意義ある労働と無意味な労苦 その1

by William Morris in 1884
翻訳:城下真知子(小見出しは翻訳者がつけました)
(注:この翻訳文章は『素朴で平等な社会のために』で、バージョンアップされています)

1月のロンドンでの講演を皮切りにマンチェスターなど各地で講演された。
リーフレットにもなって社会主義者同盟の考えを広めるために使われた。

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  ■すべての労働に意義があるわけではない
    ――「勤勉に働け」にごまかされるな
 「意義ある労働と無意味な労苦」というタイトルを、奇妙だと思われる読者もあるかもしれない。こんにちでは、ほとんどの人がすべての労働に意義があると考えている。富裕層の大半などは、それが望ましいとみなしているし、そうでなくてもほとんどの人が、明らかに役に立たないと思える仕事でさえ、生活の糧を稼いでいるのだからよいと信じている。流行りの言葉で言えば「雇用されている」というわけだ[注1]

 そして、「神聖な労働」という大義のために、労働者がすべての楽しみや休日をあきらめ、ひたすら「勤勉」に働きさえしたら、富裕層はめでたい労働者に喝采し、よくやったと褒めたたえる。一言で言えば、労働というものはそれ自体が善であるという考えは現代道徳の一つの信条になっている。

 これは、他人を働かせて暮らしている者にとっては、ずいぶん都合の良い信条だ。しかし、その労働をあてにされている当の労働者たちは、それを当然だと思わないでほしい。そして、事態をもう少し深く検討してみてほしい。

 もちろん、労働しなければ人類が死に絶えるということはまず認めよう。自然はただでは生活の糧を与えてくれないのだから、程度はともかくもなんらかの苦労をしなければ、われわれは生活の糧を獲得できない。

 では、この労働の強制の代償として、自然はわれわれに何か与えていないだろうか。ほかのことがらの場合、自然はそれが耐えられるだけでなく楽しめるように采配している。たとえば個体や類の存続に不可欠な行為の場合がそうだが、これは人間労働の場合はどうだろう。

 考えてみると、自然の摂理は確かに労働の場合もそう言える。病気のときは別にして、一定の条件下で労働に喜びを感じるのは人間の本質だと言っていいだろう。

 だが、どんな労働であれすべての労働を賞賛するような偽善に対しては、はっきり言っておかなくてはならない。祝福された楽しい労働ということからほど遠い呪いのような労働も現実にあるのだ。社会にとっても労働者にとっても、こんな労働には手を出さず、腕組みして拒否したほうがいい。もっともそうすれば、その労働者は死を待つか、それとも救貧院[注2]や刑務所に追いやられる。実際、それが現実なのだ。

 このように、労働には二種類ある。良い労働と悪い労働―生活を楽しく晴れやかにする労働と、たんなる災いで生活の重荷である労働だ。

 では、両者の違いはどこにあるのか。

 それは、一方には希望が含まれており、他方には希望がないということだ。前者をおこなうのは人間らしく、後者の労働は拒否するのが人間らしい。

 では、労働する価値があると感じられるような希望、労働に内在するそうした希望はどんなものなのか。

[注1]このころからemploymentという言葉が雇用の意味で使われだした。A.N.Wilson著『The Victorians』(2002年)によれば、unemployment(失業)という言葉が生まれたのは、1880年代後半だという。このころロンドンやマンチェスターなどの主要都市で、大勢の労働者が雇用を求める自然発生的なデモがひんぱんにおこなわれた。

[注2]当時の英国では、稼ぎ手が解雇されたりして食べていけなくなった家族を、救貧院(workhouse)という施設に収容した。救貧院は、貧困者を救済する慈善施設というたてまえではあったが、家族もばらばらにされ男女別の集団生活となり、非常に粗末な食事で労働を強いられるため、多くの困窮者は救貧院行きを死地へ向かうように恐れた。ディケンズの小説『オリバー・ツイスト』では、孤児オリバーが救貧院で、あまりにもわずかなおかゆしかもらえないので「もう少しもらえませんか」と頼んで、逆に罰を受ける様子が描かれている。

  ■楽しい労働には三つの希望が含まれる
  それは三つの希望に満ちた要素から成る――休息の希望、生産の希望、労働そのものが楽しいということだ。

 しかも、その希望の要素はそれなりに豊富で良質でなければならない。ゆったりとした充分な休息がとれること、愚かでも禁欲的でもない人が自分にふさわしいと思うような生産物を作れることだ。そして、労働しているあいだ人間がはっきり感じられるような喜びに満ちていることだ。この喜びはたんに習慣的なものではなく、もっと存在感がある。落ち着きのない男がまさぐっていた紐を失くしたときに後から気づく程度のものではない。

 休息の希望を真っ先に上げたのは、それがもっとも単純で自然な部分だからである。

 そもそも、すべての労働には、たとえ喜びが含まれていても、確かにあるていどの苦痛が伴うものだ。眠っているエネルギーを駆りたてて行動へ向かわせるときの動物的な苦痛、また事態がうまくいっているときに感じる変化への動物的恐怖――こうした動物的苦痛の埋め合わせが動物的休息だ。

 労働しているあいだ、それはいつか終わるときが来ると感じられる必要がある。そして、休憩時には充分楽しめる長い休息であるべきだ。たんに、費やした力を回復するための必要最低時間ではなく、それ以上でなければならない。この休息は動物的本能的な要素もあるとはいえ、不安で落ち着かないようでは休息を楽しめない。こういう質と量の休息が持てるなら、われわれは動物よりましだといえる。

 生産については、そのために自然はわれわれを働かせると先に述べた。だが、実際に大切な物を生産し意味のないものは生産しないと心を配るのはわれわれだ。少なくとも、欲しくない物や、自分が使わせてももらえないような物を作らないと決めるのはわれわれ自身だ。それに責任をもって意志を働かせるなら、われわれは機械よりましといえる。

 労働そのものの喜びと言うと、人によってはたいへん奇妙に響くにちがいない。じっさい、ほとんどの人にとってそうかもしれない。でも私は、すべての生き物は自分のエネルギーを使うときにある種の喜びを感じると思っている。

 動物ですら、しなやかで素早く強い存在であることを喜んでいる。まして、人間が労働しているときは、存在するに違いないと感じる何かを意志して作っているのだから、身体はもちろん知性と魂のエネルギーをも行使しているわけだ。

 記憶と想像力が人間の労働を助ける。労働する人自身の考えだけではなく、過去の人間たちの思考が労働する手を導く。つまり、人類のひとりとして創造するのだ。このように労働するなら、われわれは人間となり、われわれの日々は幸せで意味あるものとなる。

 このように、価値ある労働は、休息の喜び、作った物を使う喜び、日常的に創造的技能を発揮する喜びに満ちている。

 これ以外のすべての労働は無意味だ。それは奴隷の労働だ。生きるためのただの苦役であり、苦労するために生きているだけと言ってもよい。

  ■現在の労働に、その三つの楽しい希望があるか?
 さてわれわれは、現在現実におこなわれている労働を量る二つの秤を得た。だからそれを使って量ってみよう。

 いま、文明の進歩と自由の獲得について途方もない歓喜の声が上がっている――何千年にもおよぶ苦役が続き、希望あふれる約束が何度も何度も先延ばしにされてきたあげく、やっとつかんだのだそうだ。果たして、現在の労働にそういう価値があるのだろうか。

 文明社会の労働ですぐに目につくのは、社会の各階級にずいぶん不平等に配分されていることだ。

 まず、少なからぬ人々がまったく労働していないし、労働する振りすらしていない[注3]
 次には、相当熱心に働くかなり多くの人々がいる。彼らは権利も休暇も十二分に要求できるし認められている。
 そして最後には、必死に働きそれ以外は何もできない人々がいる。このため彼らは「労働者階級」と呼ばれ、先に述べた富裕階級あるいは貴族階級や、中流階級と区別される。

 この不平等が「働く」階級に重くのしかかっているのは明白だ。この不平等のために、最低の休息の希望すら、明らかに損なわれがちだ。その意味で彼らは山野の動物よりもひどい状態なのだ。

 だがこれは、意義ある労働を無意味な労苦に変えたわれわれの馬鹿さの要約でもなければ、結末でもない。まだ、たんなる序の口なのだ。

 まず、誰もが知っているように、まったく働かない富裕層・貴族階級は、何も生産しないにもかかわらず大量に消費している。したがって、明らかに彼らは働く者の犠牲の上に養われている。まるで乞食のようなもので、社会のただのお荷物なのだ。

 最近では、多くの人がこのことを学んで理解するようになった。だがそういう人たちも現制度の邪悪さをそれ以上は見抜くことができず、この重荷を取り除く方策をまったく考えようとしていない。おそらく、下院議員の選挙法改定に漠然と期待し、魔法のように良い方向に向かうと思っているのだろう。

 こんな期待や迷信には煩わされないほうがよい。これまで国家にとってもっとも必要だと考えられていた貴族階級は少数で、いまやそれ自体では権力を持っていない。その下にある階級、つまり中流階級に支えられているのだ[注4]。じっさい中流階級は、上流階級の一番の成功者か、その直接の子孫から成り立っている。

 商人、製造業者、職業人から成る中流階級は、一般的にかなり精力的に働くように見受けられ、ちょっと見たところでは社会の重荷ではなく、むしろ助けになっているように考えられるだろう。しかし彼らの大半は、働きはするが生産はしていない。

 そして、商品の流通業者(本当に無駄なことだ)、医師、あるいは(本物の)芸術家や文筆家として生産する場合でも、自分たちの貢献度に不相応に大量に消費する。

 商業や製造業に携わっているもっとも強力な中流階級は、自分たちの富の分け前をめぐる仲間うちの抗争に生活やエネルギーを費やしている。だがその富は、本物の労働者を無理やり働かせてつくらせたものなのだ。

 残りの中流階級は、ほとんどまったく彼らの腰巾着で、社会全体のためではなく特権階級のために働く。彼らは資産の寄生虫だ。法律家などのように、あからさまにそう振る舞う者もいる[注5]。先に述べた医者その他の職業は、役に立つように装ってはいる。しかし、ほとんど何の役にも立たず、彼ら自身がその一員である愚劣でインチキで暴虐的な体制の支持者でしかない。

 そして忘れてならないが、一般的に言って、彼らは皆あることを目指している。それは、公共のための生産ではなく、自分自身あるいは子供のために働かなくて済む地位を獲得することだ。それが彼らの野望であり、全人生における獲得目標なのだ。自分自身のためか、さもなければ子孫のために、自慢の地位――明らかに社会のお荷物でしかない地位――を得たいのだ。

 彼らにはまがいものの威厳がただよっているかもしれないが、じつは自分の仕事などまったく気にかけてもいない。ただし、二、三の熱心な人々や科学者、芸術家、文筆家は別だ。彼らは「地の塩」ともいうほと善良な市民ではないとしても、少なくとも惨めな体制に尽くす「塩」なのだ(残念なことだ!)。彼らは体制の奴隷で、体制はことあるごとに彼らを妨げ、くじき、腐敗させさえする。

 このように、全権力を握る非常に多数の中流階級がいる。この階級もほとんど何も生産せず、巨大な量を消費する。だから基本的に、乞食のように本当の生産者に支えられているわけだ。

[注3]当時の貴族階級では、働かなくても安穏と暮らしていけることがステータスの証だった。彼らは働かずに一日を過ごす。たとえば午後には知り合いを訪問してお茶を飲みゴシップを交わし、夜はパーティや劇場やクラブに出かける。貴族でも職を持とうとする者は、金銭的理由ならもちろん、生きがいのためであっても、貴族仲間から軽蔑された。

[注4]いまの日本では多くの人が自分を中流だと考えているが、貴族が階級として厳然と存在している英国では、中流階級と言えば日本人の感覚より少し「上流」になるようだ。とりわけ資本主義勃興期である19世紀では、中流階級とは、教育を受ける余裕があり、商売などを始める資金も持っている特別な層であった。こうして成り上がっていった中流階級は、経済学的には資本家階級とほぼ重なっていく。

[注5]当時の裁判官や検事などは多くの場合、社会的地位のある人物(つまり貴族階級や中流階級)が正しいという予断を前提としていたし、弁護士も、報酬を支払う資金のある特権階級しか雇うことはできなかったわけで、現在のような「庶民の味方」はいなかった。モリスも街頭演説をした罪で逮捕され裁判にかけられている。その経験から、法律家とは特権階級の代弁者でしかないと言っているのだろう。

  ■労働者階級に重くのしかかる労働=無駄の生産
 さて、最後に検討すべき階級は、生産物すべてを生産する階級だ。それによって自分たちと他の階級すべてを支えているが、他の階級より劣る位置に置かれている。もっとも、本当の劣等とは心身ともに堕落している場合なのだが。

 ともあれ、この圧制と愚劣さの必然的結果として、この労働者のうちの多くは、まだ生産者とは言えない。大多数の者は、たんに資産の寄生虫である。なかには、寄生虫ぶりがあからさまな者もいる。たとえば、陸海軍の兵士などは、終わりなき国家間の抗争や敵愾心のため、不払い労働によって生産された生産物の分け前をめぐる紛争のため、つねに行進させられている。このように明白に生産者の重荷である兵士と、それとほとんど同様の召使いたちがいる。

 それ以外には、事務員、店員などの大群が存在する。彼らは、さきに述べた富裕な中流階級による富獲得のための私的争い(これが中流階級の本当の職業だ)に仕えるために雇われているのだ。これは想像以上に大きな労働者の集団である。

 このなかには、いわゆる競争にあけくれるセールスマン、あるいはもっと平たく言えば、過大広告に励んでいる者すべてが含まれる。そういう広告は驚くべき勢いで氾濫し、生産に使う経費よりも販売に使う費用のほうがはるかに大きい商品がたくさんあるほどだ。

 次に、愚かで贅沢な製品を生産するために雇われている人々の集団がある。こういう需要は、非生産的な金持ち階級が存在することによってもたらされているものだ。このような製品は、堕落した生活とは無縁な、人間らしい人間なら欲しいとも思わず夢にも考えつかないようなしろものだ。

 誰に反対されようとも、私はこういうしろものを富(wealth)と呼ぶのは絶対に拒否する。それは富などではない。ただの無駄だ。

 富とは、自然がわれわれに与えてくれるものであり、道理をわきまえた人間が道理にかなった用途のために自然の恵みのなかから作り出すものだ。日光、新鮮な空気、そこなわれていない地面、食物、必要で見苦しくない衣服と住居、あらゆる種類の知識の蓄積、そしてそれを広める力、人間同士が自由なコミュニケーションを取るための手段、芸術品、人がもっとも人間らしく向上心に燃え思慮深いときに創造する美、自由で人間的で堕落していない人間の喜びのために役立つすべてのもの―それが富だ。

 このカテゴリーに含まれないものなど、持つ価値があるとは思えない。だが、世界の作業場たるイギリスの生産品を考えてみてほしい。そうすれば、私と同じように困惑するのではないか。まともな人間なら望みもしないような品々が、われわれの無意味な労苦によって大量に作り出され販売されているのだ。

 だが、さらにもっと悲しい産業さえ存在している。多くの、非常に多くの労働者たちが強制されている、自分と同胞のための惨めな必需品の生産だ。劣等階級だから、そういうものを作らされるのだそうだ

 多くの人間が生産しなければ、人類は貧しくなる。いや、生産しないどころか、あまりにも空虚で馬鹿げた生活を送っているために、誰も必要としない物、金持ちでさえ欲しがらないような物の生産を労働者に強制するのだから、人類の大半が貧しくなるのも当然だ。しかも、労働者にとっては、彼らが支えている階級から与えられる賃金が生活費だから、人間なら自然に欲しくなるような製品を買うことなどできない。下層階級向けの惨めな間に合わせで辛抱しなければならないのだ。

 滋養にならぬ粗悪な食物、体の保護もできない不潔な衣服、そして、悲惨な住居で我慢させられる。遊牧民のテントや有史以前の未開人の洞窟と比べてさえ恥ずかしいのが、文明社会の都市生活者の住居なのだ。それだけではない。労働者たちは偉大な世紀の産業的発明―粗悪品製造にまで手を貸さなければならない。

 こうして、労働者自身が使う粗悪品と、金持ちのためのまがいものの贅沢品が作られる。賃金労働者はつねに賃金を支払う者が命ずるとおりに生きなければならない。彼らの生活習慣は、まさに主人たちによって強制されるのだ。

 だが、新時代が誉めそやす安価な商品生産への軽蔑をいくら言い表そうとしても、時間の無駄というものだ。現代工業が依拠する搾取体制にはこの安さが必要なのだと言えば十分だろう。

 言いかえれば、われわれの社会には、奴隷として衣食住と気晴らしを与えなければならない大量の捕らわれ人が含まれており、その奴隷は毎日の必需品を稼ぐために強制的に奴隷向け商品を生産させられている。その商品を使用し奴隷制度は永遠に続く。
                                          (その2に続く)

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