(かね)が支配する世の中での芸術その4
Art under Plutocracy

by William Morris in 1883
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました。読みやすくするために改行を多くしています)
(注:この翻訳文章は『素朴で平等な社会のために』で、バージョンアップされています)

  ■「平均値」などでごまかさず、現実を直視しよう
 平均を取ることなどやめて、現実の彼らの暮らしや苦労を直視し、理解しようとしてほしい。皆さんは、ブルジョア中流市民や急進派の理想を部分的には理解しているかもしれないが、ぜひ気づいてほしいのは、この競争体制の裏には、現在もそしてこれからもずっと恥ずべき秘密が隠されているということだ。

 中産階級、繁盛している職工、小売商人などの上層部には、このさき、何不自由ない裕福な人々が大量にただようだろう。いやすでにただよっている。私たちはそういう事態を創りだしてしまった。つけ加えれば、そういう人々は生まれつき善良な性格ではあるが、だからと言ってそれで文明が誉れあるものになるわけではない。食べ物に関しては意地汚いほどいいものを食べてはいるが、住居はセンスが悪く、教育も不十分で、下卑た迷信に押しつぶされ、道理にかなった楽しみも持たず、美的感覚にはまったく無縁だ。だが、まあそれはいい。おそらく私たちは、とくに真剣に体制を変えることもなく、この階級の比率を飛躍的に増大させてしまったのだ。
 しかしその下には、なおもう一つの階級が存在しているのであり、これからも存在する――「落ちこぼれは鬼に食われろ」とでもいうような圧政システムを続けている限り絶対に失くすことはできないその階級こそが、餌食となっている階級なのだ。

 他の何にもまして、私たちは彼らのことを忘れてはならない(じっさい、数週間ぐらいは忘れることはないだろうが)。そして「平均」値などで自分たちを慰めないでほしい。金持ちの富も富裕層の快適さも、恐ろしいことに、報われることもなく、尊厳を奪われ、空しいだけの困窮を味わう大量の人々の上に成り立っているのだ。しかも最近では、その惨めな状態について、ほんのわずかしか語られなくなっている。それが事実だと知っているにもかかわらず、用心深く勤勉であれば、(なかなかそういうこともないのに)困窮を大幅に削減できるかもしれないなどと希望的に観測して、自分たちを慰めているだけではないか。

 お聞きしたいが、そういう希望は、わが自慢の文明、完ぺきな信条・高潔な道徳・仰々しい政治的原理を誇る文明にふさわしいものなのか。でも、皆さん、違う希望を抱く人もなかにはいる。社会全体の利益の名のもとに永遠に劣悪な状況に置かれている階級――そんな階級などまったく存在しない理想の社会を見たいという人もいるのだ。こんな考えは途方もないと思うのだろうか。

 皆さん、一つ覚えていてほしい。すべての平均がどうであろうと危うい暮らしを生きている赤貧の最下層階級が、労働者階級全体の前面に深淵のように存在しているのだ。競争ばかりの人生は金持ちにそこそこの引退を用意し、裕福な男に他人依存と骨の折れる小細工を弄させるが、これに失敗した労働者は取り返しのつかない奈落の地獄へと引きずりこまれていく。

 少なくともここには、労働者階級を「無頓着で倹約もしないから自業自得だ」と責めて自分の良心を慰めている人はほとんどいないと思う。だが、そう言う人もまちがいなく存在するのだ。金持ちで裕福な人々とはつきあいがあるが、日々働く労働者たちを知らない高潔で厳格な哲学者などだ。しかし、貧しい大衆がどんなに痛々しいほど努力しているか、人間の暮らしをけだもの状態に落とすほど倹約しているか、私たちは十分承知しているではないか。そもそも本質的に陽気で楽しむことも好きな彼らが、それにもかかわらず、なぜ深淵へと落ち込まなければならないのか。

 なんだって! そういう事態はないと言うのか! 私たちの周辺のいたるところで、同じ階級の者たちが自分のせいでもなんでもないのに人生に失敗して落ちていくのを見ているではないか。失敗の多くは、むしろ成功よりも立派で意義があるほどなのに。戦争(これこそが無制限の競争と呼べる)で求められるのと同様に、人間が持つべき最高の作戦用装備は、良心にとがめられることのない冷徹な心だというのか?

 現在の体制を穏やかな階級至上主義に改革しようというリベラル派の理想は、まったく実現不可能だ。なぜなら、その体制は結局のところ、無慈悲な戦争の継続でしかないのだから。

 戦争は終わった。商業――やっとこの言葉の意味が分かってきたわけだが――にも終わりが訪れるだろう。そして、それ自体としてはなんの値打もない商品、奴隷や奴隷所有者だけに役に立つ商品が山ほど生産されることがなくなれば、ふたたび、どういうものが役に立ちどういうものは作っても意味がないかを判断するのに、芸術がものさしとなる日が来る。そもそも、作り手にも使い手にも喜びを与えないような物は作られるべきではない。物を作る喜びこそが労働者の手を動かして芸術を産みだすのだから。

 そうなれば、芸術によって無駄な労働と役に立つ労働が区別されるだろう。だが、こんにちでは、これまで述べてきたように、労働が無駄かどうかはまったく考慮の対象になっていない。何を作るための骨折り仕事だろうと、働いている限りは人は役に立っていると考えられているのだ。
                 ※      ※      ※

 競い合う商業の本質こそ、無駄、それも戦争の混乱状態によって生み出された無駄にほかならない。金持ちの支配するわが社会が、表面的に秩序を保っていることにだまされないでほしい。

 戦争という古い形態とどうように、この社会は外見上は素晴らしく穏やかな秩序を保っている。連隊の規則的な行進はなんとすっきりしていて安心できることか。軍曹たちはなんと穏やかで立派に見えることか。大砲は一点の曇りもなく磨かれているし、殺人の倉庫たる建物は新しいピンのようにピカピカだ。副官や軍曹の記録簿は、おそらく汚れもないことだろう。いや、破壊や強奪のための指令を与えるには、立派な良心の証そのものに見える落ち着いた正確さこそ必要なのだ。これこそが、破壊された麦畑や焼け落ちた家、ずたずたにされた死体、大事な男たちの早すぎる死、誰もいなくなった家庭、これらを覆い隠す仮面なのだ。

 これらすべてが、私たち国に残っている者に見せる礼儀正しい軍隊暮らし――秩序と謹厳さの結果なのだ。何度も何度も、十分すぎるほどそう語られてきたではないか。栄光ある戦争の闇の面を、何度も見せられてきたではないか。これ以上赤裸々に、懇切丁寧に示すことなど不可能なほどに。

 強調しておきたいのは、商業競争もこうした仮面をかぶっているということだ。もったいぶった堅苦しい秩序の仮面をかぶり、諸国間の交流を持ち上げ平和を愛する言葉を振りまきながら、その裏側では、その計算された精確さ、その全エネルギーがめざしているのはただ一つ、他人から生活手段を搾り取るということだ。その埒外では、それで誰が得をしようと損をしようと、すべては流れのままに運ばれる。戦火の中での強盗状態と同様に、ただ一つの狙いの前に、他のすべての目的は打ち砕かれていく。

 しかも、商業競争は、少なくともある一点においては本来の戦争より悪い。戦争には中止もあるが、商業競争は絶え間なく、休止がない。その指揮者やリーダーは、「世界が存在する限り継続しろ。これこそが家庭にとっても人類の創造にとっても最重要の究極目的だ」とあきることなく言い続けるのだ。  (歌省略)

  ■競争主義のこのシステムを倒せるものは…
 この恐ろしい機構を倒せるものは何か。こんなにも強大で、心の狭いエネルギッシュな男にありがちな愚かさ、自己利害へのこだわり、そして臆病さに満ちたシステム。こんなにも強大で、自ら生み出した無政府状態に対しても固く自分を守るシステム。これを倒せるものは何なのだろう。その無政府状態に不満を抱き、それに代わって混乱の中から生まれてくる仕組み、いや、すでに生まれつつある仕組み以外にはない。ひとたびはその体制の一部分として内部にありながら、その破壊を運命づけられている仕組みだ。

 そもそも、産業主義は、古代の工芸からワークショップ・システムを経て工場や機械のシステムへと全面的に発展してきた。そして、その過程で、労働におけるすべての喜びも、労働の優越や秀逸さを願う気持ちも労働者から奪ってきた。だが、他面では、同時に労働者を一つの巨大な階級へと融合させてきたのだ。単調な生活を強いる抑圧と強制そのものが、逆に彼らを駆り立てて共通の利害を持つという連帯感を育ませ、資本家階級の利害への敵愾心を自覚させてきた。文明生活の全過程を通して、一つの階級として立ち上がる必要性を彼らは感じている。

 先に述べたように、一部の人が夢見る穏健なブルジョア社会、その普遍的支配のために、労働者階級が中産階級と連合することはありえない。なぜなら、たとえ多くが労働者階級から抜け出て成り上がろうとも、そうなったとたんに彼らは中産階級の一員となり、規模は小さくても資本の所有者として労働を搾取する。そして下層階級として取り残された者は、その分さらに深く勝ち目のない競争に引きずり込まれる。この事態は、ここ最近の大工場や大規模店舗の急速な成長によって加速された。そうした大工場などは、小なりといえどもマスターになりたいと願っていた小規模商人階級の男たちが運営していた小さなワークショップの名残りを絶滅させつつある。

 こうして、競争によって当然にも(そもそも競争とは必然的にそうなのだが)抑え込まれているなかで、一つの階級としてのし上がることは不可能だと労働者たちは感じ出し、連帯を求め始めた。連帯は、ちょうど、資本家の生来の傾向が競争にあるように、労働者の自然な素質なのだ。ほかのどこにも存在しないけれども、労働者のなかには希望が湧き起こりつつある。階級制による堕落に、最終的に決着をつけようという希望が…

  ■変革への希望は、中産階級にも広がっているはずだ
 この希望が中産階級にも広がっていると信じるからこそ、私はこの演壇に立っている。どうかこの考えを支持してほしい。これを成就することこそが、その他の希望、芸術の新生や真に洗練された中流階級創造につながると確信している。まことの洗練の欠如は、現在の暮らしを取りまく環境すべてがみすぼらしく下卑ている点――たとえ金持ちの暮らしでも――に如実に見て取れる。

 なかには、この階級制度という退廃を除去することに、希望ではなく恐れを抱く人もいるだろう。そういう人たちは、「こんな社会主義という問題なんて空疎な脅しでしかない、少なくともイギリスではそうだ」と考えて自らを慰めるかもしれない。つまり――プロレタリアートには先の見込みなどないから、わが国ではそのうち鎮静するだろう。急速でほぼ完ぺきなわが国商業の発展によって、下層階級の団結の力など打ち砕いてしまうだろう。だいたい、わが国では、労働者階級が階級として発展していくために結成された労働組合がすでに保守的な障害物となり、中産階級の政治家によって政争の具になっている。国全体に占める都会や工業地域の割合が非常に大きく、その住民はもはや農民からではなく、町の住民、町で育った人口から供給されているし、労働者の体格なども毎年衰え、そもそもその教育はとても遅れている――と。
 
                 ※      ※      ※

 イギリスでは労働者階級の大多数に希望がないというのは、その通りかもしれない。しばらくのあいだ、あるいは長期間でも、彼らを抑えつけておくのはそう難しいことではないかもしれない。だが、こんな希望的観測は、はっきり言って、卑劣漢の考えることだ。なぜなら、それは労働者階級がより酷い状況になることを前提にしているのだから。こういう期待は、奴隷所有者やその取り巻きたちのものでしかない。

 しかし、私は、イギリスですら労働者階級のあいだで希望はふくらみつつあると信ずる。どちらであれ、ひとつだけ確実なことがある。少なくとも、不満は渦巻いているということだ。不条理な苦難を前にして、これを疑う人がいるだろうか。週10シリングで満足して家計を維持できるという人がどこにいるだろう。あるいは表現不可能なほど不潔な部屋に住みながら、その「立派な」住まいのために週給の10シリングを払わなければならないとしたら、それでも満足という人がどこにいるだろう。

 労働者がたとえ毎日生き抜くのに忙しいとしても、自分たちをそういう状態に追い詰める金持ちにそんな資格があるのかと考える時間すらないと言えるだろうか? 自分は快適な暮らしをしていながら「この状況は社会に必要だ」と前提にする金持ちを、労働者が疑問に思う時間すらないと、果たして言えるのか。

 世の中には不満が渦巻いている。金儲けのための金儲けではなく、何かより良いことがあるはずだと考えているすべての人に呼びかけたい。この不満を、希望に、そして社会新生の要求に変えるべく、人々を教育する手伝いをしてほしい。こう呼びかけるのは、不安なからではない。私自身が不満でいっぱいであり、正義を熱望しているからだ。

  ■変革が平和的に行えるか暴力的になるかは
            中産階級の出方にかかっている
 皆さんのなかに、海外で今日湧き上がっている不満の現れ方に不安な人がいるかもしれないが、だとしたら、その不安には根拠がないとは断言できない。だが、私は社会の再建を願う社会主義の代表として皆さんの前に立っている。社会主義者を自称している人のなかには、再建ではなく破壊が目的の人たちもいることはいる。現状がひどすぎるので我慢できず(それはじっさいその通りだ)、「どんな犠牲を払ってでも攻撃をかけ社会を揺さぶり続けるしか方法がない、そうすれば社会はついにはよろめいて倒れるだろう」と考える人たちだ。

 そういう信条に対しては、不満ではなく、復興をともなう変革を願おうと訴えようではないか。そう闘う方が、やる値うちがあると思わないか。同時に、変革の時はとても遅れているとはいえ、必ずやってくると請け合いたい。中産階級がプロレタリアートの不満を意識する日がそのうち来る。それ以前にも、正義を愛し現実を見抜くことによって自らの階級を指弾し身分を投げ打って労働者と運命をともにしようとする者もあらわれるだろう。そうでない残りの人々が良心に目覚めたとき、彼らの目前には選択肢が二つある。倫理観など投げ捨てて居直るか(彼らの倫理観の四分の三は偽善だが四分の一は本物だ)、譲歩するかだ。

 いずれにしても、変革は訪れる。なにごとも、社会の新生を本格的に遅らせることなどできない。だが、それに先立ってなされるべき教育(不満の自覚)において、それを平和的なものにするのも暴力的なものにするのも、おそらく、おおいに中産階級の出方いかんにかかっていると、私は確信している。もし、それを妨害すれば、いったいどういう暴力的事態が引き起こされることか。私たち中産階級の者が特にプライドに思っている倫理観すら投げ捨てることになるだろう。しかし、変革を進める道を取れば、真実が勝利するようひたすら努力するだけだ。いったい何を恐れることがあるだろう。いずれにしても、自らの暴力や自らの圧政を恐れる必要はなくなるではないか。
 
                 ※      ※      ※

 もう一度言うが、事態は酷すぎる。しかも、あたかも正義だけは愛しているかのように見せかけ過ぎだ。労働者が完全に零落して犠牲となれば別だが、そうでないかぎり、中産階級はプロレタリアートが本格的に動き出すや否や、それを抑えつけようとして、何としてもプロレタリアートを資本の奴隷状態に固定しようと試みているではないか。

 意識的にこの不正を支えるなどとは、忍び寄る堕落だとしか言いようがないが、会場にはそんな堕落を恐れる人たちがすでにいるはずだと願わずにはいられない。詩人キーツが詠んだ「半ば無意識の圧政」から何とかして逃れたいと思っている人たちだ。じっさいのところ、「半ば無意識の圧政」こそ、金持ちに共通している状況なのだ。

 そう思っている人たちに、最後に二、三言っておきたい。どうか、中産階級という自負など投げ捨てて、労働者と運命をともにしてほしい。大義のために活動を進めるのをためらっている人のなかには、組織というもの、その言葉の持つ実務的でない響きに対する恐怖があるかもしれない。イギリス一般でよくある感覚だが、とくに教養の高い人たちのあいだで多い傾向で、こう言ってよければ、古くからある大学で一番見られる傾向だといえる。

 社会主義団体の一員として、私の意見に賛成する人に心からお願いしたい。どうか私たちの活動を助けてほしい、できるなら時間を、才能を、そしてそれがだめなら少なくとも資金援助をしてほしい。私たちに賛成なら、どうか超然とお高くとまらないでほしい。私たちは、そんな微妙なマナーや洗練された言葉づかいは身につけていない。いや、行動にあたっての思慮深さや慎重な英知も身につけてはいない。長く続く商業競争が強いた圧政が、私たちからそんなものは叩き出してしまったのだ。

  ■芸術は長く、人生は短い
    完ぺきな団体の到来を待っていたら何も出来ぬ
 芸術は長く、人生は短い。せめて、死ぬまでに何かを為そうではないか。私たちは完ぺきを求めがちだが、変化をもたらすための完ぺきな手段など見つけられない。正しい目的を持ち誠実で実現可能な手段を考えている人たちと団結できるなら、それで十分としようではないか。この闘いの時代に、完ぺきな団体が出来るまで待っていたりしたら、何らかのことを為す前に死んでしまう。

 今こそ、手伝ってほしい。恵まれた生まれのゆえに、英知と教養を身につけることができた皆さんではないか。私たちの大義の実現に向けた日々の事業を手助けして、皆さんの優れた英知と洗練とを吹き込んでほしい。そうすれば、そのお返しに、そう完ぺきに賢くもなく洗練されてもいない者たちから、勇気と希望をもらえることだろう。覚えていてほしい。この恐ろしい自分本位のシステムに闘いを挑むにあたって、武器は一つしかない。そしてその武器こそ団結なのだ。そうなのだ、そしてそれは、目的に敵対的であったり冷淡であったりする人たちと出会う際にも明確に自覚できる団結でなければならない。組織された友愛の団体こそ、金権支配が生み出した混乱の呪いを打ち破る力だ。

 ある考えを抱いているのが一人だけなら、狂人と見なされる危険がある。二人が共通して同じ考えを抱いていたら、馬鹿だとは思われるかもしれないが、狂人と思われることはないだろう。十人が考えを共有すれば、行動が始まる。百人なら狂信的な支持者かと注目を集めるだろうし、千人なら社会は揺らぎ始める。十万人が共有すれば戦闘が広がり、運動は勝利し目に見える具体的成果が握れる。いや、どうして十万人で留まる必要があるのか? 一億人が共有し、地上に平和をもたらしてはいけないのか? 皆さんと私の意見が一致するなら、この問いに応えなければならないのは、私たちだ。                               (完)


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