書は直訳調で、言わんとすることを理解するには、何度も前の文章を読み返さないと分からないものが多かったのです。なかには、わざと分かりにくく訳しているのではないかと、読んでいてフラストレーションがたまるものもありました。それと比べると、小説などは比較的ましでしたが、それでも、ぎこちない文章が多く、原文で読む方がずっと面白かったものです。日本語の勉強は日本の作家の文章ですればいいと思っていました。

 だからモリスの翻訳を始めたとき、私は、未熟者ではあるけれども、できるだけ、頭から読んでいって分かる表現、日本語として読みやすい文章を書こうと心掛けてきたつもりでした。

 ところが、今年になって読んだ翻訳ものの小説で、いくつか、とても読みやすくなっているのを発見して感激しました。もともと日本の作家が書いたものだと言われても信じてしまうくらいの文章でした。たとえば、土屋政雄さん訳の「日の名残り」がそうです。そういう訳書は、情報はすべて含んでおり落ちていません。だからといって、くどくもなく言葉足らずでもないのです。日本文として自然に書かれています。つまり、原文の意味を理解し、まるで著者そのもののように言わんとすることを日本語で展開しているのです。削っているところも、補っているところもあるのですが、全体としては原文で必要なことはすべて含んでいるのです。単語にとらわれた訳ではなく、意味を訳しているとも言えるでしょう。きっと、私が敬遠して読まないあいだに、ここ十年あまりで、翻訳のレベルはものすごく上がっているのでしょう。

 それを勉強しつつ、これまでの私の翻訳を見直してみました。以前訳したときに私としては、分かりやすくするのはもちろんですが、同時に、モリスの論文のような場合にはそれなりに原文が透けて見えるような感じでもいいのではないかという気持ちもありました。でも、それは口実でしかなかったのではないかと、いまは思います。日本の読者が読む日本語としては、読みにくい箇所がまだまだたくさんあったのです。「意味を訳す」と切り替えて考え読み返すと、意味がはっきりしないまま訳しているところもありました。恥ずかしいかぎりです。

 それで勉強して訳を見直し、とりあえずは『小芸術』『私はいかにして社会主義者となったか』を改訂しました。順次、見直した訳を掲載していきます。読みやすくなって、いろんな人に読んでもらえればうれしいのですが、果たして、意図したようになっているでしょうか…

 もちろん、小説と論文とは違うところも多くあります。「意味を訳す」といっても、論文の場合は、小説よりも訳者の動ける幅が限られてくると思います。「訳者の理解が間違っている」と論争になる可能性も小説より高いでしょう。私としては、モリスはどういう意味でこう言ったのか、なんのためにこう言ったのかを常に総合的に考えながら、それを分かりやすく伝えていくつもりですが、異論は大いに歓迎します。お寄せください。


 大飯原発が稼働されました                                2012年7月3日
 大飯原発が再稼働されました。福島原発もまだ収束していないのに。大飯で事故が起こった場合の対応策も避難経路もはっきりしていないのに。原子力で発電したあと蓄積される「核のゴミ」を、どこにどう「保管する」かも定かでないのに。大義名分は「夏に電力が不足するから」だそうです。本当に不足するのかは、おおいに疑問ですが。

 でも、百歩譲って仮にそうだとしても、そんな処理の仕方もわからぬ危険なもの、何十万年にもわたって子孫に禍根を残すものを使ってまで、わたしたちの今の生活スタイルを維持する必要があるのでしょうか。

 第二次大戦後からここ5060年の社会の変化は、恐ろしいほどのスピードです。家庭に1台あったかなかったかの電話を、一人1台(以上)持つようになりました。夏には縁台の夕涼みで涼を取っていた家族が、一部屋ごとにエアコンをつけテレビを持ち個室で過ごすようになりました。のどが渇けば、いつでも自動販売機からペットボトル入りの飲み物が買えます。そして、都会は夜も光り輝くネオンに彩られています。便利になったのはいいことなのでしょう。こういう生活が好きな人もいることでしょう。わたしも、あればついつい「便利な」ものを利用します。

 でも、そういう生活を維持し続けるために、次々と地球から資源を取り崩し、石油から新しい製品をつくりだし、エネルギーを注ぎ込んでいなければならないとしたら… そうまでして維持するに値する生活でしょうか。しかも、そういう生活が楽しめるのはいわゆる「先進国」だけなのです。そんな生活とは無縁な子供たちが地球上にはたくさんいます。

 次々と新しいものを提供しそれを消費者に売りつけ、どれが買われるか、どこが儲けるに生き残りをかける「商業競争」――モリスの言うcompetitive commerce ――は、けっきょく核分裂によるエネルギーの抽出というところにまで進んでしまいました。人類がまだその取扱いを十分わかっていない物質を使うところまでです。いや、そもそも核は、武器として、大量殺人兵器として開発されたものではありませんか。使用済みのウランをどうしたらいいかが分からないだけではなく、ちょっと取り扱いを誤れば(誤らなくても、311のような自然災害が襲えば)たくさんの人間がその被害をこうむってしまうような物質ではありませんか。そして、その放射能被害の詳しい知識すら、わたしたち人間はまだ十分わかっていません。

 現在のわたしたちの暮らしは、そういう危険なものを使ってまで、維持したほうがいいものでしょうか。もっと素朴に、地球に生きている幸せを生きとし生けるものとともに楽しめる暮らしがあるのではないでしょうか。わたしたちは、ひょっとしてマインドコントロールされていませんか――どんどんお金をつぎ込んで経済をふくらまして進んでいかないと、失速したら破滅が待っているかのように。でも、ほんとうにそうでしょうか。自分たちだけは楽な生活が送れると勘違いして「商業競争」を推進している人たちに、ほかに選択肢がないかのように思わされているだけではないのでしょうか。日本発信の放射能汚染が地球全体を傷つけてしまえば(すでに海に住む生物などに影響は出ているわけですが)、その人たちだけが気楽な生活を送れるわけでもないでしょうに。

 モリスは19世紀に社会の劇的変化を目の当たりにして、警鐘を鳴らし続けました。そのころ、資本家たちが土地を買占め工場を建て、低賃金・劣悪環境で労働者を働かせ、公害を垂れ流しながら俗悪商品を売り込み、社会の構造は大きく変わりだしていました。「自由と平等の社会の到来」がうたいあげられる謳歌する裏側で、いったい何が起こっているのかを、モリスは指摘し続けました。

 「いったい、そんなに金を儲ける必要があるのだろうか。ロンドンのわずかな泥土で得られる金のために、家並みのあいだに生えている気持ちのよい木々を切り落とし、古い尊い建物を取り壊す。川を汚し、太陽を曇らせ、煙やもっと有害なもので大気を汚染し、それでも、誰もそれに心を配り改めるのは自分の責任だとは考えていない。これこそ、現代の商業、現場を忘れた金の亡者がわれわれにもたらした一切のことなのだ」『小芸術(装飾芸術)』より

 1877年に彼が発した言葉が、100年以上のちのわたしたちの耳にも痛いのはなぜでしょう。今では、もちろん汚水・黒煙はそう露骨に垂れ流されているわけではありません。いま問題になっているのは目に見えない放射能です。だからよけいこわいわけですが。わたしたちは今、モリスが目にしたような激動にも匹敵する時代に生きています。確かにいろんなことが19世紀とは異なっています。でも、今の時代でも、公害をごり押しする〈ちから〉はモリスが警鐘を鳴らしたと同じ精神構造でわたしたちに迫っているのではないでしょうか。はたして、このまま進んで行っていいのでしょうか。


 なぜ今頃、19世紀のモリスを取り上げるの?                       2011年2月23日
  消費社会の真っ只中に生きているわたしたちは、あらゆる種類の品物が毎年大量に作り出され、その多くがゴミとして廃棄され、翌年にはまたモデルチェンジした新品が大量生産される状態に慣れきってしまっています。

 でもそういう大量生産と消費が始まったのは、人間の歴史から見れば、つい最近のことにすぎません。こんなにもたくさんのものが必要なんでしょうか。その多くは無駄になってしまっているのではないでしょうか。どうしてこんなスタイルの生産と消費がおこなわれるようになったのでしょう。
 しかもその一方では、ろくに食事も食べられない、病気になっても医者にもかかれない人々が世界には大勢いるのに… 

 こうした富のアンバランスは改善できないものでしょうか。できるとしたら、どうすればいいのでしょうか。それを考えるために、少し過去にさかのぼってみませんか。生産のあり方がこのように大きく変わったのは19世紀でした。この時代にタイムスリップして、今ではあたりまえになってしまった現象がどこから生まれたのか、当時の心ある人々はそれをどう考えていたのかを、心落ち着けて考えてみるのがその第一歩になるのではないでしょうか。

 19世紀の工場生産の開始を目撃した芸術家モリス、彼の目に、新しい社会はどう映ったのでしょう。モリスのいろんな講演をとおして、19世紀に生まれた新しいタイプの社会――21世紀社会の原点――を少し考えてみませんか?

 わたしたちの現実と19世紀――スラムの広がるロンドン                2011年4月16日
  東日本大震災で被災した皆さんや福島原発の被害者の方々に、心からお見舞い申し上げます。苦しく悲しい現実に打ち克って、なんとか前向きに生きていってくださるように祈っています。

 福島原発の現実は、人間が作り出したものです。毒性があり半減期が2万4千年もあるというプルトニウムを、どう処理するかの確たる方法もはっきりしないままに燃料に使ってもいいものでしょうか。その技術力をもっとほかのエネルギーを工夫するために使えないものでしょうか。いえ、モリスならきっとこういうことでしょう――そもそもそんなにまでして大量の電力を必要とする社会、その在り方を問い直す日が来ているのではないか、と。

 わたしたちが使うエネルギーの量、そして生み出すごみの量は、ここ50年ほどで何十倍にもなっているそうです。人類の遠い祖先が生まれ、ホモサピエンスと呼ばれるようになってからでも約25万年。その長さに比べれば、ほんの瞬きのあいだに、わたしたちの生活スタイルは激変していて、そのスピードはまだ加速しそうです。そんなに急いで向かう先に何が待っているのか。空恐ろしい気がします。

 だからこそ、19世紀に形をあらわにした新社会――資本主義社会――を見直す必要があるのではないかと強く思います。

 資本主義社会は、社会の在り方を大きく変えました。当時のイギリス社会では、たとえば、鍛冶屋が一つひとつ手作りしてきた金物や道具づくりも機械化され、その工程のなかでどれだけ大量に早く作るかが競われだしました。労働者に必要なのは職人の技術ではなく、簡単な作業を長時間繰り返す体力だけになりました。(アダム・スミスが『国富論』のなかで、資本主義社会で釘を作る労働が細分化されていくさまを描いています) 

 モリスが愛した工芸職人は、日に日に、ただの単純作業をする労働者におとしめられていきます。そういう仕事を拒否すれば、飢え死にするだけなのです。後釜はいくらでもいるのですから。貴族や金持ちが羊毛業で利益を得るために土地を買占め(エンクロージャー)、農民たちは一家もろとも農村を追い出され、都会に流れ込んできました。農民を追い出すために、地主は農家に火をつけることまでやりました。スコットランド高地での「ハイランド・クリアランス」は、その残酷さでとくに有名です。

 農地をなくした農民一家は食べるために必死でした。仕事にありつけさえしたら、どんな汚い仕事でも低賃金でもいといません。働かず居場所もなければ、「救貧院」という名の刑務所に送られるのですから。「救貧院」では、男女は別々にされ、子供も親から離されます。つまり家族はバラバラになるのです。そして長時間労働をさせられ、食事はお粥いっぱいていどです。だから当時の人々は救貧院に送られることを「それより家で死んだ方がましだ」といって恐れました。

 ロンドンにはスラムが広がり、汚物があふれる道路、汚染した空気のなかを、お腹を空かし薄汚れた労働者たちが、朝早くから仕事へ急ぐのです。そのなかには、まだ幼い少年少女もいます。女性もいます。工場は汚く不潔で、機械の都合に合わせて、働かなくてはなりません。工場だけではありません。スラムの奥では、女性たちが食べるのにも足らない低賃金で家内労働をおこなっていました。たとえば、上流階級の女性がラビットの毛皮や房を身に着けるために、ウサギの屍骸が臭いを放ち、毛がフワフワ舞って気管支にまで入り込む狭い部屋で、女性たちが毛をむしる作業をしなければならないのです。勇気ある女性記者がその悲惨な様子を『Nineteenth-Century Opinion』で報告しています。こうして、人間の創造活動であるはずの労働は、ただ食べるための苦痛になりはてました。そして、しばしば食べることさえ十分満たしてくれなかったのです。

 こうしたスラムの状況と、21世紀の現実は確かに一見するところ違っています。労働条件も生活条件も日本の多くのところでは、19世紀よりはましでしょう。でも、人間が人間らしく創造的に労働し、すべての人が、互いの人間的交流をエンジョイしながら暮らせているのでしょうか… 


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